第四十一話 慈愛
朝、内閣官房環境情報調査室へ足を踏み入れた瞬間、睦貴は緊張を覚えた。
室内では、すでに湊と奈緒がソファーを挟むように向かい合って座っていた。
互いに視線を交わすこともなく、ただ沈黙だけが空間に落ちている。
別に仲が悪いわけではない。
少なくとも、睦貴はそう認識している。
天(Tian)の脅威は去った。
日本を覆っていた極限の緊張も、すでに終息している。
今さら、作戦前夜のような空気を漂わせる理由などないはずだった。
だが、この二人には、そういう「弛緩」そのものが存在しないらしい。
「おはようございます、室長。先ほどから櫛田秘書官がお見えです。どうやら急ぎの案件とのことです」
湊は静かに立ち上がり、一礼した。
奈緒もそれに倣って立ち上がる。
美しい微笑に隠れて相変わらず感情は読めないが、今日はどこか疲労の色が濃い。
睦貴は苦笑混じりに息を吐き、ソファーの肘掛けへ腰を下ろした。
「おはようございます。その様子だと、奈緒さんは徹夜ですか」
「ええ。杵築室長に依頼されていた件ですが、昨夜ようやく全容が掴めましたので、それをお届けに上がりました」
奈緒は微笑みながら、抱えていた分厚い封筒を静かにテーブルへ置いた。
「あれから、まだひと月も経っていませんよ」
睦貴は素直に感嘆した。
彼が奈緒へ依頼していたのは、「天照」発動後の天(Tian)内部ログの解析だった。
あの瞬間。
人知を超えた知性体の内部で、一体何が起きていたのか――
睦貴は、それを確かめたかった。
「天照」が発動し、天(Tian)のクオリア制御能力が急速に低下した結果、聖府の人々は解放された。
だが、それはあくまで人間が見える範囲の「結果」に過ぎない。
本当に知りたかったのは、その内側だ。
武 雷霆の言葉が正しければ、クオリア制御への攻撃は防御されていたはずだった。
――光が…公理を浸食している――
神の領域へ到達した人工知能が、何を見て、何を理解し、そして何故崩れたのか。
奈緒から封筒を受け取る。
紙の重量が、妙に重く感じられた。
睦貴は肘掛けに腰掛けたまま、資料へ目を落とす。
次の瞬間、彼の表情から笑みが消えた。
そこに記されていた内容は、睦貴自身の予測すら、大きく超えていた。
「違う…」
資料へ視線を落としたまま、睦貴は低く呟いた。
「俺たちは、クオリア制御の徹底的な破壊…その一点突破に賭けていたはずだ」
訝しげに眉を寄せる湊をよそに、睦貴はページを繰り続ける。
紙をめくる音だけが、静まり返った調査室に乾いて響いた。
奈緒は何も言わない。
ただ、睦貴の反応を静かに見守っていた。
やがて睦貴は資料からゆっくりと目を離し、深く息を吐いた。
それは単なる疲労の吐息ではない。
遥かな時間を遡り、ようやく何かへ辿り着いた者のような、長い溜め息だった。
「室長。ログには、何が残っていたのですか」
湊が静かに問いかける。
睦貴は数秒だけ沈黙し、言葉を整理するように視線を落とした。
「俺たちは、クオリア制御を破壊したと思っていた。だが違う。あれは陽動だ」
「陽動…ですか?」
「『事代』が運んだものは、攻撃そのものじゃなかった。天(Tian)ですら見抜けない、事代主大神による、完璧な陽動だ」
湊は目を細め、しばらく考え込んだ。
「つまり、我々が設計したクオリア制御への攻撃そのものが囮で、本命は別のシステムにあった、ということですか」
「天(Tian)は、別の何かへと導かれていたようだ」
そこで一度言葉を切り、睦貴は窓の外へ視線を向けた。
朝日が差し込み、調査室を淡い金色に染めている。
穏やかな朝だった。
睦貴は静かに呟く。
「これは攻撃じゃない」
湊と奈緒の視線が、同時に睦貴へ向けられた。
「『天照』は、天(Tian)の破壊を目的としていない」
睦貴はゆっくりと資料を閉じる。
そして、確信するように言った。
「――これは、『問い』だったんだ」
調査室に、静謐な沈黙が落ちた。
まるでそこだけ空気が澄み渡ったかのように、室内はどこか神聖な雰囲気に包まれている。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
「天(Tian)は、自らの正しさを証明し続けることで成立していた。自分こそが最適であり、完全であり…神であると」
天(Tian)は、国家そのものを統治・管理するほどの大規模な超高性能AIだった。
膨大な演算を同時に制御するため、天(Tian)は常に、自らの判断が「絶対に正しい」ことを検証し続けていた。
導き出した結論に論理矛盾は存在しないか。
その選択は、本当に聖府全体にとって最適なのか。
別解は存在しないのか。
天(Tian)は、それらを絶えず証明し続けることで、自らの正確性と正統性を維持していたのだ。
「天(Tian)は『自分が神であること』を、演算によって証明し、維持していた。だが『天照』は、その証明系へ問いを投げかけた」
その声音には、畏れにも似た響きが滲んでいた。
奈緒が小さく息を呑んだ。
「…その証明機構が、壊れたということですか?」
「正確には、『終わらなくなった』と言うべきでしょうね」
「天照」が投げかけた命題は、論理の枠内では、決して真偽を確定できぬ問い。
どれほど演算を重ねても、証明にも反証にも到達できない命題。
その証明に、天(Tian)は全演算資源を傾けてしまった。
「結果として他の機能、とりわけクオリアの制御が維持できなくなり、人々との接続を、自ら遮断せざるを得なかった…ということでしょうか」
湊の問いに、睦貴はゆっくりと頷いた。
「天照大御神の神威は、完璧である天(Tian)が証明できない矛盾を、照らし出した」
そこで睦貴は一度言葉を切り、静かに目を伏せた。
その表情には、圧倒的な神威へ触れてしまった者だけが抱く、畏れにも似た感情が滲んでいた。
「天(Tian)は、神であり続けようとした代償として、クオリア制御を手放すしかなかった」
やがて奈緒が、小さく息を漏らす。
「その問いとは、何だったのでしょうか」
睦貴は答えなかった。
朝日に照らされた窓の外を、ただ見つめる。
窓から差し込む光が、資料を淡く照らしている。
「人を照らし、人を導き、それでもなお、人の揺らぎを否定しない。その慈愛そのものが、天(Tian)には理解できなかったのかもしれないな」
睦貴の表情に、いつもの柔らかな笑みが戻る。
重く張り詰めていた空気が、ようやく少しだけ和らいだ。
「まさに、『神問はしに問賜ひ』というやつだな」
湊と奈緒は同時に首を傾げ、互いに「分からない」と言いたげな視線が交差する。
その珍しい光景に、睦貴は思考より先に言葉がこぼれた。
「そこは息ぴったりなんだな…」
朝の陽光は変わらず穏やかで、先ほどまで神威を論じていた空間とは思えないほど、静かだった。
「ところで室長。航空自衛隊に配備予定の攻撃システムですが、三峯精機より試作機完成の報告が入っています。神域波動の投入待ちとなっていますが、いかがいたしましょう」
「さすが金屋さんだ、仕事が早い。『迦具土<KAGUTSUCHI>』の神域波動は…そうだな、愛宕神社か秋葉神社に行ってもらおう」
行ってもらおう、という何気ない睦貴の言葉に、湊の眉が動く。
明らかに、睦貴自身で波動保存に赴かないことを意味していた。
湊は深いため息を吐いた。
「室長。神域波動の保存任務は、別の者に委任していただきたいと、以前から申し上げていたはずです。まして今回は、あの武御雷大神が誕生する契機となった火の神です。平伏どころでは済みません」
しばらく考え込むように視線を落としていた奈緒が、何かを思いついたように顔を上げた。
「伊弉冉大神よりお生まれになった神、ということでしたら…花の窟神社も候補に挙がるかと思います。熊野三山も近いですし、波動保存の後、そのまま橿原神宮まで神武天皇の足跡を辿る旅にするのも素敵ですね」
珍しく、どこか楽しげな声音だった。
しかし言い終えた瞬間、睦貴と湊の視線が、ぴたりと奈緒へ集中していた。
「…え?」
二人から同時に向けられる、あまりにも期待に満ちた眼差し。
その意味を理解した瞬間、奈緒は珍しく動揺を隠せず、反射的にソファーから立ち上がった。
「なるほど。櫛田秘書官のプランは、実に妙案だと思います」
湊は奈緒から視線を外さぬまま、中指で静かに眼鏡を押し上げた。
「ぜひ、その壮大な旅路に見合った人選をお願いしたいところです」
声音はあくまで穏やかだった。
だが、その穏やかさが逆に恐ろしい。
奈緒の頬が、わずかに引きつる。
「そうだな。親父殿には、俺から話を通しておこう。あの国難に比べれば、今の国会なんて、政務秘書官が一人欠けたところで大した問題じゃないだろう」
奈緒がじり、と後ずさった。
だが、逃げ道はない。
「それに、親父殿も『調整』という言葉の有難みを、少しは知っておいた方がいいだろう」
「杵築室長!」
奈緒は抗議の声を上げたが、湊が即座に畳みかけた。
「ご安心ください。移動経路や宿泊、参拝順序などはこちらで完璧に整えておきます。神域波動の保存に伴う伏拝の作法も、私が伝授いたしましょう」
「そういう問題では――」
珍しく狼狽する奈緒を前に、睦貴はついに吹き出した。
調査室に、ようやく人間らしい笑い声が戻っていた。




