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神代基層(じんだいきそう)  作者: 久遠 玲
第五章 照らされた未来
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閑話 おかげ横丁にて

睦貴と湊は宿に戻り、普段着へと着替えてチェックアウトを済ませた。


宿を出て、そのまま東京へ戻るはずだったが、睦貴の一言で予定は変わった。

神宮での出来事を、このまま抱えて帰るのではなく、ここで一度、身体の奥に落とし込みたかったのだ。


「以前から気になっていた店があるんだ。少しゆっくりしながら、気持ちを整理させたい」


湊は一瞬だけ目を見開き、すぐに柔らかな表情に戻る。


「奇遇ですね。私も同じことを言うつもりでした」






ふたたび猿田彦神社を通り過ぎ、左手に広がるひときわ賑やかな一角へと足を向ける。



――おかげ横丁――



1993年に開かれた、伊勢の名観光地である。

お伊勢参りで賑わった往時の町並みを再現し、土産物屋や飲食店が軒を連ねる。

切妻屋根、格子戸、白壁。

歩くだけで、時代の針がゆるやかに巻き戻されていくようだった。


焼き物の香ばしい匂い。

甘味処から漂う小豆の甘い湯気。

香ばしい煎茶の香りと、どこからともなく聞こえる笑い声。


神域の静謐とは異なる、温かく人間くさい賑わい。

それでもどこか品があり、騒がしさが不思議と耳に刺さらない。



「室長。伊勢うどんを食べていきましょう。これを食べなければ、神宮参拝は終われません」


湊の言葉には、珍しく有無を言わせぬ響きがあった。



朝食は伊勢うどんに決まった。

とはいえ、店の開店時間にはまだ少し早く、それでも二人は辛抱強く待った。

直立不動で開店を待つ湊の姿に、絶対に食べるのだという執念を感じた。



二人が店先の縁台に腰を下ろすと、板の感触にまだ朝の冷気をわずかに残していた。

町人になったような気分で、湯気の向こうを眺めながらうどんを待った。


やがて、純白に輝く太い麺が満ちる丼が運ばれてくる。


艶やかな麺に、黒光りするたまり醤油がとろりとかけられている。

湯気とともに立ちのぼる、ほの甘い醤の香り。


箸で持ち上げれば、ずしりとした重み。

口に含めば、驚くほどやわらかい。


昨今は歯ごたえを競う風潮があるが、このうどんは真逆をゆく。


噛むのではない。

受け入れるのだ。


熱とともにほどける麺が、長旅で疲れた胃に静かに落ちていく。


たまりの濃厚な旨味が、じんわりと舌に広がる。

見た目ほど塩辛くはなく、むしろ丸い。

麺を絡めるたびに味わいが変わり、自分好みの濃さへと整えられていく。



味よし、香りよし、消化よし。



「…これは、戦略物資というやつだな」


不意に睦貴が呟いた。


「胃袋制圧用ですか?」


湊が肩を揺らす。


二人はそれ以上言葉を交わさず、ただ静かに箸を進めた。

丼が空になるころには、身体の奥まで温もりが満ちていた。


遅い朝食になったが、待った甲斐があったというものだ。






伊勢うどんで胃袋を満たし、二人は川の方へ歩き出した。

平日だというのに、横丁は賑やかだ。

笑い声、足音、湯気、甘い香り。

そのすべてが、どこか穏やかに混ざり合っている。


賑わいを抜け、五十鈴川のほとりへ出る。

川沿いをしばらく歩いた先に、目当ての店はあった。


一見すると古い町家。

煤けた木の梁、低い軒。

暖簾でもなければ、ここが喫茶店とは気づかないだろう。


家屋の中へ足を踏み入れた瞬間、焙煎豆の深い香りが静かに迎え入れる。


店内は純日本家屋の趣をそのまま残している。

太い柱、磨き込まれた床板、障子越しのやわらかな光。

そこに珈琲の香りが溶け込むという、不思議な空間だった。


入口脇の品書きには、甘味が並ぶ。

うどんを食べたばかりだというのに、どれも抗いがたい魅力を放っていた。


「危険な場所だな」


険しい顔でメニューを見ながら、睦貴が小さな声で囁く。


「何がです?」


「理性が試される」


悩んだ末にブレンドを二つ注文し、川を一望できるカウンター席に腰を落ち着かせた。


翡翠色にきらめく五十鈴川。

陽光を受けて揺れる水面は、急ぐことを知らない。


背後では、湯が沸く音と豆を挽く静かな振動、そして湯が落ちるやわらかな滴音。

そのすべてが、胸の内に残る緊張をゆっくりとほどいていく。


湊は川を眺めたまま、ぽつりと呟く。


「神宮の空気とは違いますが…ここも、時間の流れが遅いですね」




睦貴はカップを手に取る。


立ちのぼる湯気と、深い琥珀色。

一口含めば、柔らかな苦味の奥に、わずかな甘みが見える。


強すぎず、主張しすぎない。

それでいて、確かに芯がある。


「…なるほど。ここに来た理由が、少しわかりました」


湊が微笑む。


川は変わらず流れ続ける。

急ぐことなく、抗うことなく。


二人はしばらく、言葉を交わさなかった。

ただ、珈琲の香りと水の光に身を委ねていた。




珈琲を半分ほど愉しんだ後、川面を見つめていた睦貴が、ふと視線を落とし、静かに口を開いた。


「…この勾玉には、すでに天照大御神の神威が満ちていた。この地に降ろされた時、大御神の種は撒かれていたのだろう。その神意は、俺にもわからない。これまで日本が危機に晒されるたび、あの勾玉が何らかの形で過去にも力を発していたとしても、不思議ではない」


意識を失っていた間の出来事を、湊が聞くのはこれが初めてだった。

湊は何も言わなかったが、湯気の向こうでわずかに姿勢を正していた。


「過去だけじゃない。これから先、数十年、数百年ののち、ふたたび人が大御神の前に立つ時が来るのかもしれない」




店内には客の談笑が満ちていたが、不思議と二人の会話を邪魔するような喧噪には感じなかった。


「そして今、豊受大御神の神威も満たされた。二柱の神威が重なった時、その力は本来の姿を現す。俺は、そう感じている」


豊受大御神は、元々は丹波の国の神だった。

天照大御神が倭姫命(やまとひめのみこと)によって伊勢に鎮められたのち、雄略天皇の夢に天照大御神が現れ、食物と穀物を司る神を近くに呼ぶよう告げたと伝わる。

それが、丹波国比治の真奈井に坐していた豊受大御神だった。


内宮と外宮。

調和と豊穣。

統べる力と、支える力。


「物事のすべては、単独では完成しないのかもしれないな。支え合い、重なり合って、初めて『力』になる…」


その言葉は、独り言に近かった。




「天(Tian)は言い切った。神の力とは、使役するものだと」


睦貴は川を見つめたまま、低く呟いた。


「その言葉に、俺は本能的に嫌悪を覚えた。だが同時に、その嫌悪が、自分自身に向いていることも理解していた」


指先が、無意識にカップの縁をなぞる。


「俺たちが完成さようとしている『仕掛け』は、神威を投入することが前提だ。言葉を選ばなければ、それは神の力を使うということだ。いや…使役する、と言い換えることもできる。これは祈りなのか。それとも不敬か。守るための行為が、踏みにじることになってはいないか。考え始めると、終わりがない」




店内のざわめきが遠のく。

視線を落としたまま言葉を探す睦貴に、湊は静かに応じた。


「この国を守るために必要なことです。国があってこそ、神社があります。人があってこそ、祈りもあります。一時的に不敬に見えたとしても、何もせず滅びを待つことこそ、神々に対して申し開きできません」


川面が、陽光を受けて揺れた。


湊の言葉に、睦貴は小さく頷いた。

確かに湊の言葉の通りだと思う。


「その通り…なんだろうな」


それは否定ではなかった。

だが肯定とも言い切れない、曖昧な響きだった。


「必要だから。仕方がないから。その言葉で割り切れるほど、俺は器用じゃないらしい」


胸の奥に沈む、名づけようのない重さ。

澱のように、静かに溜まっていく感覚。


「光と影。表と裏。相反するものが、世界を形作っている」


睦貴はゆっくりと顔を上げた。

その表情には苦悩の色はなく、むしろ清々しささえ感じられるものだった。


「俺の葛藤も、そのひとつだろうな。混じり合わないように見えるものを、どう調和させるか。その矛盾を抱えたまま歩くことが、俺の務めなのかもしれない」


湊は黙って聞いている。


「大御神は言った。迷いを抱き、祈りながら前に進む人の強さは、尊いと。答えは、すぐには出ないだろう。だが、この葛藤を捨ててしまった時、俺は俺でなくなる気がする」



湊は珈琲を置き、深い溜め息を吐いた。

五十鈴川の流れを見つめたまま、湊が口を開く。


「神とは、何でしょうか」


その言葉には、自身の論理では辿り着けない圧倒的な神威に対しての、率直な畏怖が込められていた。

睦貴はしばらく考えたあと、やがて苦笑して首を横に振った。


「それが分かるなら、俺たちは苦労しないさ。教えを説かれたわけでもない。奇跡を見せつけられたわけでもない。だが、確かに、影響を受けている。生き方を、選択を、心の在り方をな」


珈琲を一口含む。

時間が経ち、だいぶ温度は下がっていたが、心地よい苦みと香りがほどよく睦貴を包む。


「神は、ただ『在る』のだろう。見えず、測れず、証明もできない。だが『在る』という感覚だけは、誰の中にもある。計器では測れないし、理論でも掴めない。それでも、俺たち日本人は自然に感じ取っている。畏れや、敬いや、祈りという形でな」


静かな断言だった。


川は変わらず、急がず、静かに流れている。

湊の言葉通り、ここでの時間はゆっくりと流れていると睦貴は実感していた。


「神の力とは、借りるものでも、従わせるものでもないはずだ。だから俺は、利用や使役という言葉を、選びたくない」


睦貴はそう言ってカップを置き、湊に視線を移した。

湊は無表情のまま、川の流れを見つめている。




気が付けば、カップの中で揺れていた琥珀色の珈琲も尽きていた。

二人は立ち上がり、名残を惜しむように、もう一度だけ五十鈴川へ目を向けた。

悠久の流れがこれからも続くよう、言葉にしない祈りを胸に、喫茶店を後にした。






外へ出ると、横丁は昼へ向かう気配を帯びていた。

軒先に並ぶ伊勢志摩の名物。

品書きを覗き込み、目を輝かせる観光客たち。

さきほどまで神威を語っていた二人とは対照的に、そこにはただ、穏やかな人の営みがあった。

二人は、その中をゆっくりと歩く。



やがて睦貴が、思い出したように口を開いた。


「そういえば豊受大御神から、ひとつ頼まれ事をした。『忌火(いみび)を絶やすな』とな」


「忌火、ですか」


一瞬、周囲の喧騒が遠のいたように感じられた。

横丁の賑わいの中で、その言葉だけが異質な重みを帯びる。



神宮では、朝と夕の一日二度、内宮と外宮、そして別宮の祭神への食事――御饌(みけ)が奉じられる。


日別朝夕(ひごとあさゆう)大御饌祭(おおみけさい)


およそ1500年もの間、一日たりとも絶えることなく続いてきた神事だ。

御饌を調える水は、限られた者しか近づけぬ神聖な井戸から汲み上げられる。

火は古式に則り、火鑚具(ひきりぐ)により起こされる。


その清浄な火こそ、忌火。

穢れを遠ざけ、祈りを宿す火。


かつて伊勢湾台風が猛威を振るった折も、神職たちは腰まで水に浸かりながら、なお祭事を斎行したという。


神々への大いなる敬意。

そしてこの火が絶えぬ限り、この国もまた絶えぬという祈り。


そんな祈りが、幾世代にもわたり受け継がれてきた。



「忌火は、単なる火じゃない。祈りそのものだ」


湊はわずかに息を呑み、足を止めた。


「つまり…これからも、日本の祈りを絶やすな。そういう意味でしょうか」



横丁のざわめきが戻ってくる。


焼き物の匂い。

子どもの笑い声。

たくさんの土産袋を揺らす観光客。



睦貴は、歩みを止めた湊を振り返る。

その目には、いまだ抱えている迷いと、確固たる覚悟が混ざっていた。


「そうだろうな。『仕掛け』を完成させることも、その一部だろう。だが、それだけじゃない」


視線は横丁へ向けられる。


「この賑わいも、笑い声も、日々の営みも。すべてが祈りの延長線上にある。それを俺たちは、守っていく」


その言葉は、独白というより、誓いに近かった。




横丁の空に、昼の光が満ちていく。


雲ひとつない蒼天から降り注ぐ眩い輝きは、あまねく人々の肩を、笑顔を、足取りを照らしていた。


それは選ぶことなく、拒むことなく、ただ等しく在る光。



二人の背にも、その光は降り注いでいた。

進むべき道を示すように前を照らし、揺らぐ心を包むように背をあたためる。



睦貴は、そっと目を細める。

天を仰ぐでもなく、地を踏みしめるでもなく、二人はただ、前を向いた。




目には見えずとも、確かに「在る」ものに背を押されながら――



二人は人の営みの中へと、ふたたび歩み出した。

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