プロローグ:境界のホーム
「——審判を、始めます」
電車が迫るホームの縁、背後から響いたのは世界の終了音だった。
死の直前、男の脳裏を駆け抜けたのは「数十年後に出会うはずの生徒」がくれた飴玉の香り。
衝撃と共に、世界は一度、完全に『未読』へと戻る。
新野 審は、自分の背中が「重い」と感じていた。
それは残業明けの疲労による筋肉の強張り(こわばり)でも、安物のスーツが吸った湿気のせいでもない。もっと鋭利で、物理的な質量を持った「視線」が、肩甲骨の間に突き刺さっていた。
西国分寺駅、下りホーム。午後六時四十二分。
オレンジ色の夕陽が、防護柵のないホームの縁を血の色に染めている。
「……有給、取ればよかったな」
審は、誰に聞かせるでもなく、乾いた唇を動かした。
明日出さなければならない報告書。飲みかけのペットボトルの茶。来月の家賃。そんな「生存のノイズ」が思考の 99% を占めていた。だが、残りの 1% が、警笛のように鳴り響いている。
——後ろに、何かがいる。
振り返ろうとした瞬間だった。
背後の空気が、ふわりと爆ぜた。
そこに立っていたのは、冬の空気よりも冷たい皮膚感を持った女だった。
加賀 恵留。
彼女の瞳には、怒りも、憎しみも、ましてや慈悲もなかった。ただ、演算を終えた機械が淡々とタスクを処理するように、彼女の白い指先が、審の背中に触れた。
「……あ」
言葉になる前の吐息が、夕闇に溶ける。
恵留の唇が微かに動いた。それは、後に彼が『ニュー・セーレム』で再会した時に聞く冷徹な声ではなく、もっと根源的な、システムの「終了音」に近い響きだった。
「——審判を、始めます」
ドン、と。
驚くほど軽い衝撃だった。
だが、その一押しは、新野審という 30 年の物語を、物理法則の彼方へと突き飛ばすには十分すぎた。
視界が、ゆっくりと傾く。
ホームのコンクリートが遠ざかり、代わりに、巨大な鉄の塊が放つ地響きが、鼓膜を直接揺さぶり始める。
(ああ、そうか。俺は今、死ぬのか)
迫りくる電車のヘッドライトが、彼の網膜を真っ白に焼き潰していく。
その光の渦の中で、審は不思議な感覚に陥っていた。
死ぬことへの恐怖よりも先に、なぜか、「このシーンを、以前にもどこかで見たことがある」という、強烈な既視感が全身を駆け抜けたのだ。
電車のブレーキが悲鳴を上げる。
肉体が、冷たい鉄と衝突する直前。
審の脳裏を、一粒の「飴玉」の甘い香りがかすめた。
——それは、数十年後の彼が、一人の生徒から受け取るはずの、存在の味だった。
衝撃。
そして、世界は一度、完全に「未読」へと戻る。
ご一読いただきありがとうございました。
日常のすぐ隣にある断絶、そして理不尽なシステムによって一度「未読」へと戻された新野 審の30年。
迫る電車の光の中で彼が感じた強烈なデジャヴと、口の中に残ったはずのない甘い香りの正体とは何なのか。
彼がのちに『ニュー・セーレム』で加賀 恵留と「再会」を果たす時、失われた時間が本当の意味で動き始めます。
終わりから始まる彼らの旅路を、ぜひ最後まで見届けていただければ幸いです。




