第三話 波動
大同天境統合聖府――聖府による工作が着実にこの日本で実を結びつつあることを、睦貴は危惧していた。
「先月のデータでは、反体制思想に共鳴している層は約35%でした」
奈緒の報告は、睦貴の予想をはるかに上回っていた。
「三年前は12%だったものが、昨年末で27%。増加率は加速傾向にあります。特に二十代から三十代前半の若年層に支持拡大が顕著です」
感情のない声。だが、その内容は重い。
日本はいまだ民主主義国家であるがゆえに、だからこそ危ういと言える。
このまま反体制派が過半数を超えれば、正当な選挙によって選出された反体制派議員が、正当な国会決議を経て、日本を聖府に明け渡すことも可能になる。
クーデターは不要。
銃もいらない。
「民主主義は、外から壊すより内側から傾ける方が早いな。戦争なんかより、よほど安上がりで手っ取り早い」
この民主主義の特性を突いて、民衆を都合よく動かす分断工作を各国は継続的に続けている。
手間も時間もかかる地道な工作だが、得られる果実は、実に大きい。
民衆は、自らの思想こそが正義だと信じて疑わない。
自分が誘導されているとは思わない。
仮に自身の誤りに気付いたとしても、一度走り出した世論という機関車は、簡単には止まらない。
睦貴は窓の外に視線を向けた。
ポスターの文言が、やけに鮮明に目に焼き付く。
――聖府へ帰順せよ――
「…演算通り、か」
その呟きは、誰にも届かなかった。
「はい、櫛田でございます。間もなく内閣府へ到着いたします。――かしこまりました、官邸へ向かいます」
沈黙を破るように奈緒のデバイスが鳴った。
それは政府要人専用の特殊端末だ。
天(Tian)を含む各国の盗聴・侵入に対抗するため、日本が独自開発した極秘技術が組み込まれている。
存在自体、一般国民はもちろん、多くの国会議員すら知らない。
十年ほど前、日本の研究者がある現象を確認した。
人間はごく微弱な振動――いわば「生体波動」を常時発しており、それが空気中を伝播しているという事実である。
日本政府は即座にこれを国家機密とし、応用研究を開始した。
現在のデバイスは、登録された所有者の生体波動を常時検知している。
認証が成立すると、その生体波動を増幅し、端末周囲数センチの空間に「揺らぎ」を形成する。
この揺らぎはあらゆる干渉を乱反射させ、天(Tian)の超演算能力をもってしても完全解析は困難と予測されていた。
もっとも、天(Tian)がこの生体波動を解析対象に定めるのは時間の問題だろう。
現時点では、日本がわずかに先行している。
だが天(Tian)が本格的に研究へ着手すれば、その差が保たれる保証はない。
だからこそ、生体波動の研究は今も極秘裏に、昼夜を問わず続けられている。
車は静かに進路を変え、官邸方面へと加速した。
睦貴が通されたのは、総理大臣官邸の執務室だった。
「杵築睦貴、入ります」
恭しく一礼をして執務室に入る。
窓際には、内閣総理大臣にして義理の父、須賀 猛が立っている。
外を見据えたまま、振り返らない。
186cmの身長と、62歳とは思えない若々しく筋骨隆々な体躯。
浅黒い肌が、より一層のエネルギッシュ感を与えてくる。
オールバックに固めた髪の毛は年齢を感じさせない太さと毛量を誇る。
微動だにしない起立姿勢にただならぬ威圧感を漂わせ、背中で睦貴の礼を受けた。
「早速だが…お前の『おもちゃ』はきちんと動くのか?」
還暦を二年前に迎えたとは思えないほどの、力強く低い声。
音というよりは、物理的な質量を持っているかのような圧がある。
鼓膜ではなく、骨を共鳴させて聞かせているのではと真剣に疑ったこともあった。
かつて気ままな研究者に過ぎなかった睦貴を、内閣官房環境情報調査室という名の「独房」に放り込んだのは、この猛だ。
理不尽さを承知で従わせるだけの、圧倒的な実行力と求心力を持つ。
軽口の一つも叩けるはずだった。
だが、この背中を前にすると、言葉は自然と選別される。
「この五年間でシステムの構造としては完成しましたよ。親父殿の期待に届くかどうかは、保証しかねますがね」
猛が一気に眉を顰め、少しの怒気と焦燥を隠さず表情に出した。
ちょっとした嫌味が気に入らなかったのかと、睦貴は本能的に身構えた。
「『構造としては』とは何だ。完全ではないということか。その理由を説明して聞かせろ」
睦貴は一拍置き、言葉を整理する。
「理由、ですか。あの『おもちゃ』は、親父殿が国家機密に設定した生体波動を活用して、初めて動作するものというのはご存じですよね。日本防衛研究所が、途中まで開発したものを私が引き継いで継続開発していますが…問題が発生しているのですよ」
日本防衛研究所は、表向きは各国の軍事規模と、日本の防衛力を比較、分析する研究機関だった。
だが実態は違う。
秘密裏に、日本の国防を担う次世代防衛システム、さらには攻勢転用も可能な統合兵装の研究開発を進めていた。
世界はすでに別の戦場へ移っている。
天(Tian)は電子戦を前提とした高性能電子兵器を実戦配備し、戦争の定義そのものを書き換えつつあった。
日本もまた、物理兵器より電子兵器へ軸足を移さざるを得なかったのだ。
「生体波動を用いたシステムは、起動から命令処理までは安定しています。問題は、最終承認です。発動スイッチが作動しないのです。波動と干渉するコードが混入しているのか、あるいは発動に必要な別種の波動が未検出なのか。いずれにせよ、最終実行権限が自動的にロックされるのです。開発者の意思とは無関係に、です」
猛の視線が鋭くなる。
「五年も費やして、まだ赤子の玩具か」
「お言葉ですがね、親父殿。日本防衛研究所が開発した段階では構想止まりでした。実際に動作する統合コードを組み上げ、ここまで形にしたのは俺たち調査室なんです。ほぼゼロからここまで来たのですよ。あと一歩で止まっているのは事実ですが、決して赤子の遊戯ではありません」
「ほう、珍しく威勢がいいな」
調査室の努力を蔑ろにされた気がして思わず興奮したが、猛の一言で睦貴は黙った。
本能的に黙らざるを得ない圧を、猛は放っている。
しかし、その圧の中にも静かな慈愛が込められていた。
「睦貴よ。お前たちの成果は、あらかた把握している。日本防衛研究所の最高峰の研究者たちが、国家予算級の資金と、五年もの歳月を投じても辿り着けなかった領域に、お前はたった一年で到達した。そこは評価している」
猛が詳細を把握している理由は明白だった。
櫛田奈緒。
彼女は総理秘書官としての手腕だけでなく、情報の収集や検証といった諜報活動にも長けていた。
猛の傍若無人とも言える政治判断が、不思議なほど円滑に進むのは、奈緒のこうした裏の工作活動に依存するものであることを睦貴は察していた。
息を飲むほどの美貌に、冷静で温和な46歳。
その微笑の奥にある底知れない計算高さを、睦貴は知っている。
信頼と同時に、ある種の畏れも抱いていた。
「だが、発動させるために4年が経過している。昔から無理難題をお前に押し付けている自覚はある。しかし頼む、これが最後だと思って、この父の依頼を成し遂げてくれないか」
「親父殿…最後とは一体何を…」
「ところで、だ。お前は近頃の反体制派の動きをどう見ている」
急に話題を変えられ、狼狽する睦貴を尻目に、ふたたび猛は視線を窓の外に向けた。
官邸前を行き交う、多くの国民たち。
学生、会社員、観光客。
誰もがそれぞれの生活を背負っている。
猛の表情からは、先ほどまでの威圧も覇気も消えていた。
彼ら国民を見つめる猛の目は、威圧感もバイタリティもカリスマ性もなく、ただひたすらに慈愛に満ちていた。
損得や法律や最適化、あるいは国力の最大化といった論理の果てには存在しない猛の慈愛。
それこそが、世界最強のAI『天(Tian)』をもってしても、決して解を導き出せない唯一の聖域なのかもしれない。




