第三十五話 計略
湊が内閣府へ連絡を入れてから、ほどなくして総理大臣との面会が整えられた。
国会はなお紛糾のただ中にあったが、その隙間を縫うように、猛が時間を割いたのだ。
総理官邸の執務室に通された睦貴は、窓辺に歩み寄った。
洋上からの聖府軍撤退を確認したのち、外出自粛の要請は解除されていた。
硝子越しに見える都心は、すでに平時の顔を取り戻している。
人々が足早に行き交い、その足取りに迷いもない。
この国が国難に瀕していることなど、遠い出来事のようだった。
経済活動を止めまいとする意思。
それが日本という国の――日本人という者の性であった。
その勤勉さに、睦貴は思わず苦笑した。
約束の時間を少し過ぎたころに、執務室に内閣総理大臣の須賀 猛と、その秘書官である櫛田奈緒が姿を現した。
猛の顔には隠しようのない疲労が刻まれていたが、対照的に奈緒の顔からは一切の感情が消えていた。
いつもの柔和な笑みは影も形もなく、生気さえも削ぎ落とされたその佇まいは、睦貴の目には空虚な器のように映った。
「すまんな、睦貴。あまり時間を取ることができなかった。報告があると聞いたが、お前の『おもちゃ』に、何か異変でもあったのか」
声には疲労が滲んでいたが、一国を背負う者としての威厳と、相手を圧する響きはいまだ失われていなかった。
「いえ、八咫は正常に稼働を続けています。『事代』と『月讀』が、今この瞬間も日本を守護しています。聖府への引き渡しに関しても、調査室が総出でデータ整理に当たっており、予定通り完了する見込みです」
猛は窓際に歩み寄り、背中で睦貴の報告を受け止めていた。
その背中が以前よりも小さく感じられたのは、決して気のせいではないだろう。
「今日こうして私が来たのは、新しい『仕掛け』の完成をお伝えするためです」
その言葉に、猛が訝しげに振り返った。
奈緒は相変わらず無表情であったが、明らかに興味を示している様子が伺えた。
「ほう、新しいシステムか。初耳だな。それが艦艇に積むものか戦闘機か知らんが、特攻まがいの逆転劇でも狙うつもりか。だが今の日本に、それを形にするだけの時間は残されていないぞ」
「いえ、システムと呼ぶには少し語弊があります。これはシステムではなく、プログラムです。専用の装置も、新たな機体も必要としません。八咫さえあれば、いつでも稼働可能です」
奈緒の瞳に、わずかな生気が宿るのを睦貴は見逃さなかった。
このプログラムは、ほぼ兼友が独力で組み上げたものだ。
その存在を知る者は、兼友を除けば睦貴と湊のみ。
影として動く奈緒ですら、辿り着けるはずのない情報だった。
「…奈緒、すまんが今日の予定は、すべて白紙に戻しておいてくれ」
猛が静かに指示を出すと、奈緒は一礼して執務室を出て行った。
この情勢下で、総理大臣の予定をすべて空けることなど、常識ではあり得ない。
だが、その不可能を現実に変えるのが、櫛田奈緒という存在だった。
部屋を出ていく彼女の足取りには、先ほどまでの虚脱感とは異なる、確かな芯が戻っていた。
執務室に、二人きりの静寂が落ちる。
猛は椅子に腰を下ろし、一旦深呼吸をしてから睦貴を見る。
「睦貴、その話を詳しく聞かせろ」
「もちろんです。今日はそのために来たのですから」
力強く答えた睦貴だったが、その瞳に楽観の兆しは微塵もなかった。
「親父殿は、雨大使との会話を覚えていますか。天(Tian)がどこに設置されているかを、大使は明かしてくれました」
「うむ、たしか北京、南京、そして成都の三箇所であったな。それぞれが連結し、仮に一角が崩れようとも、残る二基が即座に機能を補完すると言っていた」
睦貴は深く頷き、猛の理解を肯定した。
「その通りです。つまり、天(Tian)を完全に排除するためには、その三箇所をすべて同時に破壊する必要があるということです。聖府本土へ軍を差し向け、物理的に破壊する。それは、いまやどの国にも不可能でしょう。仮に工作員を潜り込ませたとしても、同時制圧は現実的ではありません。成功率は、ほぼゼロでしょうね」
「もはや聖府の軍事力、技術力に対抗し得る勢力は存在せん。この日本が陥落し、聖府に併合された後であればなおさらだ。他国の艦隊が聖府へ近づく前に、我らが盾として機能するだろう」
日本が聖府に併合されれば、天(Tian)の技術力に、「八咫」の武力が加わる。
それは単なる勢力拡大ではなく、事実上の世界秩序の終焉だった。
「天(Tian)を崩すには、外からでは不可能です。雨大使との会談以降、俺たちは内側から瓦解させる方法を探ってきました」
猛は、懐疑的な眼差しを睦貴に向けた。
鉄壁を誇る天(Tian)に対し、ウイルスなどという古典的とも言える手法が通用するとは、到底思えなかったのだ。
「聖府からの侵入は、現在も続いています。もっとも、今は他国の諜報機関による試みの方が活発ですが」
睦貴の皮肉が混じった言葉に、猛は低く、乾いた笑いを漏らした。
今さらになって、血眼で扉を叩いている各国が、ひどく滑稽に映った。
「現在、そのすべてを『事代』が完封しています。偽装や撹乱も通じません。裏を返せば、それは『事代』が天(Tian)を完全に凌駕しているという証明に他なりません。こちらが送り込んでいる偽情報については、ある程度は正確に判別しているようですがね」
猛はゆっくりと椅子から立ち上がり、大きく息を吐いた。
睦貴の正面に立ち、真正面から見据える。
その目には、かつての威圧が戻っていた。
「ある程度は、だと?」
「はい。ある程度は、です。つまり完璧ではない。『事代』の本来任務は防御です。侵入を検知し、解析し、偽情報を返す。天(Tian)はその偽情報の、すべては見抜けていません」
睦貴は姿勢を正した。
「そして『事代』は、最強の盾であると同時に、矛としても転用が可能です」
猛は背で手を組み、執務室を歩きながら床を見つめ、思考に沈んでいた。
少しの緊張を解き、睦貴は言葉を続ける。
「天(Tian)が仕掛けてきた侵入に対し、いつも通り偽情報を装って『仕掛け』となるプログラムを流し込む。それは事代主神の神威が宿る言霊です。防ぐことはおろか、検知することさえ困難でしょう。スキャンする生体波動の適任者は、私の中ですでに決定しています」
「勝算は、どのくらいだ」
猛の問いに、睦貴は首を振りながら答える。
「わかりません。ですが、成功すれば天(Tian)に繋がれた人々を、一斉に解放することができると予想しています。どれほど高性能な演算装置でも、身体を持たない頭脳は意味を持ちません。あとは聖府の人々が、どう『選択』するかです」
睦貴たちの狙いは、防御システム「事代」を用いたカウンターハックだった。
「アマノイワト」で雨 公祇を診察した鳥取智成の見立てでは、天(Tian)に接続された人々の自我は残っていた。
天(Tian)は、人々が発する意思や感情、痛みといった膨大なノイズを受信した上で、それをサーバー側で機械的に圧縮、あるいは合理的な命令へと書き換えているはずだった。
その「検閲と制御」を司る中枢を、徹底的に叩き壊す。
天(Tian)が制御している人々の「生身の感覚<クオリア>」を、一気に集束させたらどうなるか。
聖府の人口、およそ47億人。
47億の絶叫、47億の憤怒、47億の生への執着。
その増幅されたクオリアが、一斉に天(Tian)へ流れ込む。
合理を超えた濁流が逆流し、天(Tian)の中枢へ流れ込めば、たとえ三基の天(Tian)が並列処理を行おうとも、その演算回路は瞬時に焼き切れる。
天(Tian)が自らの消失を防ごうとするなら、残された道はただ一つ。
「自分」の一部であるはずの人々との接続を、自ら切り離すことしかない。
執務室を歩いていた猛の足が、ふいに止まった。
ゆっくりと振り返ったその眼差しには、荒ぶるものが宿っていた。
抑え込んでいた激情が、わずかに顔を覗かせる。
猛という男の奥底にある、嵐の気配だ。
「なるほど。面白い」
不敵な笑みだった。
その笑みは、悪童のようでもあり、古い武人のようでもあった。
「派手に火花を散らして決着をつけるのもいいが、こういう陰から喉笛を噛み切るやり方も、悪くはない」
猛は一歩、睦貴へと歩みを寄せる。
「以前にも言ったな。お前の選択に、すべてを委ねると。後先の事など、もはや考える必要もないわ」
それは自暴自棄のようにも聞こえるが、国家の命運を預かる者の、最後の腹の括り方だった。
その覚悟に、睦貴は思わず声を立てて笑った。
「それで、親父殿にお願いがあります」
笑いが収まると、睦貴は姿勢を正した。
「このプログラムは、神域の波動を投入することを前提としています。そのために、総理である親父殿の力を借りて、ある場所への立ち入り許可をいただきたいのです」
「神社なら、どこでも入れるだろう。わざわざ私の許可など要るまい」
睦貴の全身には、隠しようのない緊張が走っていた。
「あまねく人々を煌々と見守り、そして目覚めを促す神威。その御座に、最も近い場所で波動を保存したいのです」
「どうした、そんなに強張って。お前は一体、どこへ行こうというのだ」
覚悟を込め、睦貴はその名を静かに口にした。
「伊勢の神宮。皇大神宮です」
皇祖神であり、日本最高神と謳われる神が鎮まる、日本の至聖。
神宮の名を聞き、猛は腕を組んでしばらく黙考した。
「よかろう、内閣府より神宮司庁へ直接連絡をしておこう。国の最高権力者である、内閣総理大臣が入れる神域まで、お前を通すよう申し伝える」
睦貴の身体からはより一層の張り詰めた空気が漂っていた。
猛は諭すように言葉を継ぐ。
「ただし、総理大臣といえども、足を踏み入れられるのは内玉垣の南御門の前までだ。それより内側、瑞垣を越えることはできん。正殿を拝することなど、陛下を除いては何人たりとも許されんのだ。神宮は皇室の祖神を祀る場所。神と血縁的、あるいは霊的な繋がりのない者が入ることはできん」
「わかりました。それだけでも、十分です」
睦貴は深く一礼し、執務室の扉へ向かった。
ノブに手を掛けたが、わずかに逡巡し、足を止めた。
振り返らぬまま、背に向けて問う。
「親父殿――」
静かな声だった。
「神威を『戦略資源』として扱う。この不敬に、我々はどのような報いを受けるのでしょうかね」
室内に沈黙が落ちる。
時計の針の音だけが、やけに大きく響いた。
猛は答えず、ただ睦貴の背を見つめていた。
睦貴は振り返らず、扉を開き静かに執務室を後にした。
閉じる扉の音が、やけに重く響いた。




