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神代基層(じんだいきそう)  作者: 久遠 玲
第四章 潰えゆく希望
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第三十一話 決戦④

海風が、明仁の髪を撫でる。

だが、血で固まった黒髪は、風に揺れることはなかった。


モニター越しのその姿から、睦貴は目を離せなかった。


血の気を失った顔。

浅く荒い呼吸。

食いしばった歯の奥で、痛みを噛み殺しているのが分かる。


画面の向こうにいるはずなのに、生々しい血の匂いまで伝わってくる気がした。



隣で見ていた湊が、声を潜める。


「室長、通話は手短で。一刻も早く医務室へ搬送する必要があるかと」


その声音は静かだが、切迫していた。

睦貴は明仁に気付かれぬ程度に、わずかに頷いた。


「鳥取さんを呼んでくれ。至急、頼む」


湊が足早にその場を離れた。



『杵築、すまんが見ての通りだ。「守屋」は被弾した。僚艦の「御雷」も、ほとんどがやられている』


声は擦れ、途切れながらも、報告の体裁だけは崩していない。

その律儀さが、かえって胸を締めつけた。


「諏訪部さん、もう喋らないで下さい」


睦貴は感情を抑え込み、静かに制した。


「手短に伝えます。八咫は間もなく復旧します。復旧後、現在すでに『草薙』が展開されていても、再実行すれば八咫の制御に切り替わります」


言葉を重ねながら、睦貴は画面越しに明仁を見つめていた。

届くはずのない距離を、視線で埋めようとするかのように。


その説明を聞き終えた瞬間だった。


明仁の瞳から、ふっと力が抜ける。

張り詰めていた糸が切れたように、眼球が上へ滑り、瞼がゆっくりと落ちかけた。


意識が失われると思われた刹那、画面の外から一人の幕僚が駆け込み、崩れ落ちる身体を抱きとめた。

がっしりとした腕が、その体を支える。

血に染まった制服が、さらに赤を重ねる。

その血が誰のものかなど、考えるまでもない。


演習の折、明仁の隣で常に補佐を務めていた青年将校。

半歩後ろに控えながら、明仁と同じ威圧を放っていた男。


児玉宅哉。



――俺の跡継ぎだ――



誇らしげにそう紹介された日のことが、不意に蘇る。


その宅哉に支えられ、明仁の瞳がわずかに開く。

消えかけた灯が、かすかに揺れ戻る。



『いい顔になったな、杵築』


血に濡れた唇が、わずかに綻ぶ。


『国を背負う男の顔だ』


その声は、もはや風に消えそうなほど細い。



「諏訪部さん…それ以上は、もう」


睦貴は、喉の奥から絞り出すような声で懇願した。

身体が揺らぐ明仁を、宅哉が必死に支えている。

そのたびに、制服の左袖が力なく揺れていた。



睦貴の横で、足音が止まった。

最終医療責任者の鳥取智成が、無言でモニターの前に立つ。

視線は鋭く、しかし慌ててはいない。

明仁の状態を一瞥で拾い上げ、その場で睦貴に低く告げる。


「深刻な出血性ショックです。呼吸音の喘鳴から、肺損傷の疑いも。この異常な顔色の悪さから見て、おそらく腹腔内でも盛大にやってます。急ぎ医務室への搬送が必要です」


睦貴は一瞬だけ、智成を見る。

言葉はない。


だが、智成にはその視線だけで十分だった。


「帰還港へ向かいます。横須賀で待機し、状況に応じて動きます。医務室で応急処置さえしてくれれば、後は私が何とかします」


智成は、日本ではあまり知名度はないが、世界ではその名を知らぬ外科医はいない。

海外の名門病院が、巨額の契約を提示し続けてきた男だ。

それでも彼は、すべてを退けた。

「アマノイワト」に賛同し、この地下に身を置いた。


その男が「何とかする」と言ったのだ。

睦貴は、ほんのわずかに息を吐いた。



その時、コントロール室の最奥から、大声で睦貴を呼ぶ者がいた。

視線を向けると、思原兼友が大きく腕を掲げ、円を描くように両手で合図を送っている。



――八咫が復旧した。



まさに間一髪のところで、八咫が息を吹き返した。


睦貴の表情に、張りつめていた硬さがほどける。

それは歓喜というより、極限から解き放たれた安堵に近い。


「諏訪部さん、八咫が復旧しました。直ちに『草薙』を再実行し、艦を守って下さい。そして一刻も早く、無事に戻って下さい」


モニターの向こうで、明仁が笑みを作る。

血に濡れた顔で、それでも、いつものように。


何かを言おうとする。

だが、言葉は痛みに阻まれ、喉の奥で砕けた。


「児玉さん、一刻も早く医務室へ。間に合います。必ず」



その瞬間、児玉の目に火が戻るのが見えた。


――諏訪部明仁がそこに在る。


その名があるだけで、彼らは戦場に立てる。



宅哉が身体をカメラに近付ける。


『杵築さん。我らは必ず戻ります』


簡潔な言葉だったが、その声には迷いがない。


『では、回線を切ります』


睦貴は大きく頷く。

その頷きを見届けると、児玉の腕がゆっくりと伸び、カメラに触れた。

映像が揺れ、次の瞬間にはモニターは暗転し、「No Signal」の文字だけが浮かんだ。



「武運を…」


睦貴は暗転したモニターを見つめながら、一人呟いた。






艦橋では重傷を負った幕僚の搬送が完了し、残すは明仁だけになっていた。

その傍らには、身体を支える宅哉と、衛生員が静かに控えている。


それでも明仁は、なお艦橋に立つつもりでいた。


意識は濁り、視界も定まらぬはずだ。

だがその眼だけは、正面を見据えている。

気迫だけで、崩れ落ちる肉体を縫い止めているかのようだった。



「天之御中」と連動する戦術表示卓が、光を更新する。

八咫の制御に移った瞬間、探査範囲が拡張された。


そして――聖府軍の全容が見えた。


それまで確認されていた隻数の、倍を超える艦影が、闇の向こうから集結しつつある。

海は、敵で埋まっていた。


技術力も、戦力も圧倒されている。

もはや宅哉には、戦況を覆す道筋が見えなかった。



後退中の「御嶽」と、その僚艦たちが前方に姿を現す。

「御嶽」の艦体には黒い損傷の筋が走り、それでも辛うじて航行を保っている。



「『草薙』を、再度展開する」


明仁が命令を下した。

震える右腕が空を探り、指先が定まらない。

宅哉は即座にその手を取り、スキャナーへと導いた。

血に濡れた掌が、装置に触れる。


『Command?』


文字を視認した瞬間、明仁は宅哉の支えをそっと振りほどいた。

そして、わずかに揺れながらも、自らの脚で立つ。



「実行――」



艦橋に落ちたその声には、いつもの威圧が戻っている。

背後でそれを聞いた宅哉は、思わず背筋を正す。




「草薙<KUSANAGI>」




高出力マイクロ波の立体フィールドが瞬時に再構築され、「守屋」を覆う。

範囲も厚みも、密度も違う。

先ほどまでの応急的な展開とは、まるで別物だ。

八咫の制御が戻ったことで「草薙」は本来の構造を取り戻し、守屋の周囲だけ、世界の法則が一段書き換えられたかのようだった。



その脇を、「御嶽」が静かに通過していく。

損傷を抱えながらも、なお航行を保つ艦影。



これより最前線に立つのは、守屋艦隊ただ一つ。



「全艦反転。『御嶽』を護りつつ速やかに後退」


わずかな間があり、明仁は決断を静かに下した。




「…そして全軍、撤退する」




明仁は戦闘の終結を宣言すると、振り返り宅哉の目を真っ直ぐに見た。


「児玉。ここからはお前に任せる」


血の気を失った顔で、それでも微かな笑みを浮かべる。


「最初の指揮が、不名誉な撤退ですまなかったな」


宅哉は即座に一歩踏み出した。


「司令。最も困難な殿(しんがり)を務める。これこそ武人の誉です」


その言葉に力はあるが、誇張はない。


「必ず、全艦を帰投させます」


明仁は、ほんのわずかに目を細める。

それが笑みであると分かるまでに、数瞬を要した。



緊張の糸が切れたように、明仁の膝がゆっくりと床へ落ちる。

崩れたのではない。

役目を渡し終えた身体が、ようやく重力を思い出しただけだ。



衛生員が素早く駆け寄り、担架の上にその身が横たえられる。

明仁の視線は、なお正面を向いていた。

「守屋」の外縁で、「草薙」のシールドが静かに脈動している。


その振動が、まだ終わっていない戦場を告げていた。




運び出されていくその姿を、宅哉は直立のまま見送った。







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