第三十四話 爾来
テレビでは、太平洋沖での戦闘に関する報道が、繰り返し映し出されていた。
落ち着いた口調のアナウンサーが、整えられた原稿を読み上げ、画面の隅には被害の概要が簡潔な数字として表示されている。
今回の戦闘で、海上自衛隊は死者23名、負傷者150名を超えた。
イージス艦2隻を放棄する事態となったものの、それ以外の艦艇は損傷を抱えながらも航行可能であり、艦隊としての戦力は維持されている。
聖府軍はすでに紀伊半島沖から撤退を開始しており、残存艦艇も数日のうちに日本の領海を離れる見通しである。
そう結論づける言葉が、どの局でもほぼ同じ調子で繰り返された。
そこに大きな誤りはない。
事実として整理された数字は、どこか現実から切り離されたまま、薄いガラス越しに提示されているようだった。
一方で、武 雷霆との会談については、まるで別の出来事のように、柔らかな語彙で包み直されていた。
今後は聖府との軍事協定を締結し、従来の日米同盟に加えて、聖府の軍事力も日本を守る盾となること。
経済協力の推進により、多方面での経済効果が期待されること。
外交面では、聖府とのパートナーシップを通じて、アジアの一員としての存在感をさらに高めていくこと。
どの言葉も未来志向で、前向きだった。
危機ではなく転機。
敗北ではなく新たな枠組み。
そう受け取れるように、慎重に選ばれた表現が並ぶ。
国民の不安を抑え、社会の混乱を防ぐための言葉。
必要な措置なのだろう。
それでも、画面の向こうで滑らかに語られる「協定」や「経済効果」という単語と、海上で命を落とした23名の現実との間には、どうしても埋まらない空白があった。
ニュースは終始、冷静で、秩序だった調子を崩さない。
だがその静けさこそが、取り返しのつかない何かが確定したことを、かえって雄弁に物語っているようだった。
武 雷霆との会談を終えた後、内閣はただちに国会対応に追われることとなった。
会談の内容が知らされた各党は一斉に反応し、議場は終日ざわめきに包まれていた。
質疑の場では、野党議員が声を震わせ、涙ながらに抗議する場面もあった。
主権の在り方、外交の行方、戦没者への責任――
しかし、その問いに向き合う猛の態度は、終始変わらなかった。
感情を挟まず、用意された事実と政府の見解を、静かに、正確に、繰り返していく。
民主的な手続きであるはずの時間が、どこか儀式のように進んでいく。
決断はすでに別の場所で下され、ここで交わされる言葉は、その決断を追認するための確認に過ぎない。
もはや、すべては決定事項だった。
睦貴はテレビの電源を静かに落とし、ちょうど防衛省から戻ったばかりの湊に労いの言葉をかけた。
湊は一日を通して各省庁を回り、断片的に散らばっている情報を拾い集めてきたが、それらを繋ぎ合わせた先に浮かび上がるのは、どれも事態の深刻さをいっそう鮮明にするものばかりだった。
「防衛省内では、なお徹底抗戦を主張する声が少なからず上がっています。会議は今も紛糾していますが…現実的には、流れを変えるほどの勢力にはなり得ないでしょう」
湊は感情を抑えたまま、淡々と報告を続ける。
その声音には焦りも怒りもなく、ただ事実だけを差し出す冷静さがあった。
だが、その冷静さこそが、すでに大勢が決していることを示しているようでもあった。
やがて、今回の戦闘による被害の詳細にも話が及んだ。
放棄された「白山」「磐梯」の2隻では、凍傷による軽症者が計35名。
救助に向かった「御嶽」は被弾し、死者4名、重軽傷者26名。
被弾したそのほかの僚艦も、死者5名、重軽傷者は50名を超える。
なかでも最も被害が大きかったのは、旗艦「守屋」だった。
艦橋直撃区画に損害が集中し、死者14名、重軽傷者56名。
死者の多くは即死だった。
重軽傷者のなかには依然として意識不明の者も多く、予断を許さない状況が続いている。
数字だけを見れば、死者23名という結果は、この規模の海戦としては「少ない」と評されるのかもしれない。
もし艦が一隻でも沈んでいれば、数百人単位の命が一瞬で失われていた可能性すらあった。
しかし、失われた命が23であろうと、200であろうと、その意味が軽くなるわけではない。
日本人の心の奥に、静かな絶望が、確かに芽生え始めていた。
「それで…諏訪部さんの様子は、その後いかがですか」
張りつめた報告の流れがひと段落したところで、湊がわずかに緊張しながら尋ねた。
「さっき鳥取さんが横須賀から戻ってきた。一時はかなり危険な状態だったらしいが、峠は越えたそうだ。まだICUに入ってはいるが…まあ、あの人のことだ。点滴を引きちぎってでも出てこようとするんじゃないか」
最後の一言に、かすかな苦笑が混じる。
その表情を見て、湊はようやく肩の力を抜いたように、深く息を吐く。
普段は理詰めで物事を組み立てる男が見せる、珍しいほど素直な安堵だった。
性格も立場も対照的な二人だったが、不思議と呼吸が合う瞬間があることを、睦貴は知っている。
「これから『底の国』へ用事があって行くが、湊も来るか。鳥取さんから直接、詳しい容体を聞いてみるといい」
睦貴がそう促すと、湊は短く頷いた。
二人は並んで歩き出す。
「アマノイワト」へと続く通路は、いつもと変わらぬ静けさを保っていた。
「アマノイワト」に到着すると、湊は最終医療責任者である鳥取智成を呼び止め、明仁の容態について尋ねた。
大量のカルテを抱えていた智成は、疲労の色を隠そうともせずに口を開いた。
「まず前提として、あれを『人間』と呼んでいいのか、私は非常に疑問です」
第一声がそれだった。
「左前腕は挫滅的切断。多発肋骨骨折に外傷性気胸。ここまでで十分、致死的です。さらに肝破裂と後腹膜血腫。搬入時は典型的な低容量性ショック状態。血圧も触知不可。医師としては、教科書を閉じたくなるようなフルコースでした。ええ、ほぼ役満です」
淡々とした医学的説明のあとに付け加えられる物騒なたとえに、湊は思わず息を呑む。
明仁の負った傷の重さを、改めて実感したのだろう。
「ところが現在、意識は清明。意識障害レベルは満点。自発呼吸も安定していて、短時間なら会話も可能です。本来なら数日は鎮静下に置くべき状態なんですが…どういう理屈なのか、目を覚ましてしまいました。医学的には説明がつきません。あれは人類の分類から外すべきです。ゴリラより強靭ですよ」
心底あきれた表情で言い切る智成に、睦貴は思わず吹き出した。
湊もつられて口元を緩める。
重苦しい報告が続いていた一日の終わりに、ようやく零れた自然な笑みだった。
「それは鳥取さんの手腕があったからこそです。あなたがいなければ、結果は違っていたかもしれない」
睦貴は真顔に戻り、深く頭を下げた。
智成は一瞬だけ視線を逸らし、小さく息をつく。
「失った左腕のことも、もう話題にしていましたよ。『ぶん殴っても折れない頑丈な義手を頼む』と。まったく、どこの格闘家ですか」
その言葉に、再び小さな笑いが生まれる。
深刻な損傷が消えるわけでも、失われた腕が戻るわけではない。
それでも、本人が冗談を口にしているという事実だけが、確かに希望としてそこにあった。
「助けることができた命もあります。ですが、手を尽くしても救えなかった命も少なくありません。今もなお、かろうじて繋がっている命がいくつもあります」
智成は先ほどまでの軽口を消し、静かに言葉を続けた。
「私は現場に戻ります。できることを、やるだけです。では、失礼します」
それ以上の感情を挟むことなく、深く一礼する。
口元は固く結ばれ、その表情には疲労と、医師としての揺るがぬプライドが刻まれていた。
足早に去っていく背中は、先ほどまで冗談を口にしていた人物とは思えないほど静かで、重かった。
智成を見送り、睦貴は技術統括官の思原兼友を呼び出した。
三人は会議室へ移り、「アマノイワト」の今後について向き合う。
兼友はデバイスを操作しながら、現在の稼働状況を報告した。
「現在も動いているのは『事代』と『月讀』です。『事代』のログから判断すると、大同天境統合聖府によるハッキングは依然として頻繁に試みられています。しかし先日の戦闘以降、攻撃の主体は聖府だけではありません。むしろ、アメリカや欧州方面からのアクセスのほうが活発です」
戦闘後の日本と聖府の関係が、世界の注視を浴びているのは明らかだった。
何が起き、何が失われ、何が取引されたのかを、各国が必死に掴もうとしている。
だが、その各国が今さら動いたところで、あまりにも遅すぎた。
「『月讀』の観測では、潜水艦や機雷などの脅威は確認されていません。聖府は太平洋上から実質的に撤退したと見られます。ただし、各種衛星による常時監視は継続中です。これも聖府に限った話ではありません」
兼友の報告に、睦貴は半ば呆れたように頷いた。
今さら観測をしたところで、日本を併合した聖府を止める術はない。
「それで、聖府への引き渡し準備は、どこまで進んでいる」
「八咫は予定通り、稼働停止の直前まで運用を続けます。現在、全員でデータ整理を進めています。せめて波動関連の核心部分だけでも、表現をぼかせればと考えていますが…不自然な欠落や黒塗りがあれば疑念を招きます」
どれだけ隠し通そうとしても、八咫そのものを解析されれば、いずれは辿り着かれる。
生体波動はいまだ天(Tian)より先行しているとはいえ、接収されずとも、時間の問題で到達するだろう。
しばらく思案した後、睦貴は決定を下した。
「生体波動を含め、データは正直に提出する。どうせ天(Tian)は、遅かれ早かれ波動研究に踏み込んでいたはずだ。ここで小細工をしても意味はない」
自嘲を含んだ微かな笑みが、すぐに消える。
「ただし、神域波動に関する記録は、停止直前にすべて消去する。完全に、痕跡も残さずに、だ」
神域波動の消去を決定した睦貴の思考は、脅威の排除でも、優位性の確保でもなく、別の感情によるものだった。
この国に息づいてきた神々の神威を、「使役する」と言い放つ者の道具にされることだけは、どうしても避けたかった。
たとえ祈る者が減り、やがてその名を呼ぶ者がいなくなったとしても――
ただ静かに、鎮まっていてほしい。
それは合理とはほど遠い、真摯な崇敬の念だった。
湊と兼友は、睦貴の意志に言葉を挟まず頷いた。
二人の同意を得て、睦貴は柔和な笑みを浮かべた。
「ところで兼友、あの構想はどこまで進んでいる」
睦貴は声量を落とし、静かに問う。
兼友は一瞬だけ視線を伏せ、それからデバイスを閉じる。
「はい。すでに私のほうでコードは組み、形にはなっています。とはいえ…基礎構造の大半は八咫が自動生成したようなものですが」
小さく苦笑したあと、兼友は姿勢を正した。
「八咫にも読み込ませ、実行テストは完了しています。数度の試行で、八咫が自らコードを改変しました。『大祓』ほどではありませんが…八咫が制御するよりも、波動そのものに委ねる比重が高い仕様へと変化しています。性質上、『大祓』のような過負荷に陥る可能性は低いかと」
八咫が制御のほとんどを手放し、波動に委ねる形へと変えた。
その報告を聞き、睦貴はわずかに目を細めた。
――制御など、できるはずがない。
人の理で縛れるものではないと、どこかで確信していた。
「……あとは、神域の波動を投入するだけです」
兼友の報告を受け、睦貴は湊へと向きなおる。
「湊、内閣府に一報入れてくれ。了解が取れ次第、すぐに親父殿のもとへ向かう。そのあと、神域の波動保存へ行ってくる」
少し考えた後、睦貴は言葉を続けた。
「すまんが、やはり湊も一緒に神域へ来てくれ。万一、俺がダメになった時は…あとは任せる」
突然、神域への同行を求められた湊は、わずかに眉を動かした。
国の最高指導者たちとの面会でも表情を変えることはない湊だが、神域となると話は変わる。
明らかに動揺しているのが見て取れた。
「室長。まさかとは思いますが、その神域とは…」
動揺ではなく、もはや怯えと言ってもいいほど、湊は狼狽している。
睦貴は扉へと歩みながら、振り返らないまま答える。
「常若の宮だ」
言い終わる頃には、睦貴の姿は見えなくなっていた。




