第十話 色のない魔法
「先生、その解き方、教科書に載ってません。」
放課後。
数学準備室。
一人の男子生徒が驚いた顔でノートを見ていた。
「うん。」
俺は笑う。
「教科書は答えへ行く道を教えてくれる。」
黒板へ式を書く。
「でも。」
別の線を引く。
「道は一つじゃない。」
少年は何度も式を見比べた。
「あ。」
目が開く。
「こっちの方が分かりやすい。」
「そう。」
俺は頷く。
「大事なのは答えだけじゃない。」
「考え方だ。」
その時は気づかなかった。
いつか。
魔法でも同じことを考える日が来るなんて。
◇◇◇
祭りから三日後。
リスは庭で魔法の練習をしていた。
水の槍。
風の刃。
光の障壁。
動きが美しい。
「すごい。」
思わず見入ってしまう。
「見る?」
リスが笑う。
「いいの?」
「もちろん。」
彼女は掌へ小さな水球を作った。
丸い。
揺れない。
俺が何度も失敗した形だ。
「どうやって維持してるの?」
「流れを止めない。」
リスは指先を少し動かす。
「川みたいに。」
川。
流れ。
俺はその言葉を頭の中で反芻した。
◇◇◇
その日の午後。
一人で本を開く。
『初級魔術理論』
何度読んでも。
気になることがあった。
火。
水。
風。
土。
全部。
「属性へ変える方法」は書いてある。
でも。
「属性になる前」が書いてない。
(おかしい。)
数学なら。
定義が先にある。
数字があって。
計算がある。
魔法も同じじゃないか。
属性は結果。
なら。
その前は何だ?
◇◇◇
庭へ出る。
目を閉じる。
昨日感じた魔力の流れ。
細い糸。
それを探す。
見つけた。
今日は昨日より早い。
胸。
肩。
腕。
掌。
そこで。
いつもなら。
火へ変える。
水へ変える。
でも。
今日は変えない。
そのまま。
そのまま。
そのまま。
「……。」
何も起きない。
でも。
何か違う。
掌の温度が変わる。
熱くない。
冷たくない。
風でもない。
水でもない。
「これ。」
目を開ける。
掌の上に。
透明な揺らぎが浮かんでいた。
光?
いや。
空気が少し歪んで見える。
まるで夏の陽炎みたいだった。
「属性がない。」
自然に呟く。
色がない。
匂いもない。
でも。
確かに存在している。
◇◇◇
試してみる。
少しだけ押す。
揺らぎが前へ動く。
消えた。
もう一度。
今度は丸くする。
形が崩れない。
「水球より。」
「簡単?」
不思議だった。
火を作る方が難しい。
なのに。
これなら自然に維持できる。
本を開く。
索引を見る。
「無属性。」
ない。
「原初。」
ない。
「純魔力。」
ない。
載っていない。
(教科書にない。)
その瞬間。
前世の記憶が重なった。
「道は一つじゃない。」
そう教えたのは。
俺自身だった。
◇◇◇
夢中になっていた。
だから。
気づかなかった。
「ラーズ。」
振り向く。
リスだった。
「お姉ちゃん。」
彼女は笑っていた。
最初は。
「何してるの?」
「実験。」
「実験?」
俺は掌を見せる。
「これ。」
リスが近づく。
一歩。
二歩。
三歩。
そして。
止まった。
笑顔が消える。
「……え?」
彼女は目を凝らす。
「もう一回。」
言われた通り。
魔力を集める。
透明な揺らぎ。
形を保つ。
五秒。
十秒。
十五秒。
リスの呼吸が浅くなる。
「ラーズ。」
「うん?」
「それ。」
「誰に教わったの?」
「誰にも。」
本当だった。
教わっていない。
考えた。
試した。
それだけだ。
リスは俺の手を掴む。
「もう一回。」
「いいけど。」
「ゆっくり。」
今度はもっと丁寧に。
呼吸。
流れ。
揺らぎ。
彼女は掌へ触れた。
その瞬間。
目を見開く。
「密度が。」
小さく呟く。
「ありえない。」
◇◇◇
「火にして。」
言われる。
やってみる。
透明な揺らぎ。
そこへ。
火のイメージを重ねる。
ぼっ。
小さな炎。
「……。」
リスは黙る。
「水。」
やる。
変わる。
「風。」
変わる。
土。
変わる。
全部。
一度「透明な揺らぎ」を作ってからの方が。
ずっと滑らかだった。
「ラーズ。」
リスは座り込む。
「普通は。」
ゆっくり言葉を選ぶ。
「属性を作る。」
「うん。」
「でも。」
俺の掌を見る。
「あなたは。」
「属性になる前を触ってる。」
その言葉が。
俺にも初めて腑に落ちた。
◇◇◇
夕方。
リスは一人で本を読み返していた。
何度も。
何度も。
ページをめくる。
「ない。」
学院の教本。
ガレスの本。
どちらにも。
透明な揺らぎは載っていない。
(学院なら。)
(先生なら知ってる?)
いや。
分からない。
でも。
一つだけ確かなことがある。
五歳。
この年齢で。
ここまで魔力を安定させる子どもはいない。
◇◇◇
夜。
両親が寝室へ向かった頃。
リスが父さんを呼び止めた。
「お父さん。」
声が真剣だった。
父さんも表情を変える。
「どうした。」
外へ出る。
俺は部屋へ戻った。
……つもりだった。
でも。
窓が少し開いている。
風と一緒に。
二人の声が少しだけ聞こえた。
聞こうとしたわけじゃない。
でも。
聞こえてしまった。
◇◇◇
「ラーズのこと。」
リスが言う。
「学院へ送る時期。」
父さんが答える。
「十歳の予定だ。」
村では。
それが普通らしい。
「早めた方がいい。」
沈黙。
父さんが低く尋ねる。
「理由は?」
「魔力。」
リスの声が震える。
「才能じゃない。」
「制御。」
「考え方。」
「全部。」
一呼吸置く。
「五歳じゃない。」
父さんは黙っていた。
「もし。」
リスは空を見る。
「誰かに知られたら。」
「狙われる。」
その一言で。
夜が急に冷たくなった気がした。
◇◇◇
父さんはすぐには答えなかった。
長い沈黙。
やっと口を開く。
「俺も。」
少し笑う。
「気づいてた。」
「え?」
「ラーズは。」
「少し変わってる。」
「でも。」
父さんは遠くの森を見る。
「まだ子どもだ。」
「うん。」
「守る。」
短い言葉だった。
でも。
重かった。
リスは頷く。
「私も。」
「守る。」
◇◇◇
部屋へ戻る。
窓から星を見る。
透明な揺らぎ。
掌へ小さく作る。
色がない。
でも。
どんな色にもなれる。
その魔法は。
本には載っていない。
だからこそ。
少しだけ怖かった。
同じ頃。
村の北の森。
月明かりの届かない奥。
一本の巨大な古木が。
風もないのに。
静かに葉を揺らした。
まるで。
誰かが生まれたばかりの才能へ。
耳を澄ませているようだった。




