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神代基層(じんだいきそう)  作者: 久遠 玲
第四章 潰えゆく希望
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第三十三話 国譲

総理官邸の応接室。

重厚な扉の内側で、睦貴はソファーに深く腰を下ろし、胡坐をかいていた。


呼び出したのは総理大臣の須賀 猛。

だが、その用件は一切明かされぬまま、彼はただこの部屋へ通された。

海上自衛隊の防衛線が破られた、その直後である。

この招集が、慰労や報告聴取の類であるはずがなかった。


何かが決断される。

あるいは、既に決断されたのか。


沈黙が、重く垂れ込めていた。


窓際には湊が両手を背に組み、官邸前の通りを見下ろしていた。

通りを行き交う人影はほとんどなく、動くのは警備車両ばかりだ。


昨夜、緊急速報が全国へ流れ、首都圏を含む太平洋沿岸の広範囲に渡り、外出自粛要請が出されている。

一部高速道路の封鎖、集会の禁止、報道規制を含む通信規制。

それらは一つ一つが、日本国民が初めて経験する措置だった。


国民は理解しているだろう。

説明されずとも、肌で感じ取っているはずだ。




不意に、重厚な扉が開いた。


先頭に立つのは、内閣総理大臣の須賀 猛。

その後ろに、各大臣が無言の列を成して入室する。

睦貴は胡坐を解き、気怠げに立ち上がり、形式ばった礼は取らずにただ視線だけで迎える。


かつて武 雷霆が名指しした面々が揃っていた。

あの時、交渉の相手として値踏みされた者たちが、そのままここに並んでいた。



唯一、諏訪部明仁の姿だけがない。

横須賀に帰投した「守屋」を降りた明仁は、岸壁で待機していた救急隊に引き継がれ、市内の基幹病院へ搬送された。


担架上の明仁のバイタルサインは生命維持の限界を示しており、救急隊員はその数値から、社会復帰はおろか、蘇生自体が極めて困難であることを瞬時に察知したという。

しかし、鳥取智成を中心に組まれた医療班が、徹夜の処置の末、辛うじて命は繋げたとの報告があった。


「何とかしました」


たった一言だけを報告してきた智成に、睦貴はデバイス越しに深く頭を下げた。




「これから、聖府使節の武 雷霆との会談を行う。昨夜遅くに、雷霆より会談の申し出があった。事ここに及んでは、もはや我らに拒否権はないだろう。前回の会談で出してきた要求を、再びここで押し通すつもりであろうな」


睦貴は黙したまま、わずかに頷いた。

前回と同じ席に腰を下ろし、周囲を見渡してみれば、あの時と同じ構図だ。



だが、情勢は決定的に違っていた。






扉の向こうから、足音が近づいてくる。


武 雷霆が来る。


部屋の空気が、わずかに冷えた。

廊下を踏みしめる軍靴の音が、一定の律動で迫るたびに、居並ぶ大臣たちの背筋がわずかに強張った。

誰もが無意識に息を浅くする。

入り口に軍服姿の雷霆が現われると、視線を下げて直視できない状態になってしまった。


雷霆は一切の逡巡なく進み、猛の正面の椅子へ腰を下ろす。

顔は正面の猛に向けたまま、ただ眼球だけを滑らせるように動かし、室内を見渡した。


「国を譲る気になったか。神器は失われ、もはやこの国に抗う術は存在しない」


雷霆の声は低く、平坦だった。

そこには、議論の余地など初めから含んでいなかった。



猛が、わざとらしく肩をすくめる。


「武大使。国の主権は国民一人ひとりに属するものであって、政府の所有物ではありませんぞ」


猛は笑いながら、大臣たちを見渡す。

軽い口調だが、しかし声の芯は硬い。

大臣たちは猛につられて、乾いた笑いをこぼす。


「それを、今ここで『はいどうぞ』と差し出すことなど、できるはずがない。主権を譲るなら憲法改正が必要だ。国民投票での過半数の賛成も要る。そんなもの、通るはずがあるまい」


冗談めかした調子の裏に、拒絶を滲ませる。



雷霆の表情は動かない。

感情の欠け落ちた静寂と、猛烈な威圧があった。


「前回、我が提示した条件を、まずは呑むがよい。それだけでこの国は、神の庇護の下に入り、一層の発展を遂げるであろう」


雷霆の言葉は、既に用意された未来へ、足を踏み入れよという通告だった。


「そちらが提示している条件は、防衛条約の締結、聖府の資本注入、外交主権の移譲。この三本だったな。それをこちらが呑めば、あの海に浮かぶ物騒なものは引き揚げてもらえるのだろうな」


「こちらの条件さえ満たせば、我ら聖府が海上に艦隊を展開する合理性はない」






軍事の自由を奪う。

資本の流れを握る。

外交の裁量を封じる。


まずは、国家の骨格から奪われる。


独立を支える三本柱を静かに抜き取り、代わりに聖府への依存を差し込む。

日本が呼吸をしようとするたび、聖府を通さねばならぬ構造へと作り替える。


次に、法だ。


聖府に都合の良い法案が、段階を踏んで提出される。

経済の安定、安全保障の強化、国民生活の向上――名目はいくらでもある。

反対は次第に意味を失っていく。


やがて国民は、天(Tian)へ接続される。

思考は統制され、判断は最適化され、選択は誘導される。

それを強制と呼ぶ者は、いなくなる。


その時、満を持して国民投票は行われる。

投票率100パーセント。

賛成100パーセント。

選択も、疑念も、葛藤も、そこには存在しない。

手続きは完璧で、形式も守られる。

世界はそれを「合法」と認めるしかないだろう。



だがその瞬間、日本という国家は、静かに消滅する。


雷霆が提示した条件を呑むということは、その未来図に署名することと同義だった。

今日、この場で決定されるのは、天(Tian)が設計した工程表の、第一頁に過ぎない。




猛が腕を組み、ゆっくりと瞼を閉じる。

眉間の皺は深く、険しい。

長い時間をともにしてきた睦貴ですら、これほどの表情は見たことがなかった。


室内には、静寂だけが満ちている。


だが、答えはもう出ていることを、全員が理解していた。


この情勢で、雷霆の条件を拒めばどうなるかは、想像するまでもない。

首都を射程に収めた艦隊による精密な打撃、そして海上封鎖。

その猛攻に、日本政府は対抗し得る選択肢を、全て失っている。

いまだ陸空の自衛隊は無傷とはいえ、聖府に攻撃は届かないばかりか、消耗という名の自壊を促すだけだろう。


答えは一つしかない。

それでも、その一つを口にすることができない。


――呑む――


たった二文字が、国家の背骨を折る。

猛の喉がわずかに動いたが、声にはならない。


その言葉を発してしまえば、何かが不可逆に崩れることを知っている。

遥か遠い太古の昔、神々から脈々と受け継がれてきた日本の文化、伝統、そして精神が、この一言で潰えるのだ。


今ここで行う決断とは、選ぶことではなかった。

この国の悠久の歴史を、閉じるための行為だった。


睦貴は、言葉を失って猛を見ていた。

そこにいたのは、国家そのものを背負い、その重みに押し潰されようとしている、一人の日本人の姿だった。



「国民の安全は保障されるのであろうな」


「この国の人民を害して、我が神に何の利点があるというのだ。むしろ抗うことにより、神の怒りに触れることこそ、愚の骨頂というものである」


猛は国民の安全を確認し、長く溜め息を吐く。

息を吐き終わった猛は、覚悟を決めて口を開く。


「その三つの条件を、受諾しよう。すぐに国家安全保障会議を招集し、決定する」


重すぎる、決断だった。


「ただし一つ、こちらからも条件がある」


予想外の猛の言葉に、誰もが固唾を飲んで続きを待った。


「陛下を始め、皇族の方々だけは、今のまま、残してはくれないか。祭祀だけは、このまま存続させてほしいのだ」


猛の視線を正面から受けながら、しばらく黙っていた雷霆が頷いた。


「よろしい。子々孫々まで我らが庇護することを約束しよう」


宮内庁長官が背筋を正し一礼した。

ただし、庇護されるといっても、軟禁に近い状態であることは想像に難くなかった。


しかしこれで、日本人の根幹、精神は保たれることになり、神武天皇から続く2700年以上に渡る皇紀は存続されることになった。




その時、雷霆の顔が、ゆっくりと睦貴へ向く。

表情はないが、明らかに逃げ場を奪う威圧があった。


「…条件は三つではない。もう一つある」


睦貴から視線を外さず、雷霆は言い放った。

確かに前回、四つ目の条件を提示する前に言葉が途切れていたことを、全員が思い出していた。



睦貴は反射的に視線を逸らした。

湊も雷霆の思惑を察知し、息を呑み身体が強張っているのが伝わってくる。


心臓が跳ね上がり、鼓動が耳の奥で鳴る。

雷霆は、睦貴を見据えたまま、告げる。



「四つ。日本の神器。その稼働を停止し、聖府へ引き渡せ。開発段階から現在までのデータを含め、すべてを我に渡すのだ」



睦貴は言葉に詰まった。

それは武装解除ではない。

魂の解体だ。


雷霆はなおも威圧を強める。


「他の者は国を譲ると申しておる。今一度、貴公に問う」


雷霆が立ち上がり、まるで逃げ場を塞ぐように、身体ごと睦貴へ向き直る。




「神器を創りし者、杵築睦貴。国を譲るか」




睦貴は押し黙ったまま、返答できずにいた。

隣の湊も、表情を変えずに黙っていた。

だが、その沈黙は拒絶でも承諾でもない。

言葉が見つからないのだ。



しばしの沈黙の後、雷霆は猛に向き直り、最後の通達を出した。


「これより24時間のうちに、正式な受諾文を我に渡すのだ。受諾文と引き換えに、太平洋上の艦隊は撤収するであろう」



口元を歪め、不気味な笑みを浮かべた。

雷霆が笑うのは、日本に来て初めてのことだったが、その場の全員が見るに堪えず顔を背けた。

そして恍惚の表情で、高らかに宣言する。



「ともに神の加護のもと、繁栄を謳歌しようではないか」



祝福の言葉。


だがそれは、日本国への葬送の辞に等しかった。






それからの流れは、皮肉なほど円滑だった。


武 雷霆との会談後、即座に国家安全保障会議が招集された。

2時間後には事後承認を前提として、超法規的に内閣総理大臣の決断が閣僚に伝えられた。

形式的な閣議決定を経て、全閣僚の署名が入った受諾文が作成され、雷霆に送達。

統合幕僚長より自衛隊へ停戦命令が出され、日本を守る牙は完全に抜かれた。

そして4時間後、雷霆より受諾文受理の通知が届いた。



国が折れるプロセスは、驚くほどに短く、合理的だった。



雷霆の言葉に偽りはなかった。

太平洋を埋め尽くしていた聖府軍の艦隊が、ゆっくりと、だが確実に撤収していく。

首都圏は戦火を免れたが、引き換えに日本という国家の「実質的な降伏」が、静かに、そして決定的に成立した。


八咫の稼働停止は一か月の猶予期間が設けられた。

それまでに各種データの取りまとめと、「アマノイワト」の撤収作業が行われる見通しとなった。



いまだ対外的には独立国家の体裁を保っているが、それも時間の問題であった。




ここに、日本国の「国譲り」は成立したのだった。



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