第二十九話 決戦②
「司令。本艦からの警告通信に応答あり」
その報告は、艦橋の空気をわずかに変えた。
告げた幕僚の声には、緊張よりも困惑が滲んでいる。
想定外の事態に直面した者の声色だった。
明仁と宅哉が、同時に振り向く。
「それが…敵指揮官と思われる人物からの返信です。『神器を操る者と話がしたい』と。通常の軍事交信では考えられない内容です。いかがいたしましょうか」
神器を操る者。
その呼称に、明仁の脳裏へ一人の男の顔がよぎる。
武 雷霆。
あの男が、自分をそう呼んだ。
「よし、俺が出よう。少なからず因縁がある。スピーカーに出せ」
明仁が指示を出すと、艦橋の空気がわずかに張り詰め、静寂に包まれた。
スピーカーからは何も流れてこない。
明仁は、しばらくその無音を聞いていた。
「回線、維持」
明仁が通信卓へ進むと、通信員が無言でマイクを差し出した。
送信ランプが赤く点灯する。
「…こちら守屋艦隊司令だ」
『神器を操る者、諏訪部明仁。貴公に問う』
官邸での会見と同じ問いが、再び投げかけられた。
声色は異なるが、雷霆そのものの意思が、確かにそこにあった。
『国を譲れ』
この一言を聞いた艦橋の幕僚たちの動きが、完全に止まった。
宅哉は無表情で、静かな殺気を放っている。
もし目の前に敵司令官の姿があったら、ためらいなくその喉元に手を掛けていたに違いない。
誰一人として声を上げる者はいなかったが、艦橋内の空気が、一つの渦巻く闘志で満たされた。
「話し合いの余地はあるはずだ。この緊張を解く道を、探るべきだろう」
『話し合うことは何もない。国を譲るか、否か。その返答のみが我の望むものだ』
話し合いでこの状況を打開したいのは日本側だけであり、圧倒的優位の聖府軍には不要な問答だ。
時間を稼いで八咫の復旧を待ちたいが、それはあちらも警戒しているだろう。
『神器が失われていることも、承知している。あれほど堅牢だった防衛網が消えた。貴公らが纏うその盾も、もはや意味を持たぬ。神を前にして、張りぼての船で抗うつもりか』
「この戦線を互いに引くのであれば、この旗艦『守屋』は、今後二度と横須賀から出航しないことを誓約しよう」
たとえ『守屋』が封じられても、他艦に『草薙』『御雷』を再配備できれば、戦況は変わる。
一日。
いや、半日でもいい。
その時間を稼げるなら、旗艦の拘束は安い代償だった。
そのとき、防空担当幕僚が振り向かずに叫んだ。
「司令!外縁防空群『磐梯』『白山』より入電!敵艦隊より被弾!」
指揮官同士が通信中の不意打ち――
話し合いが決裂したことを意味していた。
回答の不服を、武力で示してきた。
明仁の下に、矢継ぎ早に続報が届く。
「両艦、艦体急速凍結!主機関停止!電源系統、順次ダウン!」
「熱源急減!艦内温度、氷点下へ移行中!」
「対空レーダー反応消失!」
「リンク一六、不安定!『磐梯』データロスト!」
「白山…応答ありません!」
液体窒素、あるいはそれに類する極低温物質を用いた攻撃である可能性は高い。
だが、艦艇規模を瞬時に機能停止へ追い込む出力など、常識では説明がつかない。
大量の低温弾頭による飽和攻撃か。
――それとも、未知の技術か。
確かなのは、わずか一撃で、外縁を担っていた「白山」「磐梯」という両翼を失ったことだった。
「全艦、対艦射撃開始。目標、敵主力。データリンク座標を使用」
明仁は命令を下したが、どれだけの効果があるかは疑問だった。
敵影は自艦レーダーでは捕捉できないため、「天之御中」から送られる座標のみが、唯一の照準だった。
命中保証はない。
発射の号令と同時に閃光が走り、40式艦対艦誘導弾が轟音とともに艦を離れた。
白煙を尾に引き、海面すれすれを加速する。
50発近い誘導弾の姿は、やがて小さな点となり、蒼い水平線の彼方、見えぬ敵を目指して一直線に飛び去った。
艦橋内に、異様な静寂が落ちる。
1秒がやけに長く感じる。
戦術表示卓の電子音だけが、規則正しく鳴っている。
3分が経過し、飛翔時間は過ぎているはずだった。
しかし、戦術表示卓に映る「天之御中」のデータには、何も変化は起きていなかった。
聖府軍への命中評価は、不能。
そのとき、再び回線が開いた。
『諏訪部明仁。国を譲るか』
揺らぎのない、再びの問い。
聖府の艦艇に、傷一つ与えていない証左であろう。
「やかましい」
明仁は、わずかに鼻で息を鳴らした。
「知らんだろうがな、日本には『売られた喧嘩は買う』という言葉がある。俺が望むのは…」
呼吸を吸い込み、闘志を溜める。
「武 雷霆。貴様をこの拳でぶちのめすことだ」
明仁の言葉が落ちた瞬間、艦橋はにわかに熱気を帯びた。
次の瞬間、一斉に笑い声と盛大な拍手が沸き起こる。
圧倒的劣勢の中でも、司令が揺らがない。
それが諏訪部艦隊の強さだった。
明仁の言葉を最後に、通信は静かに途絶した。
「まずは生還しないことには、司令の望みも実現しません」
宅哉が半ば呆れた顔で、明仁にコーヒーを差し出す。
受け取った明仁は笑っていたが、内心は穏やかではなかった。
これで通信による時間稼ぎもできなくなった。
すでに武力衝突により「白山」「磐梯」の両翼をもがれた。
そして現在、日本側に有効な一手は見出せない。
「司令。『白山』『磐梯』両艦より回線復旧!」
室内の視線が一斉に向いた。
「両艦とも主機関停止。電源一部喪失。艦内温度、氷点下域。動力回復見込みなし。人的被害、凍傷による軽傷者複数。死者、重傷者なし。両艦、依然として敵有効射程内。救援要請あり」
幕僚の報告に、安堵とも、驚愕ともつかない空気が流れる。
沈めるつもりなら、沈められたはずだ。
明仁の言葉通り、無益な殺戮を避けているようだった。
上陸時の聖府兵たちは、正確な射撃で小銃だけを狙っていた。
身体には当てず、致命的な傷を負わせることはなかった。
今回も同じだ。
艦艇を凍結させ、機能を奪い、戦闘不能に追い込むが、艦内の人員には致命的な損傷を与えていない。
一見すれば、抑制的。
あるいは人道的とさえ評されるかもしれない。
だが、違う。
それは慈悲ではない。
日本を統治下に置いた後、労働力として再配置するためでもあり、社会基盤を維持して効率を落とさないための「人的資源」を毀損しないためでもある。
ただそれだけの最適化。
天(Tian)は、殺す必要がないと判断しているだけだ。
命を奪うより、生かして従わせる方が利益になる。
その冷徹な演算の果てに導き出された「優しさ」に、明仁は、言いようのない嫌悪を覚えた。
そこには怒りも憎悪もなく、ただ、徹底した合理だけがある。
人を人として見ておらず、変数として扱っている。
それが、何よりも不気味だった。
「全潜水艦、打撃予備群ラインまで後退。接触回避を優先せよ。『御嶽』は『白山』『磐梯』へ急行。乗員救助後、両艦は放棄。主防空群ラインまで後退する」
潜水艦8隻は、依然として敵潜を探知できていないが、聖府軍には全てが見えているだろう。
これ以上、現配置で戦線を維持することは不可能だった。
「了解」
「各艦に伝達」
復唱が淡々と返る。
明仁の声は平静を保っていたが、その奥に、わずかな疲労が滲んでいた。
それは肉体のものではない。
選択肢が削られていく指揮官だけが抱える、静かな消耗だった。
その時、前方監視に立っていた幕僚が、双眼鏡を下ろさぬまま叫んだ。
「司令!前方低空に高速飛翔体!方位〇八五!本艦針路上!」
声は裏返っていないが、明らかに切迫していた。
艦橋の空気が一瞬で凍りつき、全員の視線が前方へ向いた。
水平線のわずか上に、陽光を反射する複数の閃光が見えた。
レーダーは何も反応を示していない。
恐るべき聖府軍のステルス技術だった。
目視できた時点で距離はすでに致命的であり、回避はもちろん、迎撃も間に合わない。
明仁は即断する。
「総員!衝撃用意!」
明仁の号令が鳴り響いた。
各員が即座に姿勢を低くし、固定物を掴んで口を開き、衝撃波に備える。
操舵員は身体をシートに押し付けたまま、正面を睨み続けた。
明仁は動かない。
戦術表示卓の前に立ったまま、迫り来る光を見据える。
光点は急速に膨張し、弾体の輪郭が視認できる距離に入った。
海面が爆ぜる。
超低空で飛翔する弾体が、衝撃波で海を抉りながら突進してくる。
白く砕けた飛沫が、一直線に跳ね上がる。
旗艦「守屋」の前方に、僚艦が身を投げ出すように進路へ割り込んできた。
展開された「草薙」のシールドが、陽炎のような歪みとなって僚艦の周囲を覆っている。
ミサイル群は、その防壁へ吸い込まれるように直進していた。
触れる――誰もがそう確信した瞬間だった。
飛翔体の機首が、わずかに振れた。
次の瞬間、推力を維持したまま機体が滑るように横へ流れ、弧を描いて僚艦を避ける。
偶然でも誤差でもない。
明確な意思を感じさせる軌道変更だった。
僚艦を回避したミサイル群は、再び鋭く機首を戻した。
狙いを定め直したかのように、一直線に「守屋」へと向き直る。
超音速域で、これほど滑らかな修正が可能なのか。
人が遠隔操作していたとしても、もはや常識の範疇ではない。
弾体は約20発。
海面高度およそ10メートルを疾走していたが、突如として機首を引き上げる。
波頭を蹴散らしながら急上昇し、艦橋という一点へ収束していく。
「衝突まで三秒!」
誰かの声が裏返った。
「守屋」もまた「草薙」を展開しており、不鮮明ながら防壁が艦を包んでいる。
演習では、接触と同時にミサイルは自壊し、破片は甲板に散り、被害は皆無だった。
しかし今、制御を担う八咫は存在しない。
これほどの艦艇を動員し、幾重にも布陣した大規模戦闘が、わずか数秒の飽和攻撃で終わろうとしている。
20発近い弾頭が、最終的には一つの意志へと束ねられる。
狙いは、艦橋。
指揮官のいる場所。
「こんな出鱈目があるか」
明仁は吐き捨てるように呟く。
異常な機動を可能にする誘導技術への憤りか、あるいは20発もの弾頭を、正確に一点へ叩き込む聖府の演算能力への怒りなのか。
判然としない中で、ただ分かるのは――
これはもはや、戦いではないということだった。
弾体が、「草薙」の境界に触れていく。
シールドに触れた瞬間、弾体の機体表面に微細な火花が散った。
空間がわずかに歪み、推進炎が揺らぐ。
「草薙」は次々とミサイルを跳ね返し、そして軌道を変えていく。
シールドに触れた弾体の爆発が重なるたび、空間の歪みが裂け目となり、まるで薄絹を引き裂くかのように広がっていく。
それでも次々と飛来する弾頭を押し返し、逸らし、爆ぜさせていく。
「草薙」は薄くなり、隙間が大きくなり、もはや一目でわかるほど、満身創痍だった。
それでも崩れ落ちない。
迫りくる火力を薙ぎ払い、退け続けた。
そして――
最後の一発が到達する。
欠けた防壁の隙間を正確に射抜くように、その弾体は突き進んだ。
計算された軌道。
偶然ではない。
完全には防げない。
それでも「草薙」は崩れかけた光をなお保ち、最後の干渉を試みる。
ミサイルの軌道が、ほんのわずかに外れる。
次の瞬間、超音速の鉄塊が艦橋の側壁をえぐり取った。
外壁と構造材を削り取りながら火花と破片を撒き散らし、甲板上に衝撃を叩きつける。
遅れて、閃光が走る。
上空で炸裂した爆発が、圧縮された空気の塊となって艦橋を打ち据えた。
凄まじい衝撃が、艦全体を震わせる。
これまでと違い、聖府軍の明確な殺意が、旗艦「守屋」を襲った。
爆発の残響が、ゆっくりと海へ溶けていった。
衝撃波に荒れ狂っていた海面も、やがて何事もなかったかのように凪いでいく。
空には、黒煙だけが薄くたなびいていた。
旗艦「守屋」は、艦橋左舷の外壁を大きく抉られたまま、なお海上に直立している。
だがその姿は、もはや無傷の威容ではない。
装甲は裂け、骨組みが剥き出しになり、風が破断面を吹き抜けていた。
艦橋内には、低いうめき声が重なっている。
吹き飛ばされた幕僚たちが、血に濡れた床に横たわり、誰かが誰かの名を呼んでいる。
計器の警告音が断続的に鳴り、焦げた匂いが漂っていた。
床一面に広がる血潮の中央で、ひとりの男が倒れている。
諏訪部明仁。
うつ伏せのまま、微動だにしない。
その身体の下から、赤い鮮血が静かに広がっていく。
ただ、艦橋の破断面から差し込む光が、彼の背を淡く照らしているだけだった。
旗艦「守屋」は、沈まない。
だが――
その中心に立つはずの男は、血だまりに沈んでいた。
日本の希望が今、ここに潰えた。




