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第四話 幸福

須賀 猛は島根県出身の政治家だ。


若い頃は良く言えば豪放磊落、悪く言えば粗野で短気な性格だった。

幾度となく暴力沙汰に巻き込まれたが、自ら好んで拳を振るうことはなかった。


無造作に肩甲骨まで垂らした長髪に、山男を思わせる体格と風貌。

そして圧倒的な暴力。


助けを求められれば理由も聞かず応じ、理不尽を目にすれば黙っていない。

その単純で不器用な正義感は、時に感謝よりも恐怖を集めることもあった。


故郷を離れ、政治の道へ進んだのは、力を拳ではなく制度で使うためだった。

大学卒業後、故郷へ戻り、政治家の秘書となる。


25歳で市議に初当選。

その後、県議を経て、40歳で衆議院議員となる。

総理への道は、そこから始まった。


初登庁の日。

議員会館の廊下を歩く猛の後ろに、一人の秘書が控えていた。

櫛田奈緒、現在の総理秘書官である。




「私はな、あいつら国民を大切に思っている」


窓の外を見つめたまま、猛は独り言のように呟く。


「いや、愛していると言い切ってもいい。あいつらが望む未来を創ってやりたい。そのために私はここに立っている」


睦貴は何も言わず、ただ小さく頷く。

総理の座を目指した理由も、その過程で清濁併せ呑み、時に手を汚してきたことも。


すべては日本国民のため。

歪なほどに真っ直ぐな、愛ゆえであることを、睦貴は知っている。


「だがな睦貴、だからといってだ。反体制派が大多数を占めることになったとしても、私は認めるわけにはいかん。あいつらの望む未来とは、聖府への帰順だ。あいつらを愛しているからこそ、私は家畜となる道へは行かせられん」



猛は聖府の天(Tian)を、「檻」であると断じている。



大同天境統合聖府の天(Tian)は、完全無欠のAIシステムだ。


国民全員を天(Tian)へと接続し、すべての意思決定を天(Tian)に委ね、脳内デバイスで「幸福」を強制的に同期されている。

聖府には暴力も犯罪も自殺もなく、人々は「完全無欠の」「争いのない」「幸福な」社会、絶対的な平和の中を生きている。


正確に言えば、生かされている。


すべては、聖府の国力を最大化するために演算された、完璧な国家。

天(Tian)を現代に顕現した神として崇拝し、恵みのすべてを神の加護として感謝している。

直接的に人々に恩恵と加護を授ける「神」が、聖府に君臨しているのだ。



「睦貴、聖府のAIはな、国民の脳に直接『幸福』を流し込んでやがる。腹が減っても、自由がなくても、脳が『幸せだ』と判定すれば、それは平和なんだと言う。冗談ではない。私は…いや、日本人ってのは、不幸せでも自分の足で、お天道様の下を歩く方を選ぶ。そうだろう?」


猛はデスクのモニターを睦貴に向けた。

そこには大海原が映し出されているだけの、ただの風景写真にしか見えないものだった。


「見てみろ、睦貴。奴らはミサイル一発撃ってはいない。だが、日本海沖にあった極秘の建造物が一つ、昨日丸ごと『消えた』。同盟国だって知らない施設だ。爆発もなければ、破片も残っていない。ただ、砂のように崩れて海に溶けた。……聖府のAIはな、物理法則すら捻じ曲げているんじゃないかと疑いたくもなった」


ミサイルのようなものが聖府から発射されれば、日本だけでなく他国でも検知できるだろう。

船で接近して近距離から破壊したとしても、建造物の一部が残っていたり破片が海面に浮いているはずだ。


一片の破片すら残さず「消えた」となると――。


「これは…構成原子崩壊システムの可能性が高いですね」


モニターから目を離さず、呟くように睦貴は答えた。



不可視の知性を持つナノマシンを気流に乗せて対象エリアに散布し、対象物をスキャンする。

天(Tian)がそのスキャンデータにある物質の分子構造を瞬時に解析し、ナノマシンが各分子の結合エネルギーに干渉し、結合を「オフ」にしてしまう。

結果として、どれだけ巨大な構造物でも一瞬で白い砂のような塵となって崩れ落ちるという、天(Tian)の攻撃システムの一つである。


破壊の対象だけでなく、その証拠すら残さない究極の攻撃兵器。

睦貴も攻撃システムのことは情報を得ていたが、実際に使用された例を見るのは初めてだった。



「内閣府が極秘に調査した結果では、反体制派…つまり聖府への帰順を願う国民が、もう少しで40%に達するとのことだ。これはもはや絶望的と言ってもいい数字だろう。完全に日本は分断されてしまった。やつらの工作の凄まじさは見習わないといかんな」


「冗談を言っている場合ではありません。こんな短期間で5%も増加するのは異常事態です。天(Tian)の工作能力、ハッキング能力はもはや現行の防衛システムでは対処できないレベルに達していると見ていいでしょう」


「だからこそ、お前の『おもちゃ』が必要なんだろう」



猛は姿勢を正し、真っ直ぐに睦貴と相対した。

ここからが本題だろう…睦貴の緊張はピークに達し、手はじわりと湿り始める。


「日本国民の分断工作、事前警告もない日本施設の破壊行為。そしてその矢先、非公式訪問を装い、官邸を訪れた聖府の者が国の譲渡を迫ってきた。そろそろ頃合いだと判断したのだろうな」


前のめりになる睦貴を制し、猛は言葉を続ける。


「そしてこの度、外交使節が来日するという通達があった。日本の主権を『公式に』迫る使者であることは明白」


「親父殿の要件は分かりました。急ぎ『おもちゃ』の完成を目指します。しかし先ほども説明した通り、実行権限のロック解除の方法が見出せない状態です。しかし親父殿、だからといって俺は『最後』にするつもりはありませんからね。では私は急ぎ調査室に戻ります。失礼します」


「待て待て、今日の本題はここからだ。睦貴、すぐに実家に帰れ。これは内閣総理大臣としての厳命だ」


意外な猛の言葉に、睦貴は目を白黒させるしかなかった。

危急存亡の(とき)を告げた後で「実家に帰れ」が本題とは、睦貴の理解は追い付かなかった。



聖府と日本では圧倒的な軍事力の差があり、武力の前には降伏以外の選択肢はない。

国民の分断が進み、聖府が手を下さなくても近い将来に日本国は内部崩壊することは避けられない。



「降伏」か「玉砕」か。



天(Tian)に繋がれ自我を失う前に、故郷へ帰り別れの挨拶をしてこいという、猛の温情なのだろうか。


「…では早速、支度を済ませて実家へ向かいます」


睦貴の返事に満足げな表情を浮かべる猛に一礼し、総理執務室を後にする。

部屋を出る際、扉の横に立っていた奈緒が意味ありげな笑みを送ってきた。


「たまにはお父様とゆっくり語らってくださいね」


睦貴のネクタイをそっと直しながら、奈緒は優しく囁く。


親父殿の素っ頓狂な命令は、何か重大な意味が込められているというサインであろう。

その重大な意味は、実父が握っているということなのか――。



つくづく、この櫛田奈緒は恐ろしい女だと内心で恐怖したが、表情に出さぬよう総理官邸の敷地を出る。






腕時計を見ると、時刻はまだ昼を過ぎたばかりだ。

一度調査室へ戻ってから空港へ向かっても、夕方には実家に到着できるだろう。

時計に目を落としつつ、そんな計算をしながら睦貴の視線は秒針を見ていた。



十数秒に1回の頻度で、秒針が1秒戻る。



生体波動システムを導入し、狂うはずのない時計が狂っていた。

生体波動システムに少しでも干渉したということは、聖府もこの技術をある程度把握しているということを意味していた。

そして、睦貴の生体波動をピンポイントで干渉しているということになる。


「天(Tian)からの警告か。名誉なことだな」




天(Tian)の見えない脅威は、もう目前にまで迫っている。

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