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第二話 浸食

環境省ビルを出ると、睦貴は通りに視線を走らせた。

珍しくタクシーを拾うつもりだった。


睦貴が内閣府へ行くことは滅多にない。

止むを得ず行く際は、電車か徒歩で出来る限り時間を稼いでのんびりと出向き、内閣府での滞在時間を最小限に留める努力をすることが多い。

義父であり総理大臣である須賀 猛に会うことは、睦貴にとって「試練」だからだ。


だが、今回は違う。

足元から這い上がる焦燥感を抑えながら、睦貴はタクシーが通るのを根気よく待つ。



「杵築室長、こちらです。総理がお待ちです。急ぎご乗車ください」


睦貴の目の前に黒塗りの高級車が強引に停車し、助手席の窓から総理秘書官の櫛田奈緒(くしだなお)が顔を出す。


奈緒は猛が政治家として頭角を現し始めた頃からの腹心の秘書であり、猛が常に身辺から離さないほどの厚い信頼を得ている。

スケジュール管理や政務調整にとどまらず、総理の体調、さらには精神状態までも把握し制御しているのではないかと噂される存在である。


そんな奈緒がみずから迎えに来る。

今回の呼び出しが、通常の延長線上にないことを意味していた。

睦貴は何も言わず、後部座席へと乗り込んだ。


ドアが閉まる音が、やけに重く響いた。




後部座席に座ると、気味の悪いほどスムーズに車は発進する。

簡単な挨拶が終わると、車内は静寂に包まれた。


普段、奈緒とは顔を合わせれば互いに軽口を叩く程度には親しかったが、この不自然な沈黙が事の重大さを物語るようで、睦貴はより一層の緊張を強いられる。

そのストレスを逃すように無意識に貧乏ゆすりをしていた。


視線を上げると、奈緒もまた落ち着かない様子で、長く艶やかな髪の先を指に絡めている。

普段は氷のように冷静な彼女にしては、珍しい仕草だ。


一呼吸入れ背中を倒し、敢えてリラックスした姿勢で窓に目をやり、流れゆく街をぼんやりと眺める。



『聖府へ帰順せよ』

『理想郷は大同天境統合聖府にあり』

『聖府による真の平和と統合を』



派手な色彩のポスターが、電柱や壁面を埋めていた。

数年前から、こうした反体制的な主張はじわじわと勢力を広げている。

発信源は主にSNSだったが、今や現実の街を覆い尽くすまでになった。


『帰順』

『統合』


かつてなら売国と糾弾されかねない言葉が、いまは公然と掲げられ、歓迎さえされている。

少数派――そう呼ぶには、もう無理がある。


車は赤信号でゆっくりと停まった。

ポスターの文字が、フロントガラス越しにやけに鮮明に浮かび上がる。


睦貴は静かに、目を閉じた。




――大同天境(だいどうてんきょう)統合聖府 (とうごうせいふ)――


日本を除くアジアの大部分を支配する超巨大覇権国家であり、かつては中華人民共和国と名乗っていた。



フロントガラスの向こう、赤信号の柱に紋章が貼られている。

白地の中央に描かれた切れ目のない円環。

完全なる秩序を表していた。

大同天境統合聖府の国旗、「天環旗(てんかんき)」である。



「大同天境統合聖府、か…」


睦貴が低く呟く。

奈緒は視線を外さないまま答えた。


「統治の中枢は完全無欠のAI――天(Tian)――」



2020年代に急速に発達した自律型演算システムを基盤に、国家運営専用AIとして2035年に実装。

当初は監視網と物流最適化に限定されていたが、進化とともに統制範囲を拡大。

現在は農業生産、兵器開発、人口管理、資源配分など、国家機能の全域を掌握するに至っている。



「人間は単純労働をするだけの奴隷だな」


「名目上の政府は存在します。しかし政策決定権は実質的に天(Tian)に移行しています。意思決定に人間はもちろん、『感情』といった不純物は介在しません」


睦貴はくだらないとばかりに、小さく鼻を鳴らした。

奈緒の声はわずかに低くなる。


「そして最も特異なのが、神経接続型デバイスの義務化です」


睦貴の顔に、隠しようのない嫌悪感が滲む。


「出生直後に超小型受信デバイスを脳内へ埋設。天(Tian)の信号を常時受信させ、身体の動作だけでなく、思向と感情をも制御する。違法行為や反政府思想は、発生前に抑制されます」


「思想の予防接種とでも言うべきか。そんなものは接種したくないですがね」


「彼らはこう説明しています。『社会的最適化』なのだと」


奈緒は前を見続けたまま、静かに言葉を続けていく。


「結果として生活水準は飛躍的に向上。犯罪率は限りなくゼロ。経済効率は過去最高。当初は人権侵害だと国際社会が非難しましたが」


「今はどこも、黙るしかなくなってしまった」


「ええ。成果がすべてを黙らせました」


信号が青に変わる。車が再び滑り出す。

奈緒はデバイスを軽く操作した。


「軍事分野も同様です。維持コストのかかる核兵器は放棄。その代わり、広域電磁パルスによる物理兵器無効化技術、ナノマシンによる遠隔破壊、そして量子侵入型ハッキング。相手国のインフラすら、内部から掌握可能です。核兵器の方が、よほど対応が可能です」


「圧倒的だな。国家を戦わずして詰ませる、か」


睦貴は窓の外に視線を戻す。

ポスターの一文が流れていく。



――聖府へ帰順せよ――



「国名変更は、天(Tian)の国民統制が完了した直後でした」


奈緒が静かに締めくくる。


「政府ではなく『聖府』。天(Tian)こそが絶対の存在であり、神が統治する国家である。その宣言です」


「国民はAIによって繋がれ、国力最大化のためだけに使役される。意思も自由もない。果たしてそれを、人間と呼べるのでしょうかね。神とは人間の信仰や畏怖を得て、初めて神として存在するものだと、俺は思いますがね」


「日本は現在もアメリカとの軍事同盟を軸に、聖府との直接交渉を継続しています。現在のところ均衡は保たれていますが…」


奈緒は一瞬、言葉を区切った。


「天(Tian)の演算上、日本が統合対象外であり続ける保証は、ありません」




車内に再び重い静寂が戻る。

睦貴は目を閉じ、体内から嫌なものを追い払うかのように、ゆっくりと息を吐いた。


「何か聖府に動きがあった。だから俺が呼ばれたということでしょうかね」


奈緒は否定も肯定もしなかった。

それが、答えだった。






人間が生み出したはずのテクノロジー。

それは利便の名のもとに受け入れられ、いつしか生活の隅々にまで溶け込んだ。


気づかぬうちに、日常を塗り替えた。

やがて国家の意思決定にまで至った。

さらに国境すら越えて、他国をも静かに取り込んでいく。


侵食は、悲鳴も上げさせない。


その終着点がどこなのか。

天(Tian)を読み解けば、その答えを知ることができるだろう。


だが。





天(Tian)の演算を解析できる人間が存在すれば、の話である。

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