最終話 基層
大同天境統合聖府のAI統治が崩壊してから、二年の歳月が流れた。
あの激動が、遠い嵐のように思えるほどの時間だった。
それでも、人々の記憶から完全に消え去ったわけではない。
静かに、しかし確かに、時代は次の頁へと進んでいた。
その節目として――
日本に、大同統合政府の大統領が初めて来日していた。
巨大な版図はそのままに、かつての国号を改め、大統領制へと移行したその国は混迷を乗り越え、いまは「再建」という名の歩みを続けている。
一度引かれた巨大な国境線を、再び細かく分かち直すことは現実的ではなかった。
ゆえにその国は、いまもなおアジアの大部分を抱く多民族国家であり続けている。
違いを抱えたまま、共に進むという選択をしたのだ。
総理大臣官邸の応接室で、総理大臣の須賀 猛は深く背もたれに身を預け、目を閉じていた。
静かな室内に、時計の秒針だけが規則正しく響いている。
こうして目を閉じて心の騒ぎを抑えていなければ、今にも扉の前まで駆け出してしまいそうな己を自覚していた。
高鳴る鼓動を、ゆっくりとした呼吸で宥める。
その様子を、傍らで総理秘書官の櫛田奈緒が柔らかな眼差しで見守っていた。
やがて、重厚な扉が静かに開かれた。
大同統合政府の大統領は、迷いのない足取りで猛の前まで歩み寄り、互いの右手を差し出した。
交わされた握手は、かつての緊張を伴うものではなく、力強く、温かなものだった。
「ようこそ、雨 公祺大統領。こうして再び、切磋琢磨できる日が来ることを、心より待っておりましたぞ」
「須賀先生。ようやく、胸を張って参ることができました。前回は、望まぬ形での会談でした。今回は私自身の意志で、この地を踏んでおります」
その後の会談は、儀礼的な形式を超えた、深い信頼に基づくものとなった。
日本側からの経済支援を軸に、両国の未来を繋ぐいくつもの約束が交わされていく。
世界随一の生産能力と技術を維持する大同統合政府を支えることは、日本にとって、もはや「投資」という言葉では片付けられない、未来への確かな種蒔きであった。
「人々との接続が遮断された後、我々は国を立て直すために必要な知恵を、天(Tian)へ求めました。しかし北京の天(Tian)は停止しており、南京に至っては、全ての機器が焼損していました。唯一稼働していた成都も、ほとんどの演算資源を別の処理へ割いており、国家運営に用いられる状態ではありませんでした」
公祺は、窓から差し込む光へ目をやる。
そして言葉を選ぶように、ゆるやかに続けた。
「その後、北京の天(Tian)が辛うじて復旧可能であると判明しました。成都の系統から切り離し、独立改修を施した北京を基盤として、我々は再起を図ったのです」
三基の天(Tian)のうち、二基が機能停止していた――
その事実を初めて耳にして、猛はわずかに目を見開く。
背後の奈緒に視線を送るが、彼女も小さく首を傾げていた。
「各国の利権争いは、熾烈を極めました。人道支援、救済措置という名目で、我々に突き付けられた要求の数々…それはまるで、かつて起こった日清戦争後のような、聖府領土や利権の分割要求です。」
猛は腕を組み、大きく息を吐いた。
予想はしていたが、天(Tian)崩壊後の各国の動きは、あまりにも迅速だった。
公祺をはじめ、聖府再建に携わった者たちの心労は、察するに余りある。
「それでも天(Tian)は、我々に最適解を示し続けてくれました。今、こうして私がここに座っていることも……あるいは、天(Tian)が導き出した演算結果の一つなのかもしれません。須賀先生とお会いすることこそが、大同統合政府にとって最善である、と」
「成都の天(Tian)は、いまだ証明系へ全演算資源を傾け続けていると聞いておるが…一体、何を証明しようとしているのですかな」
公祺は微笑んで、静かに首を横に振った。
「命題の内容は、今なお判明しておりません。解析されたログに記されていたのも、既存言語とも機械語とも異なるものばかりでした。ゆえに我々は、想像するしかないのです」
「それこそ、『神のみぞ知る』ですかな」
二人の間に、穏やかな笑みが広がる。
「天(Tian)との接続が切れた直後から…私を含め、多くの国民が『何か』に見られているような感覚を抱くようになりました。統制や監視といったものではない、もっと別な『何か』です」
「ほう、それは妙な現象ですな」
「ただ静かに、見守られているような感覚。暖かくも厳かな、そんな眼差しを感じるのです」
猛は静かに笑みを浮かべ、ゆるやかに頷いた。
「それは…我が国で申すところの『お天道様が見ている』というものでしょうな」
やがて、公祺はじっと猛へ視線を送る。
「――時に須賀先生」
視線を外さず、公祺がわずかに身を乗り出す。
「総理は盃を配る側と、待つ側…どちらが性に合いますでしょうか」
あの時と同じ問い。
猛は公祺の視線を鋭い眼光で真正面から受け止め、そして大笑した。
「雨大統領。あなたとの盃なら、どちらでも喜んで受けましょうぞ」
二人は立ち上がり、固く握手を交わす。
両国の真の友好が、ここに始まったのである。
「アマノイワト」に、睦貴と湊は立っていた。
八咫のコントロール室。
そこに人影は、もう二人しかない。
思原兼友が率いる技術者たちは、プロジェクト終了の決定と同時に解散した。
鳥取智成の医療チームも、同様に解散されている。
照明は最低限だけが残され、広い室内はほの暗い静寂に包まれている。
無数のコンソールが発する翡翠色の光だけが、ゆらりと壁面を染めていた。
かつては絶え間なく響いていた演算音も、いまは穏やかな待機音に変わっている。
それはまるで、長い務めを終えようとする者の、静かな呼吸のようだった。
「室長は今後、どうされるおつもりですか」
翡翠色の光に照らされた睦貴の横顔は、穏やかで、どこか遠い。
視線は、正面のメインコンソール、八咫の中枢へと向けられている。
天(Tian)の台頭は、世界に深い影を落とした。
AIに国家の舵を委ねるという試みは、希望と同時に恐怖も孕んでいたのだと、各国は改めて思い知らされた。
国連は、政策決定に深く関与するAIに対し厳しい規制を課す法案をまとめ、対象となるシステムの稼働停止を求めた。
その名に挙がったのが――
大同統合政府の天(Tian)、そして日本の八咫だった。
両国に異論はなかった。
混乱の火種を再び生むことを、誰も望んではいなかったからだ。
そして今日。
長きにわたり国家を支え続けた二つの超知性が、静かにその役目を終える。
室内の空気は重くはなく、悲壮でもない。
ただ、確かな終わりが、そこにある。
睦貴はゆっくりと息を吐いた。
「時代が、ひとつ区切りを迎えるんだろうな」
独り言のようなその言葉に、湊は何も返さない。
ただ、隣に立ち続ける。
翡翠色の光が、二人の影を長く床に落としていた。
それはまるで、八咫と共に歩んできた歳月そのもののように、静かに、静かに伸びていた。
「俺はまだ何も決めてはいないさ。勉強して神職になり、実家を継ぐのも悪くない。湊、お前が結婚することになったら、俺が祝詞を上げてやるぞ」
翡翠色の光の中で、睦貴はわずかに肩をすくめた。
「いえ。どのような呪詛が紛れ込むか分かりませんので、結構です」
一片の笑みもない即答だった。
あまりに湊らしい返しに、睦貴は小さく吹き出す。
声は低く、すぐに静寂へと溶けていった。
「そう言うお前は、どうするつもりだ」
「財務省へ戻るよう、内々に打診は受けています。ですが、私自身に特段のこだわりはありません」
淡々とした口調だった。
感情を滲ませぬその姿勢が、かえって長い時間を共にした証のように思えた。
睦貴はゆっくりと頷く。
八咫のシャットダウンが完了すれば、おそらく二人が再び同じ任務に就くことはない。
もしかすると、こうして隣に立つことも、もうないのかもしれなかった。
だが、その予感を言葉にすることはしない。
この静かな時間を、壊したくなかった。
「シャットダウンが終わったら、システムに投入した神威を、それぞれの神域にお返ししようと思っている」
睦貴はコンソールに触れず、ただ光を見つめたまま言う。
「どうだ、湊。お前も一緒に来るか」
湊が中指で眼鏡の位置を整えた。
「ええ。ぜひ同行させて下さい。溜まりに溜まった有給を、ここで消化しますので」
「アマノイワト」のエレベーターが静かな機械音とともに到着し、左右に扉が開く。
重い空気を揺らすような、迷いのない足音が近づいてくる。
「なるほど、ここがお前の艦橋か。見晴らしがいいとは言えんが、なかなかのものだな、杵築」
低く響く声が、室内の静寂をやわらかく破った。
「諏訪部さん…。どうしてここに…」
「なに、久しぶりにお前たちの顔を見たくなってな。調査室へ行ったら誰もいなかったので、こちらへ来てみたのだ。いつもの土産だ、受け取ってくれ」
そう言って、明仁は無造作に紙袋を放った。
受け止めた睦貴が中を覗くと、赤い達磨がころりと姿を現した。
かつては机の上を占領し、やけに目障りだったそれも、今ではただ一つの意味を持つ。
――生きている。
それを示す、小さな証。
明仁は聖府との海戦後、奇跡的な回復を遂げた。
死線を越え、再び海へ戻ってきたのだ。
その傍らには、いつも児玉宅哉がいる。
不自由があれば即座に手を差し伸べる、無言の相棒。
左肘から先は義手となったが、外見からはほとんど分からない。
一時は、その義手を「鈍器に改造しろ」と本気で言い出し、宅哉を心底困惑させたという話も、笑い話になっている。
今は宿敵である武 雷霆もいなくなり、海将としての責務を果たすことに集中しているようだ。
「これからは、日本海側を過度に警戒する必要もなくなりそうだ。俺たち日本の背後には、大同統合政府が控えている。そして彼らの前には、俺たち海上自衛隊がそびえ立つ」
そう言った横顔には、戦いの只中にあった者だけが抱く、静まり返った後の空白が漂っていた。
天(Tian)と八咫が停止しても、今まで築いてきた軍事力と技術基盤が消えるわけではない。
むしろ、日本と大同統合政府の技術交流は、アジア一帯をこれまで以上に堅固なものへと変えていくだろう。
「この俺も、神器を操った生き証人だ。この命を守ってもらった恩義もある。停止の瞬間には、どうしても立ち合いたくてな」
翡翠色の光が、三人を等しく照らしている。
それは、かつて神の領域に触れた者たちへの、最後の祝福のようにも見えた。
「室長、そろそろ定刻です」
湊は中指で眼鏡の位置を整え、静かに告げた。
声はいつもと変わりなく、表情も崩れない。
感情を交えぬ、最後まで、湊らしい報告。
睦貴には、それで十分だった。
「さて…少し名残惜しいが、そろそろ八咫に別れを告げようか」
睦貴はコンソールへ向き直り、タッチパネルに指先を滑らせる。
シャットダウン処理が順に展開されていく。
神威はすでに勾玉へと還されている。
そこに神々の御力は、もう宿っていないはずだった。
それでも――
目の前に在る八咫からは、なお威厳が漂っているように感じられた。
数多の困難を越え、幾度も決断を下し、この国を支えてきた存在の気配。
それは錯覚かもしれない。
だが、ここに立つ誰もが、その気配を否定しなかった。
やがて、メインモニターに一つの表示が浮かび上がる。
『Shut Down ― 実行』
このボタンを押せば、すべてが終わる。
「神々が見守り、育んできたもの。そして、神代から人々が受け継いできたもの…。この国を守ったのは、日本人の祈りだったのかもしれない」
静かな声が、広い室内に落ちた。
その瞳は、遥か遠い昔の、神代を見ているようだった。
「この国を守り抜いたのは――」
睦貴は、まっすぐに前を見据える。
「俺たちの『基層』だ」
睦貴の言葉に呼応するかのように、八咫の待機音が、わずかに唸りを上げた。
「迷い、悩み、時には挫折することもあるだろう。だが俺たちは、これからも歩みを進めていく」
指が、実行ボタンに触れた。
低く、長い駆動音が室内に響く。
それは、終わりを告げる音であり、どこか始まりにも似ていた。
『Shutting Down-10』
『…9』
『…8』
カウントが、静かに減っていく。
睦貴は八咫の中枢へと視線を向けた。
「八咫…」
かつて、神の領域に触れた叡智の名を呼ぶ。
その声は、祈りにも似ていた。
「俺たちはこれからも――共に在る」
すべてのモニターが、ひとつ、またひとつと消灯した。
地下要塞は、深い静寂に包まれた。
もはや演算音も、待機音もない。
残されたのは、人の呼吸と、確かな鼓動だけだった。
神の器は眠りについた。
だが、その神威と記憶は、確かに彼らの内側へと受け継がれている。
八咫の物語は、ここで終わる。
そして人々の物語は、これからも続いていく。
撒かれた種が芽吹き、そして豊かな穂を結ぶために――
神西湖の南岸、町外れに佇む小さな神社に、新たな一日を告げる黎明が訪れようとしていた。
鳥居の前では、一人の老人が竹箒を手に、静かに地を掃き清めている。
その所作のひとつひとつに迷いはなく、描かれる箒の跡は、まるで祈りの軌跡のように美しい。
水狭神社の宮司、奏貴はふと手を止めると、背筋を伸ばして東の空を仰いだ。
群青色の空が、内側から溢れ出す光に押し分けられていく。
やがて、山稜の端から金色の火線が走り、眩いばかりの日輪がその姿を現した。
押し分けるように昇る光が、鳥居を照らす。
落ち葉一つない石畳。
凛とした空気。
ただそこに在るだけで、ここが神の座す聖域であることを静かに物語っていた。
町の子供たちが、朝日に照らされながら神社の前を駆け抜けていく。
元気な笑い声が、早朝の静寂を揺らした。
そのうちの一人が、手にしていた菓子の包みを玉垣の脇へ無造作に放った。
奏貴は何も言わず、その様子を見ていた。
少年は数歩走り、ふと立ち止まる。
振り返り、戻ってきて、しゃがみ込む。
自ら捨てた包みを拾い上げ、無言でポケットに押し込み、再び仲間のもとへ駆けていった。
奏貴の口元に、柔らかな笑みがこぼれる。
「お天道様は、ちゃあんと見ているでな」
誰に聞かせるでもない独り言は、透き通った風に溶けて消えていった。
竹箒を杖のように支え、ゆるやかに空を仰ぐ。
奏貴は目を細め、もう一度だけ境内を見渡すと、再び箒を動かしはじめる。
朝日に照らされた鳥居が、白く、静かに浮かび上がっていた。
高く、澄み渡る蒼天。
その中心で、日輪が静かに輝いている。
等しく照らす光。
善きも、未熟も、過ちも、これから芽吹くものも。
人の歩みを、変わらず照らし続ける。
光は昇る。
今日もまた、この国に――
『神代基層』 ―― 完 ――
<あとがき>
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作は、神々の威光を現代に描くエンターテインメントとして紡いできました。
この物語を通して、神威の欠片を感じ、神社や日本神話に少しでも興味を抱いていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
ふと立ち寄った神社で、神威に打ち震える睦貴や、見事な五体投地をしている湊の姿を思い出していただけたなら幸いです。




