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神代基層(じんだいきそう)  作者: 久遠 玲
第四章 潰えゆく希望
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第三十話 決戦③

雲ひとつない、抜けるような青空だった。




明仁は丁寧に刈り込まれた芝の上に腰を下ろし、幕僚たちが手際よくテントを組み立てていく様子を、ぼんやりと眺めていた。

金属ポールの触れ合う乾いた音が、穏やかな風に乗って耳に届く。


少し離れたところでは、睦貴と湊が焚火を囲み、湯を沸かしている。

やがて漂いはじめたコーヒーの香りが、どこか現実味の薄い幸福感を運んできた。


ただ眺めているだけの時間にも飽き、明仁はそのまま芝生に身を横たえる。

背中に伝わる柔らかな感触と、陽に温められた空気の匂い。

頬を撫でる風はやわらかく、目を閉じれば、身体の芯から力が抜けていくのがわかる。



気心の知れた仲間たちと過ごす、任務とは無縁のひととき。

野営ではなく、ただのレジャーとしてのキャンプ。


そんな時間も悪くない――そう思える瞬間だった。



「司令、コーヒーをお持ちしました。起きてください」


宅哉の声が、すぐ傍で響く。

せっかく訪れた眠気を惜しみながら、明仁は目を閉じたまま応じた。


「おいおい、司令はよせ。非番のときくらい、諏訪部でいい」


「司令、起きてください。まだ眠るには早いですよ」



声が、わずかに強張る。






「司令!起きてください!司令!」



宅哉の絶叫だった。

明仁は、弾かれるように目を開けた。


青空はない。

芝生も、焚火も、コーヒーの香りもない。

代わりに、焦げた匂いと、耳鳴りのような残響があった。


夢から引き剥がされてもなお、意識は現実を拒み続けた。

自分が床に伏しているのだと理解するまで、10秒ほどの空白が必要だった。


上体を起こそうと床に手をつく。

その瞬間、身体が思うように支えられず、明仁は左へと崩れ落ちた。


視界の端に、あり得ない光景が映る。



左肘から先が、吹き飛んでいた。



血の匂いが、ようやく現実を伴って押し寄せる。


周囲を見渡せば、幕僚たちもまた、床に倒れ伏している。

衛生員たちが駆け回り、倒れた者を担架へと乗せ、次々と運び出していく。


さきほどまでの静寂が、嘘のように消えていた。


「司令、止血をします!痛みでそのまま気を失っていてください!」


冗談とも本気とも受け取れる宅哉の言葉で、ようやく明仁に痛覚が戻ってきた。


これまで味わったことのない激痛が、左腕の断端から脳天へと突き抜ける。

呼吸をするたびに肺が軋み、その振動が肋骨を通じて鋭く響く。

吸うことも、吐くことも、拷問に近い。

肋骨にも相当の損傷を負っていることが、かろうじて理解できた。


止血帯が左上腕に巻きつけられる。

宅哉は胸ポケットからペンを取り出し、即席の巻き上げロッドとして止血帯へ捻じ込む。


「締めます!」


宣言と同時に、容赦なく捩じられた。


肉が圧し潰され、骨の奥まで締め上げられる感覚。

断端に残る神経が、悲鳴を上げる。


明仁は声を上げなかった。

奥歯を強く噛み締め、意識が遠のくのを必死に繋ぎ止める。

激痛の波が押し寄せ、視界が白くなっていく。

それでもなお、彼は目を閉じなかった。




「手を貸してくれ。戦況を見る」


かすれた声だった。

だが、その意志は何一つ変わらず、揺らがない。


「いけません。ショックを起こしている可能性があります。そのまま横になっていてください。間もなく医務室へ…」


制止の言葉を最後まで聞かず、明仁は残された右手で宅哉の腕を掴んだ。

指先に力が入る。


「立たせろ」


低く、短い命令。


宅哉は一瞬だけ迷い、それでも逆らわなかった。

明仁の体重を受け止めながら、ゆっくりと上体を起こす。

立ち上がった途端、視界が揺れ、床が波打つように歪む。

だが、倒れない。


宅哉を杖代わりに、半ば引きずるようにして歩く。

一歩ごとに肋骨が軋み、締め上げられた左上腕が脈打ち、血液が体外へと流れ出る。

それでも足は止まらない。



戦術表示卓の前に、再び諏訪部明仁が立った。



血の匂いと焦げた金属の臭気の中、光る表示だけが冷静に戦場を映していた。


「…戦況を報告せよ」


声量は小さい。

だが、艦橋にいる全員が聞き逃さなかった。

その声音には、まだ指揮官の重みと活力が残っている。


宅哉は明仁を支えたまま、戦術表示卓へ視線を向ける。


「本艦は艦橋を一部損傷。しかし航行、戦闘機能は維持しています。本艦被弾直後、僚艦全艦および『御嶽』もミサイル攻撃を受け被弾」


淡々とした報告の裏に、緊張と焦りが滲む。


「僚艦は主に艦前方の損傷が甚大。『御雷』の砲塔を破損。ただし主動力と『草薙』は健在、戦闘継続可能です。『御嶽』の損傷は大きいものの、辛うじて自力航行を維持しています」


戦術表示卓に映る光点が、なおも海上に散らばっている。



「『白山』『磐梯』の乗員救助は」


声は低く、かすれているが、それでも問いは明確だった。


「両艦とも、『御嶽』が総員救助を完了。現在、僚艦とともに主防空群ラインへ後退中です。前衛の潜水艦はすでに後退を完了しています」


明仁はわずかに頷き、目を閉じた。

宅哉は明仁の意識が落ちたと判断し、急ぎ衛生員を呼ぶよう指示を飛ばす。


再び目を開いた明仁は、駆け付けた衛生員を視線だけで制し、命令を下した。


「…守屋艦隊、全艦『草薙』を展開」


艦橋が静まり返る。

倒れている幕僚でさえ、「海将・諏訪部明仁」の一語一語を聞き逃すまいと耳を傾ける。


「前進。『御嶽』の前に出る。後退部隊の盾となれ」


明確な指示だった。

迷いも、躊躇もない。


宅哉が即座に復唱し、各艦へ伝達が走る。

表示板上の光点が、ゆっくりと動き始める。


血に濡れた蒼白の顔面で、それでも前方を睨み続けるその姿は、常人のものではなかった。

痛みも、恐怖も、既に置き去りにしている。



――軍神――



その場にいた誰もが、明仁の姿に神を見ていた。



脇で支える宅哉へと視線を向け、明仁はわずかに笑みを浮かべた。

血の気を失った顔に浮かぶその表情は、どこか場違いなほど穏やかだった。


「どうした児玉。頭から血が流れているが、俺の制服には付けるなよ」


冗談めかした声音は、いつもの調子を崩していない。

訓練の合間に交わす軽口と、何も変わらない響きだった。

宅哉は一瞬だけ言葉を失い、それから小さく息を吐く。


「司令、それだけ軽口が叩けるなら、治療は後回しで問題ありませんね」


同じ調子で応じながらも、その視線は明仁の変化を冷静に追っていた。

明仁は明らかにショック症状を呈していた。


宅哉は笑みを崩さぬまま、支える腕にわずかに力を込める。

この状態で立ち続けることがどれほど危険か、理解していないはずがない。

それでも、止められない。


明仁が立っている限り、艦橋は崩れない。

そのことを、宅哉自身が誰よりも知っていた。




その時、戦術表示卓に固定されている明仁のデバイスが鳴った。

デバイスに表示された発信者の名は――「杵築睦貴」だった。






「アマノイワト」は、重苦しい静寂を破り、にわかに騒然としていた。


端末の起動音、キーボードを叩く乾いた音、短い報告の応酬。

怒号こそないが、空気は張り詰めている。

技術者たちはそれぞれの持ち場で、焦燥を押し殺しながら動き続けていた。


次々と、八咫の状態が睦貴のもとへ集約される。



「杵築室長、最終チェックは間もなく完了します。現在のところソフト、ハードともに異常は確認されていません。チェック終了と同時に、再起動を実行します」


思原兼友の声は高揚していた。

興奮と、わずかな安堵が混じっている。


八咫は自動修復を終え、最終検証段階に入っていた。

消失していたコードは原型通りに復元され、改変箇所もすでに技術者たちが修正を完了している。



睦貴はモニターから視線を外し、隣に立つ湊へ向ける。


「湊。あれから海上の状況は、何か掴めたか」


「前方配置艦が、聖府のミサイル攻撃を受け戦闘不能に陥った、という報告が最後です。それ以降は、防衛省全体が情報錯綜状態にあります。正確な戦況は把握できていません」


湊の口調は平静だった。

しかし、その声の奥にある微かな硬さを、睦貴は聞き逃さなかった。


戦場ほどの爆音はない。

だが、見えない時間との戦いが、確実に進行している。

睦貴もまた、胸の奥で膨らむ焦燥を自覚していた。



「杵築室長、最終チェック完了しました。オールクリアです。再起動の許可をお願いします」


「よし、急いで再起度してくれ。再起動と同時に、三峯精機からシステム制御を八咫に切り替える。手順を間違えるなよ」


兼友が片手を上げながら、駆け足で去っていく。

今日一日だけで、ハーフマラソン程度の距離は移動しているに違いない。

それでも疲労を訴える余裕など、誰にもなかった。


「再起動と制御切り替えが完了次第、お前は内閣情報官へ報告を頼む。混乱を広げないよう、直で繋いでくれ。俺は諏訪部さんに、直接伝える」


八咫の復旧が、戦況をどこまで押し戻せるかは未知数だ。

間に合う保証もない。

その知らせが、まだ戦えるという証になるのなら、一刻も早く海上へ届けなければならない。



睦貴はデバイスを取り出し、明仁への直通回線を開いた。






数秒の呼び出し音ののち、回線が開いた。



『杵築か。連絡が遅いぞ。待ちくたびれて、もう帰港しようと思っていたところだ』



軽口だった。

声音も、調子も、いつもの明仁をなぞっている。


だが、違う。


睦貴は、最初の一言でそれを悟った。

声に、独特の圧がない。

あの男特有の、豪快な響きが消えている。

息を吸うたびに、微かな喘鳴が回線越しに伝わってきた。


睦貴の指先が、無意識に強張る。

明仁の背後では、怒号に近い指示と報告が飛び交っていた。


『左舷損傷拡大!』

『衛生員、搬送急げ!』


断片的な言葉だけでも、艦橋の異常な緊迫が伝わる。

それでも、明仁の声だけは、妙に静かだった。

その静けさが、かえって不穏だった。



「諏訪部さん、映像での通話に切り替えて下さい」


睦貴の静かな声に、少しの間、明仁の応答が途切れた。

ようやく返ってきた言葉は、やはりいつもの明仁らしいものだった。


『おい杵築。すまんが俺には男の顔を見ながら通話する趣味はないぞ。美しい女人なら歓迎だがな』


「諏訪部さん」


名を呼ぶ声に、抑えきれない緊迫が滲む。

近くで睦貴の様子を見ていた湊が、急いでモニターへデバイス映像を出力する。

回線が切り替わり、わずかな空白ののち、画面に艦橋の映像が映し出された。


睦貴は、息を呑んだ。

湊は無表情のまま画面を見つめているが、動きは止まっていた。



それは、睦貴が知る「守屋」の艦橋ではなかった。


最新鋭のコンソールが整然と並び、世界屈指の防空能力を誇る艦。

演習の時、屈託のない笑顔で迎えてくれた幕僚たち。

そしてその中央に、颯爽と立つ制服姿の諏訪部明仁。


その光景が、まるで遠い記憶のように揺らぐ。



艦橋の前面ガラスは吹き飛び、整然としていたはずのコンソールは、一部を除いて転倒し、配線がむき出しのまま床を這っていた。

衛生員が慌ただしく駆け回り、動かぬ幕僚を担架へと乗せて運び出していく。

立っている者でさえ、血に染まっていない者はない。



音声越しに聞こえていた混乱が、ようやく現実の姿を伴った。





その目に映った光景は――




打ち砕かれたのが艦橋なのか、それとも自らの希望なのか、判然としない光景だった。

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