第六話 神域
島根県の出雲大社と須佐神社を結んだ直線の、ちょうど中間地点あたり。
神西湖の南岸に水狭神社がある。
創建は不明で、一説には出雲大社と同じく神代とされている。
主祭神は大国主大神であり、由緒によれば、幽世に去った大国主大神が現在の出雲大社で祀られた直後に勧請され、大国主大神の后神たる須勢理毘売命の生誕の地とされるこの地に創建されたとある。
風光明媚で静かな町にあるこの小さな神社は、少子高齢化や過疎化によって年々氏子の数も減少。
社殿の修復もままならない状況に陥っており、この由緒正しき水狭神社もご多分に漏れず消滅の足音が聞こえ始めていた。
睦貴がこの町外れの小高い丘にある水狭神社に到着した頃には、もう夕日が日本海に差し掛かっていた。
島根空港に降り立った時、睦貴の腕時計は、もはや「時刻」を刻むことを止めていた。
秒針は、正確に、無機質に、時を逆行し続けている。
一秒戻るたびに、睦貴の背後で現実が削り取られていくような、正体不明の悪寒が背筋を走った。
天(Tian)は沈黙したまま、睦貴をこの世界から遡及消去しようとしているかのようだった。
夕日に染まる日本海の波音を聞きながら、睦貴は祈り続けていた。
古来より日本人が火を灯し続けてきた、信仰や祈りでさえ消滅の危機にある日本。
社殿の瓦も剥がれかけたこの廃れゆく聖域こそが、最新鋭の地下要塞ですら到達できなかった「非対称の解」が眠る場所であることを願って。
境内の石段を一段登るごとに、世界から音が消えていく。
神域に近づくごとに、空気の澱みが薄れ、自身の生体波動と神域の波動が同調するかの感覚を覚える。
鳥居をくぐり拝殿に目をやると、参道を掃き掃除している水狭神社の宮司であり、実父の奏貴がいた。
今年で65歳になるが、背筋は真っ直ぐに伸びており、歩く足運びから竹ぼうきを操る腕の動きまで、所作のいちいちが美しい。
奏貴は、宮司として凛然たる和やかさを放っていた。
「おぉ、よう帰ってきたな。忙しい中、わざわざ帰ってきてくれて、母さんもきっと喜ぶわ。まぁ、まずは神さんにご挨拶してきなさい。それにしても、この歳になると、さすがに体使う仕事はこたえるけんど、お前の顔見たら、ちっとは元気出るわ」
睦貴の姿に気付いた父が、昔と同じ柔らかな笑みを浮かべ優しく語りかけてくる。
母親は睦貴が中学生の時に若くして癌で亡くなっており、以来、父である奏貴が男手ひとつで睦貴を育ててきた。
多感な時期に最愛の母親が癌に侵されいることを知った少年の睦貴は、その日から懸命に拝殿で祈った。
祈りの対象は祭神の大国主でも、天照大御神でも、大黒天でも大日如来でも何でもよかった。
祈ることで神の奇跡を信じたかった。
しかし、その祈りは届くことはなかった。
「神さんがほんまにおるんだったら、母さんが死ぬことなんかなかったはずだわ。あんなに祈ったのに、結局、母さんは死んだが。神さんは、オレらに何もしてくれんかった。手ぇ差し伸べてもくれんで、そげな神さんなんか、もう要らん!」
父子で祭事に臨んでいる最中、父に向かって睦貴は泣きながら叫んだ。
それ以来、睦貴が神前で祈ることはなくなり、祭事に従事することもなくなってしまった。
そのまま大学進学のため東京に出ていく睦貴を、父は変わらず優しい笑みで見送った。
本来であれば、先祖代々の稼業である神社を継ぐために神職を目指すはずであったが、睦貴は敢えて別の道を選んだ。
父は一言も「神社を継げ」や「神に祈れ」などといった、睦貴の人生を縛るような言葉は発しなかった。
それでも睦貴が徐々に信仰を取り戻し、神への敬意を再び持つに至ったのは、神に奉仕する真摯な父の背中を見ていたからであろう。
拝殿に昇殿し、二拝四拍手一拝にて丁寧に拝礼する。
変わらぬ柔らかい笑みを浮かべ、奏貴はその姿を静かに見守る。
季節はもう暖かな春であったが、拝殿の中はひんやりとした澄んだ空気に包まれていた。
空気が冷たく感じるのは、気温のせいだけではないだろう。
二人は並んで床几に座り、互いの近況を報告し合った。
最近都会から引っ越してきた若い夫婦が子供を授かり、近く安産祈願に来ること。
神社の玉垣によく小便をして怒られていた悪ガキが、立派になって成人奉告の祈祷に来たこと。
嬉しそうに語る父の報告は、地域住民のことばかりだった。
地域とともに存在し、地域のために祈り、見守り、包み込むように育んできた。
神社が積極的に誰かに干渉することはない。
しかし、人々が神社を訪れた時、神社は静かにその祈りのすべてを受け入れる。
まるで海のような存在だなと、睦貴は思う。
そしてそれは、自分の歩む道を静かに受け入れてくれた、父に対しても同じ思いであった。
本殿の改修が必要だが、その目処が立っていないこと。
子供神輿を出すことすらできず、今年から例大祭の縮小を余儀なくされたこと。
睦貴に心配をかけまいと伏せている父の優しさに頭が下がる思いがした。
「それでな…お前が帰ってきたのには、ちゃんと大事な訳があるっちゅうことは、聞いとるよ。この前な、あの暴れん坊が、久しぶりにここへ訪ねてきてな。相変わらず気性が荒うて、まるで須佐之男命が根の国から戻ってきたみたいな迫力だったわ」
「あの暴れん坊」とは、内閣総理大臣である須賀 猛のことだ。
猛がまだ幼かった頃、乱暴を働き大人に叱られた際に水狭神社に逃げ込んできたことをきっかけに、奏貴との付き合いが始まった。
以来、猛は胸の中に押し込んだ感情が堪えきれなくなるたびに、水狭神社へ来ては奏貴と語り合い、そして清々しい表情で帰っていった。
激流のような生き様の猛とは対照的に、温厚で静謐な奏貴の包容力が、いつしかこの二人を強く結びつけていた。
「ところがな、その猛も、わしとここで二人きりになった途端、急におとなしくなってな。今、国がえらいことになっとるっちゅう話をしてきた。それから……お前の仕事のことも、行き詰まっとることもな。お前が背負っとるもんの重さは、正直、わしには想像もつかん。そんで、猛からわしにな、お前に話をしてやってくれって、頼まれてな。もしかしたらな、ちっとでも力になれるかもしれん、そう言っとったわ。」
国の大事を父が知っていたことに、睦貴は驚きのあまり思わず立ち上がった。
勢いよく立ち上がった睦貴に動揺することもなく、奏貴は静かに言葉を続ける。
「あれは……もう十年以上前になるかの。お前が、波動がどうのこうの言っとった頃だわ。そのあとでな、猛の秘書だっちゅう、ほれ、あの鼈甲の櫛田さんとこの娘さんが訪ねてきてな。お前の研究のことを、あれこれ聞いていかれたんだ。正直なところ、わしには波動が何なのか、よう分からんかったがな」
秘書は奈緒のことで間違いない。
「人から波が出とるんなら、神さんから出とっても、おかしかないんじゃないか、そう答えたよ。そうしてな、その波が満ちとる場所が、神域ちゅうて呼ばれとる、神社なんじゃないか…そんな話をしたのを、よう覚えとるわ」
人と違う波動が満ちる空間、それが神域であると父は言う。
睦貴は全身に電撃が走る感覚に襲われた。
内閣総理大臣として帰郷を命令したのは、当時の父の情報を精査しろということだったのか。
確かに人間から発せられる生体波動があるなら、動植物やその他の波動が存在していても不思議ではない。
神から波動が出るなどとはお伽噺に過ぎるが、例えば人々の祈り…残存思念のようなものが波動として存在していても不思議ではない。
睦貴はデバイスを取り出し、周囲の波動をセンサーで読み取る。
モニターに映し出されたものは、およそ波形とは言い難い不規則なものだった。
デバイスがノイズを吐きながら、無理やりその波形を解釈しようと悲鳴を上げているようであった。
明らかに人間の生体波動とは異なる波形だ。
「これは…」
愕然とする睦貴の目に時計が映る。
天(Tian)の干渉を受けて狂ったように逆回転を続けていた秒針が、まるで巨大な力に組み伏せられたかのように、垂直の位置でぴたりと静止している。
聖府の神である天(Tian)の干渉すら跳ねのける神聖な波動。
天(Tian)が「精緻な計算」なら、この場所にあるのは「圧倒的な意志」だ。
人の残存思念では到底及びもしない、もっと違う何かがこの空間にはある。
数千年前からアップデートを拒み続けてきた、この国のむき出しの「理」そのものだというのか。
だが、あまりにも時間がない。
これが何であるかを解析する余裕は、今の日本には残されていない。
新たな発見に狂喜したと思った矢先に、目の前の現実に打ちひしがれる。
乾いた笑いが口から漏れ、睦貴はストンと床几に腰を落とした。
「もう…俺にはどうすることもできない。こうして藁をも縋る思いで故郷に戻って、あと一歩のところでその手掛かりも尽きる。もしも八百万の神がいるなら、邪神でも何でもいい、俺に代わってこの日本を救ってくれ…」
言葉は力なく地面へと消えてゆき、それを追うように諦めにも似た深い溜め息が吸い込まれてゆく。
「……るのだ」
普段とは違った厳粛な表情で、睦貴を真っ直ぐに見据え、父の奏貴は口を開く。
「父さん、今なにを…?」
「おられるのだ、神さんは。神さんは今もなお、この日本の国に確かにおられるのだ、睦貴」
そこに在ったのは温厚な父親ではなく、神威を身に纏う厳粛なる一人の神職の姿であった。




