第三十六話 神宮
三重県伊勢市の五十鈴川駅を降り、国道23号を宇治浦田方面へ進むと、右手に「導きの神」である猿田彦大神を祀る、猿田彦神社が見えてくる。
社叢の奥から漂う静寂は、ただの無音ではなく、長い時の堆積がある。
人が祈り、迷い、そして再び歩き出してきた歴史の重みが、空気そのものに溶け込んでいた。
「猿田彦大神は導きの神として有名だ。俺たちの八咫も、日本をここまで導いてくれた」
睦貴は独り言のように呟いた。
正式名称「Yamato-Asymmetric-Tactical-Algorithm」
通称「YATA<八咫>」
その名には、睦貴なりの祈りが込められている。
「八咫鏡」は三種の神器の一つにして、天照大御神の御姿を映したと伝わる神鏡。
そして「八咫烏」は、神武天皇の東征において、熊野から大和の橿原へと導いたとされる導きの象徴。
日本を象徴し、日本の行く末を照らすシステム。
そうあってほしいという願いを、睦貴はその名に託した。
だが調査室の大半の者にとっては、単に頭文字を並べた略称に過ぎない。
しかし、睦貴にとってこの名は、背負うべき運命そのものだった。
昨夜、睦貴は湊を伴って伊勢市内に入った。
宿に荷を下ろすや否や、睦貴は豊受大神宮――外宮へと足を運んだ。
「湊、『外宮先祭』の習わしに従って、一緒に外宮へ行こう」
そう誘ったが、湊は頑なに首を振った。
湊は「自信がない」と繰り返すばかりで、その理由は明かされることはなかった。
結局、睦貴は一人で外宮を参拝した。
日が暮れかかっている静謐な境内は、人の気配もまばらで、かえって神域の深さを際立たせていた。
玉砂利を踏む音が、己の存在を過度に主張しているようで、思わず歩を緩めたほどだ。
翌朝、まだ日が昇る前には猿田彦神社を通り過ぎた。
二人の装いは、一切の妥協を許さない厳格な正装だった。
神の懐深くへ足を踏み入れることの許しを乞うかのように、モーニングスーツには一片の隙もない誠実さが宿っていた。
猿田彦神社から800メートル程度進んだ場所。
夜明け前の静寂の中、五十鈴川に架かる宇治橋が見えてくる。
俗界と聖域を分かつその境界には、装飾を削ぎ落としたからこそ到達し得る、究極の機能美を湛えた大鳥居がそびえ立っていた。
神明造りの直線的な美しさは、見る者の虚飾を剥ぎ取り、魂そのものを露わにするような威厳を放っている。
長い年月を経ながらも、二十年ごとに新たな姿へと生まれ変わる。
「式年遷宮」という営みが、永遠と更新を同時に成立させているのだ。
宇治橋の途中で、睦貴は足を止めて五十鈴川を眺める。
川面は鏡のように静まり返り、空の薄明を映している。
その光景は、まるで神鏡そのもののようだった。
視線を上げると、見渡す限りの森林が広がっている。
内宮の森は、ただそこに在るだけで人の心を鎮める。
幾百年、幾千年という時間を超えて、祈りだけを受け止め続けてきた場所。
そこにはためく日本国旗が、睦貴には誇らしく映った。
宇治橋内側の大鳥居の下。
まだ朝の光が届かぬその場所に、数名の神職と衛士がすでに静かに控えていた。
白木の鳥居を背に立つその姿は、神域の秩序そのものが、そこに形を取っているかのようだった。
内閣府からの申し出はあまりにも急で、しかも強引であったはずだ。
それでも彼らは拒まず、この未曾有の国難に対し、誠実に応じてくれたのである。
「杵築様でいらっしゃいますね。お話は伺っております。この厳しい情勢の中、ようこそお参りくださいました」
穏やかな声音だが、その奥には揺るがぬ芯がある。
言葉は柔らかくとも、決して迎合ではなく、神に仕える者としての自負と矜持が、自然と滲み出ていた。
正対した瞬間、睦貴の背筋は自ずと伸びた。
国家中枢にあって幾多の修羅場を潜ってきた睦貴でさえ、この場所では一人の参拝者に過ぎない。
隣に立つ湊は、すでに呼吸を忘れているかのようだった。
理屈を超えた神域の空気が、すでに湊を圧していた。
「突然の訪問にもかかわらず、このような御配慮を賜り、心より感謝申し上げます。長い時間は頂きません。何卒、よろしくお願い申し上げます」
睦貴は深々と頭を下げ、感謝を述べた。
祭事の妨げになることだけは避けたい。
神宮は国家のために存在するのではない。
国家が、祈りによって支えられてきたのだ。
衛士が静かに歩みを進め、神職がそれに続く。
そして睦貴と湊も、その後ろに続き玉砂利を踏みしめる。
まだ参拝時間前で、他に参拝客は一人もいない。
玉砂利を踏む音が、圧倒的な静謐を湛える木々へと吸い込まれていく。
ここから先は、ただの参拝ではない。
問われるのは、自らの在り方だ。
胸の奥に沈めていた決意が、わずかに揺らぐ。
国家の存亡を左右する力を、神域に求めること。
それは祈りか。
それとも、冒涜か。
答えはまだ出ていない。
森の奥へと進むにつれ、空気はさらに澄み、重くなる。
まるで見えぬ秤が、すでに睦貴の魂を量り始めているかのようだった。
まだ暗い参道を一歩進むごとに現実世界の喧騒が遠ざかり、代わりに重い沈黙が、二人の肩にのしかかっていった。
やがて、幾重もの瑞垣に囲まれた正宮の前へと至ったとき、湊が大きく息を吸い込んだ。
「これより先、内玉垣南御門へお入りいただきます。我らはここにて控えております」
神職は静かに告げると、扉の前で歩みを止め、二人のために道を開いた。
その所作には一切の無駄がなく、しかし決して冷たくはない。
神域の秩序を守る者としての、静かな覚悟があった。
ここから先は、皇統に連なる者を除けば、許される最奥である。
目の前に立つ木扉は、闇を湛えたような深い色をしていた。
黒、と言い切るには柔らかく、しかし光をほとんど返さない。
扉が開かれる。
空気の層がゆっくりとずれる感覚だけがあった。
二人は深く一礼し、内へと歩を進める。
背後で扉が閉じられたが、その音を耳は捉えられなかった。
ただ、外界との繋がりが断たれたことだけは、はっきりと分かった。
間もなく夜明けを迎える刻限だった。
空はまだ群青の名残を留め、正宮の全容は闇と薄明に溶け込んでいる。
南御門も、その姿を明確には見せない。
輪郭はあるはずなのに、視線を向ければ向けるほど、形は曖昧に沈んでいく。
肌を刺すような冷気が、ここが「神の座」であることを容赦なく突きつけてくる。
たった数歩。
玉垣の内へ踏み入れただけで、空気が変わった。
冷たいのではない。
重いのでもない。
ただ、澄みきっている。
肺に入る息が、研がれた刃のように内側を整えていく。
余計な思考が削ぎ落とされ、言い訳も虚飾も、その場に留まることを許されない。
足元に敷き詰められた玉砂利は、参道のそれとは明らかに異なる。
大ぶりで、一つひとつの石が、数千年の祈りと沈黙を吸い込んで重く沈んでいる。
その一石を踏むたびに、魂の濁りを暴かれるような感覚に襲われ、睦貴は思わず歩みを緩めた。
湊は、まるで薄氷の上を歩くかのように、足元の一点だけを凝視して進んでいる。
だが、その歩様はもはや緊張の域を超えていた。
関節の一つひとつが錆びついた機械のように強張り、指先は血の気が引いて白く震えている。
内玉垣の中央、中重鳥居の前に二人は並び立った。
視界の先、闇の奥に内玉垣南御門の巨大な輪郭が、静かに横たわっている。
ただ一点、純白の御帳だけが自ら発光しているかのように、幽玄に浮かび上がっていた。
宇治橋の鳥居と同じく、神明造りの巨大な鳥居。
闇に溶け込み、全容を見せない。
人と神とを隔てる、断固たる結界であり、理をもってしても踏み越えられぬ、境であった。
「どうした湊。膝が震えているぞ」
努めて軽く言ったつもりだったが、声はかすかに掠れていた。
湊は視線を御帳から外さぬまま、低く返す。
「お言葉ですが。室長のほうこそ、顔色が悪いようですが」
互いに軽口を叩きながらも、その声音は硬い。
二人は深く一礼し、意を決して鳥居の内へと足を踏み入れた。
その刹那、夜の群青を押し広げる光が、東の空から滲み出してきた。
それまで闇の中に輪郭だけを浮かべていた南御門が、ゆっくりと色を帯び始める。
天高くそびえる外削ぎの千木は凛とした気品を放っている。
太い鰹木は幾度の式年遷宮を経てもなお、その様式を守り続けてきた時間の厚みを、そこに宿していた。
茅葺の屋根は想像以上に分厚く、重層する茅が、朝の光を柔らかく受け止め、包み込む。
その静かな佇まいは、威厳という言葉を誇示せずとも、そこに立つ者の心を自然と低くさせる。
純白の御帳が、わずかな朝風にかすかに揺れた。
光を受けて淡く浮かび上がるその白は、清浄そのものの象徴のようだった。
閉ざしているのではない。
だが、越えてはならぬと告げている。
「室長。今、私が抱いているこの感覚が、『畏れ』というものなのでしょうか」
神域の全容が明らかになるにつれ、胸に沈んでいた感覚が、より鮮明な名を持ちはじめたのだろう。
湊の声は震えてはいなかった。
「理の外にある圧倒的な存在に、身が縮むような感覚だな。俺も今、その『畏れ』で身が竦んでいる」
一般人では立ち入ることのできない神域を見渡し、睦貴は答えた。
「親父殿に会う時は、完全に『恐怖』だがな」
睦貴は湊の緊張を解こうと、無理に軽口を叩いた。
しかし、その頬は硬直したままで、微塵も笑みの形を成していない。
睦貴自身、言葉を発して空気を震わせていなければ、全身の震えを抑え込む自信がなかった。
「この神域で波動を保存することになるとは、思ってもみなかったな。日本最高神と称される神の神威に、果たして俺たちの身体は耐えられるだろうか」
「ええ。宇治橋を渡る頃から、すでに身体が思うように動きませんでした。今までも神威で動けなくなることはありましたが、ここまでとは…」
南御門は、今やはっきりとその姿を現している。
だが不思議なことに、明るくなるほど、その奥はなお深く、なお見通せなくなっていく。
陽光はただ、在るものを、在るままに顕す。
二人は、これまで体験してきた数々の「理外」を思い返していた。
神威に触れ、波動を扱い、幾度も常識の外側を覗いてきた。
今、目の前に鎮まる存在は、それらとは質が違う。
――根源。
その中心へ、これから自ら踏み込もうとしているのだという事実が、二人の胸に重く落ちた。




