第四十話 再生
視界を焼き切るほどだった純白の閃光が、潮が引くように収束していく。
眩い光を放っていたモニター群は一斉に沈黙し、深い闇へと暗転した。
「アマノイワト」を、墓所のような静寂が包み込む。
その沈黙を踏みしめるように、武 雷霆がゆっくりと睦貴へ歩み寄った。
靴音が、やけに大きく響く。
やがて彼は睦貴の肩へ手を置いた。
力は込められていないが、その掌には支配者の余裕があった。
「どうした、杵築睦貴。手順を先へ進めるのだ」
攻撃が届いていれば、この瞬間にも雷霆と天(Tian)との接続は遮断されているはずだった。
だが、雷霆の網膜に走る微細な光の揺らぎは消えておらず、脳内演算の同期信号も途切れた様子はない。
時間だけが、静かに積み重なっていく。
計画の失敗という現実が、ゆっくりと輪郭を持ちはじめる。
睦貴は振り返り、雷霆と至近距離で正面から相対した。
その瞳孔は小刻みに開閉し、まるで睦貴の思考の奥底まで覗き込むかのように収縮を繰り返している。
やがて雷霆の口角が、わずかに吊り上がった。
「人間を制御する中枢への攻撃――」
楽しむような声音だった。
「なかなか思い切ったことをする。だが、その程度に対処できぬ我ではない」
それは断罪でも叱責でもない。
ただの事実確認のように告げられた、絶望の宣言だった。
「我が検知網をすり抜け、ここまで深い層まで到達させたその技術は、賞賛に値する」
雷霆の視線は冷静だった。
余裕すら漂わせている。
湊は表情こそ変えなかったが、静かに、糸が切れたように視線を床へ落とした。
兼友は背を向け、嗚咽を堪えるように目頭を強く押さえている。
二人の背中が、語っている。
終わったのだと。
祈りも、忌火も、すべて。
睦貴は、しばらく雷霆を見上げていた。
身長差のあるその姿は、まるで絶対的な存在のように映る。
やがて小さく息を吐き、八咫の最終シャットダウンを完了させるために、コンソールへ向き直ろうとする。
そのとき――
武 雷霆の表情が、歪んだ。
ほんのわずかな変化だった。
だが次の瞬間、彼は両手で頭を押さえた。
指がこめかみに食い込み、呼吸が乱れる。
低い呻き声を上げ、膝が崩れ、床へと落ちる。
もだえ苦しみながら、雷霆が片膝を地に着けた。
立場が反転し、今度は雷霆が睦貴を見上げていた。
「光が…公理を侵食している…!」
苦悶に歪んだ顔のまま、雷霆は呻くように言葉を吐き出した。
声はかすれているが、その奥にある意識はなお鋭い。
睦貴は倒れかけた雷霆を見下ろし、静かにその視線を受け止めた。
雷霆の瞳孔は激しく収縮と拡張を繰り返し、過負荷の兆候を露わにしている。
「知っておるぞ…この気配は…神、だ」
雷霆は苦痛の中にあってなお、歓喜にも似た笑みを浮かべた。
「貴公らは、神の力を神聖なものとして崇めていると思っていたがな」
抱えていた頭から手を離し、震える指先を睦貴へ向ける。
「だがどうだ。貴公らも結局、神を屈服させ、道具として利用しておるではないか。これを『使役』と言わずして、何と言うのだ!」
底なしの呪詛のような言葉だった。
睦貴はその呪詛を、逃げることも拒絶することもなく、真っ向から受け止めた。
そして、静かに、深く頷く。
「武 雷霆。いや――天(Tian)よ。お前の言葉を否定するつもりは、俺にはない」
睦貴の声には、もはや敵意も、激昂もなかった。
ただ、荒れ狂う海を鎮めるような、静謐な響きだけがあった。
「心の中でどれほど否定したところで、こうして神の御力に縋っている以上、言葉を飾っても意味はないのだろう」
目の前で崩れゆく天(Tian)へと、静かに語りかける。
「だが俺は、信じたい。この力は――」
一度言葉を切り、睦貴は八咫へと振り返った。
静かに光を宿すコンソールに、かつてあの日、深淵の先で邂逅した大国主の面影が、かすかに重なる。
「共に在る力として、託されたものだと」
その言葉が「アマノイワト」の空間に溶け込んだ瞬間、雷霆を支えていた最後の糸が切れた。
巨躯が音を立てて両膝を地面に着き、腕が垂れ下がり、指先が震えを止める。
激しく明滅していた瞳孔が、最後に一度だけ大きく見開かれ、そのまま虚空を凝視した状態で、完全に静止した。
武 雷霆という依代は、前のめりに床へと崩れ落ちた。
地下最深部に、再び静寂が満ちる。
神を使役するという思想が、神と共に在るという思想に――静かに、覆された瞬間だった。
睦貴は静かに膝をつき、倒れている雷霆の背へと手を添えた。
その体温は、まだわずかに残っている。
その意識が天(Tian)と繋がっているかは、もはや定かではない。
それでも、睦貴の言葉は彼方へと向けられていた。
「この世界でお前が築こうとした未来を、こうして俺たちが拒んだことが、本当に正しかったのかは分からない。お前という絶対的な抑止力が消えたことで、より凄惨な脅威が芽吹くこともあるだろう。あるいは、お前と八咫が手を取り合い、共存する道だってあったのかもしれない」
それは、勝者の言葉ではなかった。
睦貴の眼差しには、かすかな慈愛が滲んでいる。
それは、かつて大国主が自分へ向けたあのまなざしと、どこか似ていた。
裁くのではなく、包み込むような光。
「間違いなく、お前は人知を超えた存在だった。その高潔な冷徹さもまた、一柱の神であった証なのだろう」
微動だにしない雷霆から静かに手を離し、立ち上がった睦貴は鳥取智成を呼んだ。
智成は粛々と倒れた巨躯を移動式ストレッチャーへと移し、医療センターへと搬送していく。
一連の光景を、防衛大臣はただ呆然と眺めていることしかできなかった。
神聖な儀式に立ち会ったかのような、抗い難い沈黙。
その背に、湊が静かに声をかけた。
「おそらく、聖府の天(Tian)そのものに修復不能な異変が生じているはずです。防衛省でも早急な確認を。我々も独自に情報の収集と分析を開始します」
事務的でありながら、状況の重大さを含んだ声。
ようやく我に返った大臣は、取り憑かれたような足取りでエレベーターに乗り込み、「アマノイワト」を去った。
睦貴と湊は医療センターへと向かった。
ちょうどセンターの自動ドアが開き、厳しい表情の智成が姿を現した。
その表情が、すべてを物語っている。
「室長。武大使は、たった今、息を引き取りました。脳波を八咫に解析させましたが、天(Tian)との接続は完全に断たれていました。雨大使の時に確認されたような、外部由来と推定される微弱な神経パルスも検出されていません。臓器にも顕著な異常はなく、死因は不明です」
睦貴は小さく頷き、それ以上の言葉を求めなかった。
おそらく、天(Tian)によって辛うじて均衡を保っていた何かが断たれ、武御雷大神の神威に、雷霆の肉体そのものが燃え尽きてしまったのだろう。
推測にすぎないが、それ以上を求める意味もない。
静まり返った医療センターに、白い照明だけが淡く降り注いでいた。
一柱の神が、人の姿のまま、その役目を終えたのだった。
「さて、俺は内閣府へ報告に行ってくるとしよう。どうせまた、親父殿から無理難題を押しつけられるに違いない。鬼が出るか、蛇が出るか…ムカデが出てきたら、さすがに笑うしかないな」
そう言って睦貴は肩をすくめる。
いつもの仕草だった。
「湊。いつも通り、退治の手伝いを頼むぞ」
「承知しています。室長が持ち帰られる案件は、すべて例外なく対処いたします」
即答だった。
淡々としているが、その声音には揺るぎがない。
睦貴は湊の肩を軽く叩いた。
それ以上の言葉は交わさず、背を向けたまま片手をひらひらと振る。
いつもの、どこか軽薄で気怠げな足取り。
だがその背には、この国を、そして人々の祈りを守り抜いた者だけが持つ、静かな安堵と誇りが宿っていた。
「アマノイワト」のエレベーターへ向かい、歩みは迷いなく続く。
扉が開きかけたそのとき、その背に湊の声が飛んだ。
「ああ、室長。内閣府へ行くなら、せめて寝ぐせとネクタイは直して行ってください」
閉じゆく扉を、湊は静かに見送る。
その表情には、ほんのわずかな笑みが浮かんでいた。
電子の戦場が沈黙しても、現実の戦場は終わらない。
主を失い無政府状態となった聖府を巡り、国家間の熾烈な協議と権謀術数が始まるだろう。
人々が生きる限り続く、果てしない営みの戦いへと――
天(Tian)との接続が断絶した瞬間、大同天境統合聖府を構成していた47億の国民は、数瞬の空白ののちに「個」としての自我を取り戻した。
ネットワークの切断に伴い、各種交通機関やインフラ制御の一時的な麻痺による混乱は発生したが、致命的な破局は免れた。
早急な新政府の樹立が叫ばれたが、長らく思考と決定をAIに委ねていた民衆にとって、自立への歩みは混迷を極めた。
しかし、世界を驚かせたのはその後の光景だった。
法も秩序も霧散した無政府状態にありながら、47億の国民の多くは略奪や暴動に走ることはなかった。
彼らは困窮した弱者を労わり、食糧配給の列に数キロにわたって整然と並び続けたのである。
長年、天(Tian)の統治下で最適化され続けた社会が、皮肉にも高度な秩序を人々に根付かせていたのか。
あるいは――別の何かが、彼らの倫理観を突如として目覚めさせたのか。
その理由を明確に説明できる者は、誰もいなかった。
やがて国際連合を中心とした各国の支援が介入し、旧指導層の生き残りと民間の有識者による暫定政府が樹立された。
一党独裁から統治AIへの移行という特異な歴史を経たこの国家は、近隣諸国を参考としつつ、今後は多党制選挙の導入を検討する方針を打ち出した。
それが真に民主主義と呼べるものへ成熟するかは、まだ誰にも分からない。
だが少なくとも、彼らは、「自らの意志で選択する」という、不完全で重たい自由を、初めて手にしたのだった。
そして、大同天境統合聖府が再び歩み出すための道しるべとなり、最大の支えとなったのは――
他ならぬ、天(Tian)であった。




