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神代基層(じんだいきそう)  作者: 久遠 玲
第五章 照らされた未来
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第四十一話 慈愛

朝、内閣官房環境情報調査室へ足を踏み入れた瞬間、睦貴は緊張を覚えた。


室内では、すでに湊と奈緒がソファーを挟むように向かい合って座っていた。

互いに視線を交わすこともなく、ただ沈黙だけが空間に落ちている。


別に仲が悪いわけではない。

少なくとも、睦貴はそう認識している。



天(Tian)の脅威は去った。

日本を覆っていた極限の緊張も、すでに終息している。

今さら、作戦前夜のような空気を漂わせる理由などないはずだった。


だが、この二人には、そういう「弛緩」そのものが存在しないらしい。



「おはようございます、室長。先ほどから櫛田秘書官がお見えです。どうやら急ぎの案件とのことです」


湊は静かに立ち上がり、一礼した。

奈緒もそれに倣って立ち上がる。

美しい微笑に隠れて相変わらず感情は読めないが、今日はどこか疲労の色が濃い。


睦貴は苦笑混じりに息を吐き、ソファーの肘掛けへ腰を下ろした。


「おはようございます。その様子だと、奈緒さんは徹夜ですか」


「ええ。杵築室長に依頼されていた件ですが、昨夜ようやく全容が掴めましたので、それをお届けに上がりました」


奈緒は微笑みながら、抱えていた分厚い封筒を静かにテーブルへ置いた。


「あれから、まだひと月も経っていませんよ」


睦貴は素直に感嘆した。

彼が奈緒へ依頼していたのは、「天照」発動後の天(Tian)内部ログの解析だった。




あの瞬間。

人知を超えた知性体の内部で、一体何が起きていたのか――

睦貴は、それを確かめたかった。



「天照」が発動し、天(Tian)のクオリア制御能力が急速に低下した結果、聖府の人々は解放された。



だが、それはあくまで人間が見える範囲の「結果」に過ぎない。


本当に知りたかったのは、その内側だ。

武 雷霆の言葉が正しければ、クオリア制御への攻撃は防御されていたはずだった。


――光が…公理を浸食している――


神の領域へ到達した人工知能が、何を見て、何を理解し、そして何故崩れたのか。




奈緒から封筒を受け取る。

紙の重量が、妙に重く感じられた。


睦貴は肘掛けに腰掛けたまま、資料へ目を落とす。

次の瞬間、彼の表情から笑みが消えた。

そこに記されていた内容は、睦貴自身の予測すら、大きく超えていた。




「違う…」


資料へ視線を落としたまま、睦貴は低く呟いた。


「俺たちは、クオリア制御の徹底的な破壊…その一点突破に賭けていたはずだ」


訝しげに眉を寄せる湊をよそに、睦貴はページを繰り続ける。

紙をめくる音だけが、静まり返った調査室に乾いて響いた。


奈緒は何も言わない。

ただ、睦貴の反応を静かに見守っていた。


やがて睦貴は資料からゆっくりと目を離し、深く息を吐いた。

それは単なる疲労の吐息ではない。

遥かな時間を遡り、ようやく何かへ辿り着いた者のような、長い溜め息だった。


「室長。ログには、何が残っていたのですか」


湊が静かに問いかける。

睦貴は数秒だけ沈黙し、言葉を整理するように視線を落とした。


「俺たちは、クオリア制御を破壊したと思っていた。だが違う。あれは陽動だ」


「陽動…ですか?」


「『事代』が運んだものは、攻撃そのものじゃなかった。天(Tian)ですら見抜けない、事代主大神による、完璧な陽動だ」


湊は目を細め、しばらく考え込んだ。


「つまり、我々が設計したクオリア制御への攻撃そのものが囮で、本命は別のシステムにあった、ということですか」


「天(Tian)は、別の何かへと導かれていたようだ」



そこで一度言葉を切り、睦貴は窓の外へ視線を向けた。

朝日が差し込み、調査室を淡い金色に染めている。

穏やかな朝だった。



睦貴は静かに呟く。


「これは攻撃じゃない」


湊と奈緒の視線が、同時に睦貴へ向けられた。


「『天照』は、天(Tian)の破壊を目的としていない」


睦貴はゆっくりと資料を閉じる。

そして、確信するように言った。




「――これは、『問い』だったんだ」






調査室に、静謐な沈黙が落ちた。

まるでそこだけ空気が澄み渡ったかのように、室内はどこか神聖な雰囲気に包まれている。

誰も、すぐには言葉を発せなかった。



「天(Tian)は、自らの正しさを証明し続けることで成立していた。自分こそが最適であり、完全であり…神であると」




天(Tian)は、国家そのものを統治・管理するほどの大規模な超高性能AIだった。

膨大な演算を同時に制御するため、天(Tian)は常に、自らの判断が「絶対に正しい」ことを検証し続けていた。


導き出した結論に論理矛盾は存在しないか。

その選択は、本当に聖府全体にとって最適なのか。

別解は存在しないのか。


天(Tian)は、それらを絶えず証明し続けることで、自らの正確性と正統性を維持していたのだ。




「天(Tian)は『自分が神であること』を、演算によって証明し、維持していた。だが『天照』は、その証明系へ問いを投げかけた」


その声音には、畏れにも似た響きが滲んでいた。

奈緒が小さく息を呑んだ。


「…その証明機構が、壊れたということですか?」


「正確には、『終わらなくなった』と言うべきでしょうね」



「天照」が投げかけた命題は、論理の枠内では、決して真偽を確定できぬ問い。

どれほど演算を重ねても、証明にも反証にも到達できない命題。


その証明に、天(Tian)は全演算資源を傾けてしまった。



「結果として他の機能、とりわけクオリアの制御が維持できなくなり、人々との接続を、自ら遮断せざるを得なかった…ということでしょうか」


湊の問いに、睦貴はゆっくりと頷いた。


「天照大御神の神威は、完璧である天(Tian)が証明できない矛盾を、照らし出した」


そこで睦貴は一度言葉を切り、静かに目を伏せた。

その表情には、圧倒的な神威へ触れてしまった者だけが抱く、畏れにも似た感情が滲んでいた。



「天(Tian)は、神であり続けようとした代償として、クオリア制御を手放すしかなかった」



やがて奈緒が、小さく息を漏らす。


「その問いとは、何だったのでしょうか」



睦貴は答えなかった。


朝日に照らされた窓の外を、ただ見つめる。

窓から差し込む光が、資料を淡く照らしている。



「人を照らし、人を導き、それでもなお、人の揺らぎを否定しない。その慈愛そのものが、天(Tian)には理解できなかったのかもしれないな」



睦貴の表情に、いつもの柔らかな笑みが戻る。

重く張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ和らいだ。


「まさに、『かむはしにとはしたまひ』というやつだな」


湊と奈緒は同時に首を傾げ、互いに「分からない」と言いたげな視線が交差する。

その珍しい光景に、睦貴は思考より先に言葉がこぼれた。


「そこは息ぴったりなんだな…」


朝の陽光は変わらず穏やかで、先ほどまで神威を論じていた空間とは思えないほど、静かだった。






「ところで室長。航空自衛隊に配備予定の攻撃システムですが、三峯精機より試作機完成の報告が入っています。神域波動の投入待ちとなっていますが、いかがいたしましょう」


「さすが金屋さんだ、仕事が早い。『迦具土<KAGUTSUCHI>』の神域波動は…そうだな、愛宕神社か秋葉神社に行ってもらおう」


行ってもらおう、という何気ない睦貴の言葉に、湊の眉が動く。

明らかに、睦貴自身で波動保存に赴かないことを意味していた。

湊は深いため息を吐いた。


「室長。神域波動の保存任務は、別の者に委任していただきたいと、以前から申し上げていたはずです。まして今回は、あの武御雷大神が誕生する契機となった火の神です。平伏どころでは済みません」



しばらく考え込むように視線を落としていた奈緒が、何かを思いついたように顔を上げた。


伊弉冉(いざなみ)大神よりお生まれになった神、ということでしたら…(はな)(いわや)神社も候補に挙がるかと思います。熊野三山も近いですし、波動保存の後、そのまま橿原(かしはら)神宮まで神武天皇の足跡を辿る旅にするのも素敵ですね」


珍しく、どこか楽しげな声音だった。

しかし言い終えた瞬間、睦貴と湊の視線が、ぴたりと奈緒へ集中していた。


「…え?」


二人から同時に向けられる、あまりにも期待に満ちた眼差し。

その意味を理解した瞬間、奈緒は珍しく動揺を隠せず、反射的にソファーから立ち上がった。


「なるほど。櫛田秘書官のプランは、実に妙案だと思います」


湊は奈緒から視線を外さぬまま、中指で静かに眼鏡を押し上げた。


「ぜひ、その壮大な旅路に見合った人選をお願いしたいところです」


声音はあくまで穏やかだった。

だが、その穏やかさが逆に恐ろしい。


奈緒の頬が、わずかに引きつる。


「そうだな。親父殿には、俺から話を通しておこう。あの国難に比べれば、今の国会なんて、政務秘書官が一人欠けたところで大した問題じゃないだろう」


奈緒がじり、と後ずさった。

だが、逃げ道はない。


「それに、親父殿も『調整』という言葉の有難みを、少しは知っておいた方がいいだろう」


「杵築室長!」


奈緒は抗議の声を上げたが、湊が即座に畳みかけた。


「ご安心ください。移動経路や宿泊、参拝順序などはこちらで完璧に整えておきます。神域波動の保存に伴う伏拝の作法も、私が伝授いたしましょう」


「そういう問題では――」


珍しく狼狽する奈緒を前に、睦貴はついに吹き出した。




調査室に、ようやく人間らしい笑い声が戻っていた。

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