アビスへの連行
完璧な楽園『ニュー・セーレム』に響き渡った、一筋のノイズ。
政府機関『GEHENNA』の護送ユニットに拘束され、巨大な尖塔の地下へと連行された新野 審。
影一つない尋問室で彼を待ち受けていたのは、ニュー・セーレムのすべてを監視する巨大な眼と、メスに似たデバイスを手にした加賀 恵留だった。
「バグを修正する場所」で、冷酷な選別者が審の喉元に刃を突きつける。
だが、その冷徹な仮面の裏で、彼女の唇は微かに震えていた——。
審の叫びは、ニュー・セーレムの静謐な空気を切り裂く醜いノイズとなった。
その瞬間、街の色彩が一段階、冷たく反転したように見えた。
歩道のデリバリーユニットが停止し、穏やかだった市民たちが、まるでゼンマイが切れた人形のように足を止める。数千の視線が、一斉に審へと注がれた。
「……ッ!」
加賀 恵留は足を止めなかった。
彼女はただ、手にした薄い端末を一度だけ叩いた。それだけで、審の足元が物理的に凍り付いたかのような拘束感が襲う。
背後から、音もなく滑り込んできたのは、純白の装甲車——GEHENNAの護送ユニットだった。
中から現れたのは、表情をバイザーで隠した二人組の執行官。彼らの動きには「交渉」の余地など微塵もなかった。
「個体識別番号、未登録エラー。新野 審。保安規定第十二条に基づき、再調整センターへ連行する」
両脇を抱えられ、審の足が地面から浮く。
抵抗しようにも、全身の筋肉が微弱な電磁波によって麻痺させられているのか、指一本動かせない。
護送車に放り込まれる直前、審の視界に恵留の後ろ姿が映った。
彼女は一度も振り返らなかった。だが、その指先が、端末の画面上で「一瞬だけ」複雑な軌跡を描いたのを、審の動態視力は見逃さなかった。
それは、駅のホームで彼を突き飛ばしたあの夜の、非情な手の動きと重なっていた。
重厚なハッチが閉じる。完全な遮断。
車内には、吐き気がするほど清潔な消毒液の臭いと、低く唸るようなAIの走査音だけが充満していた。
「……おい、俺は……俺はただ、あいつに聞きたいことがあっただけだ!」
審が絞り出した声は、車内の音響パネルに吸収され、反響すら残さない。
前方モニターには、審の生体データがリアルタイムで投影されていた。
血圧、心拍数、アドレナリン濃度。それらは「感情」としてではなく、修正すべき「エラー値」として赤く点滅している。
やがて、護送車は巨大な尖塔——奈落ノ蔵(GEHENNA)の地下へと吸い込まれていった。
自動ドアが開くと、そこは影一つないほどに照らされた、広大な尋問室だった。
中央に固定された椅子。それ以外には何もない。
審は椅子に拘束され、正面の壁を見つめた。
壁が透過し、そこには数千、数万のモニターが並ぶ「管制室」が広がっていた。ニュー・セーレムの全市民を、血管の一本一本まで監視する、巨大な眼。
そして、そのモニター群を背に、加賀 恵留が立っていた。
彼女の手には、先ほどよりも鋭利な輝きを放つ、医療用のメスにも似たデバイスが握られている。
「ここは、GEHENNA。この世界の『外部』を夢見るバグを、修正する場所」
恵留が、審の喉元にデバイスを近づける。
監視カメラの赤いランプが、死神の目のように二人を凝視している。
彼女の唇が、監視AIにすら読み取らせないほど、微かに、そして激しく震えた。
「……新野 審。あなたの『絶望』を、もっと深く定義しなさい。そうでなければ、ここで消えるだけよ」
デバイスが皮膚を掠めた瞬間、審の脳内に、自分のものではない記憶が逆流し始めた。
第3話をお読みいただきありがとうございました。
監視AIの眼が光る尋問室で、恵留が審に囁いた「あなたの『絶望』を、もっと深く定義しなさい」という歪な警告。それは彼女なりの、審を消滅から救うための裏工作なのか、それともさらなる地獄への誘いなのか。
デバイスが触れた瞬間、審の脳内に逆流し始めた「自分のものではない記憶」の正体とは一体何なのか。
世界の『外部』を巡る謎と、二人の狂った境界線が交錯する第4回、どうぞお楽しみに!




