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神代基層(じんだいきそう)  作者: 久遠 玲
第三章 満ちる祈り
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閑話 諏訪部明仁という男

睦貴は調査室の室長席で、胡坐をかきながら深刻な面持ちで作業に集中していた。

正面には湊が直立し、その様子を静かに見守っている。


「だめだ、何度やっても俺にはできない。諦めたくはないが、このまま続けていても無駄に時間を浪費するだけだ…!」


そう言うと、手に持っていた細い金属製の物体をデスクへ放り投げた。



知恵の輪である。



乾いた金属音が、やけに虚しく響いた。


湊は無言でそれを摘み上げる。


数秒の沈黙――


ただ眺めているだけかと思われたその指先が、ふいに動いた。

細くしなやかな指が、絡み合った輪の隙間を迷いなく滑る。

ピアニストの演奏のような、繊細な動き。

そしてためらいのない大胆さ。


カチリという小さな音とともに、知恵の輪は二つに分かれた。

湊はそれを静かに持ち上げ、眼鏡越しに確認する。


――こんなことも出来ないのですか。


言葉にはされていない。

いないが、睦貴の脳内でははっきりと再生された。


光るレンズの奥に、かすかな哀れみの色が見えた――気がした。


睦貴は表情を崩さぬまま、内心で盛大に地団太を踏む。


「さすがだ湊。この難題を数秒で解くとは。やはり俺が見込んだ男なだけはある」


湊は何も答えず、知恵の輪を元の形に戻すと、そっと睦貴の前へ置いた。

睦貴の負け惜しみは、完全に聞き流されていた。




調査室のドアが勢いよく開いた。

開いたドアは壁に衝突し、大きな音を立てる。

通りかかった環境省の女性職員が、思わず悲鳴を上げた。


飛び込んできたのは守屋艦隊の司令、諏訪部明仁だった。

なぜ、ドアを敵艦の装甲のように扱うのか。

睦貴は抱いた疑問をそっと呑み込んだ。


「今日は非番でな。お前たちの顔を見に来たぞ。いつもの土産だ、もらってくれ」


そう言うと、手の平サイズの達磨を睦貴に手渡す。

明仁が調査室を訪れるたび、必ず持参する例の品である。


観光地の土産、というわけでもない。

環境省の近くにある雑貨屋で、いつも買っているらしい。


なぜ達磨なのか、睦貴も湊も理由はわからない。

明仁の趣味なのか、または単なる嫌がらせなのか。

明仁の表情はいつも真剣で、判断材料にならない。


睦貴のデスクには、すでに達磨たちが所狭しと並んでいる。

赤い軍団が無言で睦貴を見上げ、作業スペースを確実に侵食している。


「比留間、お前の分もあるぞ」


「諏訪部さん、いつもありがとうございます」


湊は恭しく達磨を受け取る。

次の瞬間、手品師も顔負けの滑らかな手つきで、睦貴が並べた「達磨軍団」の最後尾に並べた。

湊は何食わぬ顔で窓の外へと視線を移し、陽光に目を細めている。


睦貴は何も言わなかった。

言ったところで、減るわけではないからだ。



「お!なんだ杵築、知恵の輪をやっていたのか。懐かしいな。こう見えて、俺も得意だぞ」


言うが早いか、明仁はデスクの上の知恵の輪を摘まみ上げた。

巨大な人差し指と親指に挟まれたそれは、もはや金属玩具というより、捕獲された小動物のように頼りなく見える。


明仁の指が動く。

ステンレス製の複雑な曲線は、みるみるうちに直線へと矯正されていく。

やがて明仁の手の中に残ったのは、二本の真っ直ぐな針金だった。


「なかなかの難易度だったな」


それは「得意」ではなく、「特技」ではないかと睦貴は思った。

しかし、明仁のあまりにも真剣な眼差しを真正面から受け、睦貴は一瞬、自分の理解のほうが間違っているのではないかという錯覚に陥った。


もしかすると、知恵の輪とは、こうして解くものだったのかもしれない。




「諏訪部さん、せっかくの非番なのに、調査室で貴重な時間を使ってもいいのですか」



今回の国難に立ち向かった関係者は、誰もが心身を削るような日々を送っていた。

当然、その中心にいた明仁の負担は計り知れない。

貴重な休日にわざわざ顔を出してくれたことが、睦貴には少しだけ意外だった。

だからこそ、その問いは揶揄でも皮肉でもなく、純粋な気遣いだった。



「なに、こんな俺でもな、今日は逢瀬があるのだ。時間に余裕があったから、顔を出してみた」


そう語る明仁の横顔は、どこか誇らしげだった。



――逢瀬。



その単語を聞いた瞬間、睦貴は反射的に明仁を頭の先から足元まで見直した。


上下ともに迷彩服。

ブーツも当然のように軍用。


どう贔屓目に見ても、任務中の陸上自衛隊員である。

これから富士演習場へ向かうのだと言われたほうが、まだ自然だ。


以前も、「逢瀬がある」と言って現れたときの服装は、市街地用の迷彩だった。

待ち合わせは駅前。

人通りの多いロータリーの一角で、明仁は朝から夕暮れまで、微動だにせず直立していた。


結局、明仁の前に女性が現れることはなかった。

市街地迷彩のまま、息を潜めて直立している男を見つけ出せという方が酷だったのかもしれない。


あの日、無言で帰還した明仁を、達磨たちと見届けたことを睦貴は思い出した。




「それで、デートプランのようなものはあるのですか」


怖いもの見たさで、睦貴が問う。

湊もわずかに興味を示し、視線を向けた。


「うむ。今日は映画を一緒に観ようと思っている。公開直後から、女性に絶大な人気を得ている映画だそうだ」


「そんな映画、今やってましたかね…」


睦貴は記憶を手繰る。

だが、「女性に大人気」という触れ込みの実写映画や恋愛作品は思い当たらない。


明仁は胸ポケットから、しわくちゃになった映画のチラシを取り出し、デスクに広げた。


「輝く防衛者たち、だ」


「輝く防衛者たち…」


睦貴は力なく言葉を反芻した。


そこには、煌びやかな衣装に身を包んだ女の子のアニメキャラクターたちが、満面の笑みでポーズを決めていた。

チラシのタイトルには、「シャイニング☆ディフェンダーズ」と書かれている。


それは「女性に人気」なのではない。

どう控えめに表現しても、「女児に人気」である。

対象年齢が40年ほど違う。


混乱する睦貴をよそに、湊が静かに中指で眼鏡を押し上げた。


「俺は映画のことはさっぱりだが、これが大人気だという情報を幕僚たちが語っているのを耳にした。話によると、この作品では観客の応援が戦力の底上げになる仕組みだそうだ。映画の進化は、ここまで来ていたのだな」


その幕僚たちは、既婚者で子供がいるのではないか。

睦貴は声に出そうとしたが、明仁の無垢な瞳の前に、口を閉ざした。


女児とその保護者に囲まれた劇場内。

その中央で、迷彩服の巨躯がペンライトを高らかに振る姿。


想像した瞬間、睦貴はある種の絶望を覚えた。

国家防衛の要が、なぜそこへ向かうのか。

理解が追いつかず、睦貴は低く、腹の底から唸った。


幕僚たちからは、20式5.56ミリ小銃を抱えて生まれてきたに違いないと、半ば本気で恐れられている。

それが諏訪部明仁という男だった。


睦貴は今、何か別の恐怖を抱いていた。



「このような防衛思想の啓発映画が人気を博すとは…時代は変わったのだな、杵築」


解釈が、だいぶ軍事寄りである。

たしかに、日本語訳をすれば「輝く防衛者たち」であり、明仁がその方向へ全力疾走してしまうのも、無理からぬことだと思えた。


この誤解を、どう解けばいいのか睦貴は逡巡した。

湊は無表情で、チラシを見つめている。


「諏訪部さん、大変申し上げにくいのですが。この映画は児童向けのアニメ作品でして…」


「室長」


意を決して口を開いた睦貴の言葉を、湊が遮った。


静かな声だった。

並の官僚であれば、この呼びかけだけで姿勢を正し、言葉を呑み込むだろう。


湊は無表情のまま、中指で眼鏡を押し上げた。

眼鏡のレンズが、いつも以上に鋭く光っているように見えた。



「室長、お言葉ですが。この作品は、各キャラクターの個性が実に丁寧に描写されています。特にルミナ・ブレイズの勝気な表情と、不意に見せる照れた笑顔の対比は秀逸です。変身バンクの所作も洗練されており、細部まで作り手の愛情が感じられます。児童向けアニメという狭い分類に収まるものではありません。これはまさに、守る価値のある作品です」



聞き取れぬほどの早口で言い終えた湊の表情には、なぜか達成感が満ち溢れいていた。

明仁は満足気に何度も頷いているが、恐らく何も理解していないだろう。


調査室には、汗臭い奇妙な一体感が漂っていた。



睦貴は、静かに息を吐く。






この二人が、いまだに結婚していない理由。

その一端を、今まさに垣間見た気がした。

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