第三十七話 日輪
内玉垣南御門の前に立つ二人を、昇りはじめた朝日が静かに包み込みつつあった。
淡い金色の光が白木の門に差し込み、まだ夜の名残を宿す神域を、ゆっくりと目覚めさせていく。
やがて、黎明を告げるかのように神宮の鶏がひと声鳴いた。
その澄んだ響きは、空気そのものを張り詰めさせる合図のようでもあった。
二人は御帳の前まで進み、足を止める。
睦貴は胸の内の波を鎮めるように深く息を吸い、懐から勾玉を取り出した。
掌の中でそれは、朝の光を受けてかすかに温もりを帯びている。
「もし俺が耐えられなくなった時は、保存はお前に託したぞ」
「室長、申し訳ありません。正直、自信がありません」
短い応酬だったが、その言葉の裏にあるものを互いに悟るには十分だった。
二人は同時に御帳へ向き直る。
二拝、二拍手、そして一拝――。
深く垂れた頭を上げかけた、その瞬間だった。
どこからともなく生じた一陣の風が、二人の身体を真正面から貫いた。
鋭いはずの風は不思議と冷たさを伴わず、むしろ澄みきった清涼だけを残して通り過ぎる。
触れた瞬間、胸の奥に澱のように溜まっていた苦悩や逡巡が、音もなく吹き払われていくのを睦貴は感じた。
――科戸の風。
穢れを吹き払う神風の名が睦貴の脳裏に浮かび、思わず顔を上げる。
湊もまた、弾かれたように直立している。
互いに言葉はないが、その目に浮かぶ驚きと、どこか洗い清められたような清澄さが、同じ体験を共有したことを物語っていた。
正面に視線を戻した睦貴は、思わず息を呑んだ。
突風にあおられ、厚みのある御帳が天高く跳ね上げられている。
その向こう、本来ならば容易に目にすることの叶わぬ瑞垣南御門までもが露わになっていた。
さらに、瑞垣南御門の御帳までもが同時に翻り――
視界のはるか奥、正殿の御扉へと続く一本の道が、まるで天より引かれた光の筋のようにまっすぐに通じている。
御扉には一条の光芒が差し込み、内から応じるかのように眩い輝きを放っている。
その光の渦の中に、睦貴は見た。
寄り添うように立ち、こちらを見つめる、二柱の女神の姿を。
御扉の正面に立つ女神の視線は、確かに睦貴を射抜いている。
だが同時に、その眼差しはさらに遠く、この国の山河の果てまでも見渡しているかのようでもあった。
この国に生けるものすべてを見守り、慈しむ。
その眼差しには、人の理を遥かに超えた、圧倒的な威厳と慈愛が同居していた。
頭上には、陽光を反射して白銀に輝く神鏡を模した金銅の冠。
長く流れる黒髪は結い上げられることなく、背にまっすぐ垂れ、朝風に吹かれて清廉な軌跡を描いている。
深く透き通った、翡翠色の勾玉が幾重にも連なる玉の緒が首に飾られ、柔らかく光を返している。
その立ち姿は、ただそこに在るだけで周囲の空気を清浄へと変質させてしまうような、至高の気品に満ちていた。
――天照坐皇大御神
睦貴の脳裏に、理屈を介さず、その神名が浮かび上がった。
まともに目を開けていることさえ難しい。
それが、姿そのものの眩い輝きゆえか、それとも放たれる威厳と気品に心が打ち震えているためか、判然としない。
ただ一つ確かなのは、睦貴と湊を包むその神威が、決して威圧ではないということだった。
圧し潰す力ではない。
拒む力でもない。
それは、どこまでも深く、どこまでも広い――圧倒的な慈愛。
春の陽だまりに微睡むような、柔らかな温もりが身も心も、そして魂の深淵までも優しく満たしていく。
胸の奥に残っていた恐れや逡巡が、光に溶ける雪のように消えていく。
次の瞬間、二人の膝が同時に崩れた。
意識してそうしたのではない。
抗う余地もなかった。
ただ、この神聖な存在の前で跪き、額を地に伏せて拝み奉ること。
それ以外に、剥き出しになった魂が取り得る形がなかったのだ。
不意に、隣で声にならない呻きが漏れた。
湊の身体が横へと傾き、力を失ったように崩れ、静かに意識を手放した。
神威に耐えきれなかったのではない。
慈愛にすべてを委ねた瞬間、人として保っていた緊張が、ほどけたのである。
『よく来ましたね。頭を上げて、その顔をよく見せてください』
天照大御神の傍らに、もう一柱の女神が静かに立っている。
その存在は、太陽のごとき輝きとは異なっていた。
光を受け止め、地へと還すような、柔らかな豊かさを湛えていた。
長い黒髪は後ろでゆるやかに束ねられ、低い位置で玉の緒により結わえられている。
装飾はほとんどないが、その簡素さがかえって揺るぎない品位を際立たせていた。
身にまとう衣は光沢を誇らず、あくまで柔らかく、豊穣の大地を思わせる落ち着きを宿していた。
右手には、実りきった稲穂が束ねられ、大切に抱かれている。
深く垂れた穂先は重みを帯び、朝の光を受けて淡く輝いていた。
風はないのに、その稲はかすかに揺れているように見える。
その姿を視界に収めた瞬間、睦貴の胸の奥に、確信にも似た感覚が走った。
言葉を探すより早く、魂が名を呼ぶ。
――豊受大御神
天を統べる光の御前にあってなお、決して影に沈まぬ存在。
むしろ、あの光をこの地に根付かせ、命へと変える神。
飢える者を拒まず、祈りを捧げる者を選ばず、ただ黙して実りを与える。
そんな静かな強さと安堵が、その立ち姿にはあった。
この国が続いてきた理由は、太陽の存在だけではない。
その光を受け止め、日々の糧へと変え続けてきた、この神の存在があったからだと、睦貴は理解した。
膝をついたまま、睦貴はさらに深く頭を垂れた。
『この国の人々が忘れかけている祈りを、あなたはよく守ってきましたね』
透き通るような豊受大御神の声が、静かな光となって睦貴へと降りてくる。
深く包み込むような労いがあった。
睦貴は、震える息を整えながらゆっくりと顔を上げる。
正殿へと視線を向けた瞬間、二柱の慈愛が真正面から胸を満たした。
張り詰めていた糸が、一本ずつ緩んでいくような感覚に陥った。
大いなる慈愛に包まれ、そのまま意識が薄れていく――
咄嗟に睦貴は勾玉を握る手に力を込めた。
掌に食い込む硬質な感触が、辛うじて意識を現世に繋ぎ止める。
「恐れながら、申し上げます。私の力及ばず、この国の灯火は、間もなく消えようとしております」
祖神の御前で口にするには、あまりにも重く、あまりにも不遜な言葉と知りながらも、睦貴は人の世の現実を伝えずにはいられなかった。
「しかし、私たちはこの国を守るための『最後の仕掛け』を施しました。これからも途切れることのない、日本人の祈りと信仰のため、御力をお貸しくださいますよう、お願いいたします」
言葉を飾る余地はなかった。
ただ、祈りだけがあった。
単刀直入に伝え、睦貴はさらに頭を深く下げる。
玉砂利が額に当たるが、痛みは感じなかった。
『そなたらの働きは、すべて見ておる』
凛とした、鈴を転がすような声が天より降りる。
『この葦原中国を、よう守護してきたな』
その一言が、雷鳴のように胸を打つ。
天照大御神の声に、思わずさらに額を玉砂利へ押し当てた。
砂利が軋む音が、静寂の中に小さく響く。
『だが――そなたの真心の内に、小さな揺らぎが見える』
その言葉は責める響きを帯びてはいなかったが、それでも睦貴の胸を、鋭く射抜いた。
睦貴は、玉砂利に伏せていた額をわずかに上げ、乱れかけた呼吸を整える。
隠しようもない。
魂の奥底までも、すでに見通されている。
「私が今まで作ってきたものは…」
喉が張り付いたかのように乾いていた。
だが、止められなかった。
「神の御力をお借りすることなど、前提としてはおりませんでした。すべては、人の知恵と…幾重もの偶然の積み重ねに過ぎません」
握り締めた勾玉が掌に食い込み、かろうじて己を保たせる。
「しかし今、私は――」
わずかに言葉を失い、それでも続ける。
「大御神の御力をお借りすることを前提として、『仕掛け』を作りました」
その瞬間、沈黙が深まった。
二柱の大御神はただ静かに、睦貴の告白を受け止めている。
その静寂こそが、何よりも重い。
睦貴は再び、額を地に伏せた。
「祈り、とも言えます。しかし、利用しているとも言える」
自らの言葉が、刃のように胸へ返る。
「この不敬に対し、私は…いまだ、どう向き合えばよいのか、答えを持てずにおります」
それでも、この国を守るためには、どうしても必要な力だった。
しかし、行き場のない自責の念を、自分一人では抱えきれなくなっていた。
長い沈黙が、神域を満たす。
睦貴はその場で震えることしかできなかった。
しかしその背に受ける慈愛は、微塵も揺らがない。
光は、変わらずそこにある。
『知っておる』
凛とした声が、静かに降りる。
『その迷いも、その祈りも。そしてこの国の弥栄のために、命を賭しておることも』
睦貴は、恐る恐る顔を上げた。
二柱の御姿が、光の中に揺らめいている。
『光と影。そして――そなたの内なる揺らぎ。その調和を求め続けることこそ、そなたの務め』
天照大御神の言葉は、裁きでも決定でもなかった。
調和と秩序を司る神は、何ひとつ揺らがぬ神威を放ちながら、迷う人の在り様を否定しない。
『人は悩み、迷い、なお歩みを前へと進めてゆく――そのすべてが、儚くも、尊いものである。己の内に宿るその光を、決して卑しめてはならぬ』
光は、在りのままを照らし続けている。
その言葉は、慈しみにも聞こえた。
睦貴は茫然としたまま、頭を垂れることさえ忘れていた。
天照大御神は、なお静かに言葉を続けた。
しかしそれは、睦貴にとって望みを断ち切る一言でもあった。
『私の力をその玉に注ぐことは、叶わぬ』
ただ、揺るがぬ理として告げられた。
睦貴は、ふたたび額を地に伏せた。
それが懇願のためなのか、あるいは受け入れる意思の表れであったのか、自分でもわからない。
ただ一つ確かなのは、天照大御神の神威を保存することは叶わぬ、という現実だった。
神域に、再び沈黙が降りる。
平伏したまま、睦貴はなお言葉を探した。
だが、差し出すべき理も、重ねるべき願いも、もはや浮かばない。
己の限界だけが、そこにあった。
『そなたらの祈りは、確かに届いておる。そして、これからも――』
不意に、柔らかな光とともに御声が降りる。
睦貴は反射的に、さらに深く頭を地へと着けた。
その神意のすべてを、理解できたわけではない。
だが、その声音の奥に、かすかな笑みの気配を感じ取る。
朝の光が、わずかに強まっていた。
やがて睦貴がゆっくりと顔を上げると、そこにあったはずの天照大御神の御姿は、朝霧が陽に溶けるように、静かに淡く、そして完全に消えていた。




