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神代基層(じんだいきそう)  作者: 久遠 玲
第五章 照らされた未来
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第三十八話 豊穣

東の空から太陽が地平を押し上げ、あふれる光が大気を満たした。

生命の躍動を孕んだその光は、睦貴を――そしてこの国土すべてを、等しく照らしてゆく。


御姿を隠された天照大御神が、天の座よりふたたび世を照らしはじめたかのようであった。

まばゆさに目を細め、なお消えぬ御威光の余韻を感じながら、睦貴は静かに視線を御扉へと戻す。


豊受大御神は穏やかな微笑を湛え、変わらぬ佇まいで、睦貴を見つめている。



『大御神の御力は――その勾玉にはそれ以上、注ぐことはできません』



「それ以上」という一言が、睦貴の思考を揺らす。

いまだ神域の波動保存は成し遂げていない。

だがその言葉は、神威がすでに宿っていることを示唆していた。



『その勾玉には、すでに大御神の御力が満ちています』




世界が、わずかに反転する。

握り締めた掌の中の重みが、急に意味を持ちはじめる。

これは、これから受ける力ではなく、すでに与えられていたものなのだと。


豊受大御神は、ゆるやかに天へと視線を移す。


その眼差しは、いまを見ているのではない。

遥かな時の彼方、神代の始まりへと向けられているようだった。



『大御神は、その勾玉を殊のほか愛でておいででした』



懐かしむような響きが、わずかに滲む。



『ゆえに御力を満たし、葦原中国へと降ろし、人々の安寧を願われたのです』



それは「今」の出来事ではない。

遥か昔に、すでに為されていたこと。



『そして今――あなたが、ここへ至った』



睦貴の混乱した思考の奥に、かつて聞いた声が蘇る。






――神がなすのは、種を撒くことのみ――






太古の神代に、天照大御神がこの国へと蒔いた種。

それは奇跡でもなく、未来を強制する力でもない。


迷い、悩み、祈りの中で歩み続けた先に芽吹く、「可能性」。



勾玉を握る手が、震えた。

自分に必要だったものは新たな力ではなく、すでに託されていたものを、信じ切る覚悟だったのだ。


睦貴は、静かに、そして深く平伏する。

朝の光が、玉砂利の上で淡く揺れていた。



『さあ、勾玉をしっかりと持つのです。私の力も、そこへ注ぎましょう』



睦貴は震える手で勾玉を両手に捧げ持ち、胸の高さへと差し出す。

掌の中で、玉はすでに微かな熱を帯びていた。



豊受大御神が、ゆるやかに左手を持ち上げる。



その瞬間、土の香りがふわりと満ちた。

春先に鍬を入れたばかりの畑の、あの温かな息吹。


目には見えぬ何かが、足元の大地から立ち昇る。

それは天から降る力ではなく、地より湧き上がるものだった。

玉砂利の下、さらにその奥深くから、脈打つ大地の鼓動が、勾玉へと静かに応えている。


豊受大御神の掌から放たれた光は、眩くはない。

淡く、やわらかく、まるで朝靄のように勾玉を包み込む。

乾いた土が雨を吸い込むように、勾玉はそのすべてを吸収していく。



睦貴の両腕に、ずしりとした重みが宿る。

それは圧ではなく、実りの重さ。

稲穂が垂れるときの、あの豊かな重み。


土の香りは、なお深く漂っている。

それは祝福というよりも、託された責務の匂いに感じられた。



『これで大御神の御光は、さらに深く輝くことでしょう。あなたたちの祈りが、常に御心とともにあらんことを』



慈愛に満ちた言葉に、睦貴は力強く頷く。

胸の奥から込み上げるものはあるが、それを言葉にする術を持たなかった。


豊受大御神は、慈愛に満ちた微笑みの奥に、かすかな遊び心を宿した。



『忌火の光を絶やさぬよう――その灯りは、人の祈りのしるしです。大御神もまた、その灯を愛でておいでです』



睦貴は深く頭を垂れ、その御言葉を余さず胸に刻む。


ふたたび頭を上げた時、瑞垣南御門の御帳が静かに、ゆるやかに降りてきた。


豊受大御神の御姿が、次第に霞んでゆく。

それでもなお、その慈しみの気配は消えず、むしろ空気そのものに溶け広がっていくかのようだった。


やがて内玉垣南御門の御帳もまた、降ろされる。



神域は再び静寂に包まれ、眩い朝日が御帳を白く照らしている。



その前に跪いたまま、睦貴の全身から力が抜けていった。

張り詰めていたものが、ふつりと途切れる。


最後に感じたのは、土の残り香と、確かなぬくもり。


――種は、蒔かれている。


その思いを胸に抱いたまま、睦貴は静かに、意識を失った。






遠くから、誰かの声が届いていた。

荒げるでもなく、しかし揺るぎない威を帯びた、芯の通った声だった。


「……杵築様。杵築様」


闇の底から浮かび上がるように、睦貴の意識はゆるやかに現実へと引き戻されていく。

重たい瞼をわずかに開けると、視界には淡い光が滲んだ。


たしか朝日の明るさに包まれながら横たわったはずだった。

だが、空気は夜明け前のひやりとした静けさを宿し、東の空はようやく白み始めたばかりの色をしている。


意識は次第に明朗さを取り戻していくのに、身体だけがなお夢の余韻に浸っている。

胸の奥には、先ほどまで触れていたはずの、あの慈愛に満ちた神威の震えが、確かに残っていた。



ゆっくりと上体を起こし視線を巡らせると、そこに立っていたのは、内玉垣まで二人を導いたあの神職だった。


「お目覚めになられ、安堵いたしました。どこかお加減の優れぬところはございませんか」


落ち着いた声音の奥に、隠しきれぬ緊張がにじんでいる。

睦貴は軽く四肢を動かし、呼吸を整え、異常がないことを告げた。

神職の表情がほっと緩む。


神職はすぐさま、隣に横たわる湊へと身を屈める。



その時、静寂を破るように、どこからともなく鶏の声が響く。

黎明を告げる、澄んだ一声。



睦貴が立ち上がるのとほぼ同時に、湊も小さく息を吸い込み、意識を取り戻した。

神職は胸に手を当て、深く息を吐く。


やがて身を起こした湊が、反射的に腕時計へ目を落とす。

そして次の瞬間、抑えきれぬ驚きを含んだ声を上げた。


「室長、我々は…丸一日、こちらで意識を喪失していたようです」


湊の報告を受け、睦貴は自身の失態を素直に詫びた。


「翌朝まで眠り込んでしまい、大変申し訳ありませんでした。祭事の妨げにはなりませんでしたか」


睦貴の言葉に、神職は明らかに戸惑いの色を浮かべた。


「…いえ。お二人が中へ入られた後、今朝一番の神鶏が鳴き、その直後に、こちらで大きな物音がいたしました。様子を確かめようと扉を開けましたところ、お二人が倒れておられ…すぐにお声をおかけしたのでございます」



神職の説明によれば、二人が内玉垣へ入った直後に物音が響き、ただちに扉を開けたという。

倒れていた二人を確認し、呼びかけ続けていたが、意識が戻るまでの体感は5分も経っていない、とのことだった。



空気がわずかに張り詰め、睦貴と湊は顔を見合わせた。


互いに何度も腕時計を確かめ、日付を確認し、神職にも問い直す。

二人が内玉垣へ足を踏み入れてから、現実の時間は5分にも満たない。


それなのに、胸の奥には、確かに「あの時間」があった。



神域の静寂が、何事もなかったかのように、ただ淡々と朝を迎えていた。




ふたたび衛士に導かれ、二人は宇治橋の鳥居まで戻ってきた。

夜明けの光はすでに柔らかさを帯び、五十鈴の流れは何事もなかったかのように静かに輝いている。


神職は最後まで、睦貴と湊の様子を案じる視線を向けていた。

その眼差しには、務めを超えた真摯な思いが宿っている。


「本日は急な願い出にもかかわらず、かくも御心を尽くしていただきましたこと、深く感謝申し上げます。あわせて、多大なるご配慮とご心労をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます」


睦貴は静かに一歩進み出て、深々と頭を垂れた。

神職は小さく首を振る。


「総理ご自身からのご連絡であったと承っております。神宮司庁も少なからず騒然となったようです。平時であれば、到底お受けできぬお願いでございます。されど、この時勢。国を護ることは、すなわち神々を護ることに通じましょう。杵築様のご無事と、今後のご働きを、心より祈念いたしております」


その言葉は、慰めでも激励でもなく、ただ静かな祈りそのものだった。

睦貴はもう一度深く一礼し、湊もそれに倣った。



やがて二人は宇治橋へと歩み出す。

橋板を踏むたび、神域の空気が少しずつ遠のいていく。

橋を渡り切れば、そこは再び人の世だ。


責務と喧騒と、容赦なき現実が待っている。

それでも、背後からはなお、変わらぬ気配が注がれていた。




睦貴と湊の姿が完全に見えなくなるまで、神職は橋のたもとに立ち、深く頭を下げ続けていた。



その姿は、朝の光の中に溶け込みながら、どこまでも静謐で、どこまでも美しかった。





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