ニュー・セーレムの微睡(まどろみ)
目覚めた場所は、コンクリートの上ではなく、純白の楽園だった。
労働も、競争も、理不尽な叱責もない、完璧に最適化された都市『ニュー・セーレム』。
与えられるだけの幸福に底知れない恐怖を抱く新野 審の前に、あの時自分を突き落としたはずの女——加賀 恵留が、秩序の「選別者」として再び姿を現す。
完璧な調和にノイズが走る時、二人の狂った歯車が再び噛み合い始める。
不快な目覚まし時計の音はなかった。
代わりに、柔らかい春の陽光のような光の粒子が、瞼の裏を優しく撫でた。
新野 審が目を覚ました時、そこは駅のホームのコンクリートの上ではなかった。
シルクよりも滑らかなシーツ。体圧を完璧に分散させる浮遊感のあるベッド。
視線を動かせば、そこはホテルのスイートルームをさらに洗練させたような、純白の私室だった。
「……死んだ、はずだよな」
自分の声が、驚くほど澄んで響いた。
喉の痛みも、残業明けの頭痛も、あの凄まじい鉄塊の衝撃も、どこにもない。
壁のモニターが、彼の起床を察知して柔らかな文字を浮かび上がらせる。
『おはようございます、新野 審 様。本日の予定は「自由」です。摂取カロリーと栄養バランスは、睡眠中に最適化されました』
立ち上がろうとすると、ベッド脇のサイドテーブルから音がした。
見れば、そこには一杯のコーヒーが、彼が最も好む温度で、最も好む豆の挽き具合で、すでに用意されている。湯気が、意志を持っているかのように審の鼻腔をくすぐる。
一口、啜る。
完璧だった。完璧すぎて、吐き気がした。
窓の外へ目を向ければ、そこには幾何学的に整えられた美しい都市——『NEW-SALEM』が広がっていた。
通りには無音で走るオートメーションの搬送機が、人々が望む物資を、望む瞬間に届けている。清掃ドローンが塵一つ残さず、街は常に「完成」されている。
審は、クローゼットへ向かった。
扉が開くと、そこには彼のサイズに完璧に仕立てられた服が、色彩学的に最も彼を引き立てる順に並んでいる。
服を選び、袖を通す。その瞬間、彼の肌に馴染む感触まで計算されているのが分かった。
「……何だよ、これ」
彼は部屋を出た。
廊下ですれ違う人々は皆、穏やかな表情を浮かべていた。
怒っている者も、急いでいる者もいない。
街の公園のベンチに座ると、すぐさま隣のデリバリーユニットから、彼の好物であるはずの軽食が差し出された。
労働。対価。競争。
それらが完全に消滅した世界。
だが、審の胸に去来したのは、多幸感ではなく、底知れない「恐怖」だった。
ここでは、誰も自分を突き飛ばさない。
誰も自分を叱責しない。
だが、同時に、誰も自分を必要としていない。
彼は、自分の手のひらを見つめた。
もし、この手が何にも触れず、誰の役にも立たず、ただ与えられるだけの存在になったとしたら。
この肉体は、「生きている」と言えるのか。
その時だ。
完璧に舗装された歩道の向こうから、一人の女性が歩いてくるのが見えた。
——加賀 恵留。
あの時、駅のホームで自分を突き飛ばしたはずの女。
彼女は今、政府機関『GEHENNA』の制服に身を包み、この平和な都市の秩序を守る「選別者」として、審の前を通り過ぎようとしていた。
彼女の視線が、一瞬だけ審を捉える。
だが、そこには殺意も、再会の喜びもなかった。
ただ、異物を排除するかのような、冷酷な光が宿っている。
審の頭の中に、爆辞のような痛みが走った。
DNAの深層が、警報を鳴らしている。
「……待て。あんた、俺を……」
声を上げた瞬間、街の至る所にある監視カメラが、一斉に彼の方へ向いた。
完璧な秩序に、初めて「ノイズ」が走った瞬間だった。
ご一読いただきありがとうございました。
誰もが穏やかに暮らす楽園『ニュー・セーレム』。しかしその実態は、わずかな「ノイズ」さえも許さない、完璧に管理されたディストピアでした。
自分を殺したはずの女・加賀 恵留が所属する政府機関『GEHENNA』とは何なのか。そして、一斉に審へと向けられた監視カメラのレンズが意味するものは——。
楽園の秩序に抗う、審の本当の「生存」をかけた戦いがここから始まります。




