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神代基層(じんだいきそう)  作者: 久遠 玲
第三章 満ちる祈り
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第二十六話 小康

迎撃システムの「大祓」を発動後、八咫が沈黙した時は、さすがの睦貴も血の気が引いた。


技術者たちの懸命な調査により、その原因は早期に判明した。

過負荷による物理損傷を回避するため、八咫自身が自律的にシャットダウンを実行していたのだ。


もっとも、その代償は小さくなかった。

八咫を構成するOSのコードが一部消失、あるいは改変されており、完全復旧にはなお時間を要する見込みだ。

現在は八咫自身による自動修復を進めており、それが完了次第、人の手で最終確認を施し、再起動する予定だ。




「総理は今回の聖府上陸を受け、大使の武 雷霆と会談の場を設けたようです。ですが途中で武大使が二度ほど失神し、会談は中断されたとのことです」


内閣府での情報収集を終えた湊が、調査室に戻り報告する。


「雷霆の精神に波動の影響が及び始めているのか…。または、あの完璧な天(Tian)の接続に、何かしらの障害が生じたのか。いずれにせよ、尋常な反応ではないな」




北京市と南京市の天(Tian)が陥落したことを、睦貴はもちろんのこと、日本側が知る由もなかった。

現在は成都市のバックアップが稼働し、統治機構も対外的な威圧も、表面上は揺らいでいない。




「柿崎川周辺での災害ですが、被害状況が判明しました。柿崎川ダムの水門が破損し、全開放状態にあります。ただ、この時期の貯水率は最大でも20%前後です。現在は放水の影響で枯渇状態であり、修復には時間的余裕があるとのことです。そのほか、田畑や建築物などに被害は出ていません。」


水門は、天(Tian)のハッキングによって強制的に閉鎖されていたという。

制御上はいまも閉門のままであり、物理的に破断されたとしか思えない状況だった。



「湊、柿崎川に立つ女性の姿を…お前は見たか?」


「いえ、確認できませんでした。ダムの水門が破損する直前に監視カメラの映像が途切れていますが、そのような人影は映っていませんでした。民間人の避難は完了しており、周辺には自衛隊が展開して警戒中でした。一般人が立ち入るのは、ほぼ不可能かと」


「そうか」



短い応答ののち、睦貴は目を閉じた。



「それで、聖府軍の撤退理由は何か掴めたか」


「日本海への物資流出により、補給に不安が生じたと推察されています。すでに上陸兵力が多く、新規の陸揚げでは立て直せなかったのでしょう」



あれほどの大艦隊が突如として消え、残骸一つ確認されていない以上、撤退と判断するほかない。

もし何らかの力で沈められたのだとすれば、いまごろ艦の破片や無数の遺体が沿岸に打ち上げられ、海は騒然としているはずだった。



今回の「大祓」の発動と、ダム放水による聖府軍の撤退。

その因果関係が掴めないまま、睦貴は釈然としないものを抱えていた。



「湊、『大祓詞』は知っているか?」


唐突な問いに、湊は一瞬だけ困惑の色を見せた。


「大祓詞、ですか。六月と十二月に神社で奏上される祝詞。その程度の知識です。名のとおり穢れを祓うための祝詞、でしょうか。個人というより、もっと大きな単位…国全体を祓うためのものかと」


「その大祓詞はな、神々がこの地に降り、統治を定める場面から始まる。やがて人が増え、罪や穢れが満ちたとき、それをいかに祓い、どこへ流すのか。その道筋まで語られている」


湊の表情から困惑は消えきらない。

だが、その奥には明らかな関心の色が宿っていた。

睦貴は言葉を続ける。


「祝詞の終盤では、祓戸大神たちが罪穢れを次々と受け渡していく。川から海へ流し、海原に呑ませ、さらに黄泉へと送り…最後には跡形もなく消し去る。その連なりが描かれている。『大祓』に投入された波動は、この祓戸大神たちの神威だ」


そこまで聞き、湊はふと何かに思い至ったように口を開いた。


「発動した『大祓』と、今回の現象に因果がある…と、室長はお考えですか」



あのとき、柿崎川で起きたことは、誰も把握できていない。

ただ一つ確かなのは、監視カメラの映像が途切れる瞬間、瀬織津姫がそこに立っていたことだ。

睦貴は、確かにそれを見た。



「災害の一語で片づけるには、あまりにも整いすぎている…と俺は感じている。『大祓』の発動とほぼ同時に、開くはずのない水門が開いた。通常なら、土砂や倒木を巻き込んだ濁流が周辺を破壊する。しかし河口へ至る水は澄み、被害は皆無に等しい。水害で聖府軍だけを押し流すなど、偶然で起こり得るだろうか」


一拍置いて、睦気は続ける。


「海に流された兵士や物資が、一つも海岸や海域で発見されていない。これも不可解だ。回収作業をしていたら、これほど早く艦隊が撤収するには時間的に辻褄が合わない」


「つまり、意図的にダム放水で沖に押し出し、その海上で『消した』ということですか。その一連の流れが、『大祓』の発動効果だったと…」



睦貴はふたたび目を閉じ、しばらく考え込んだ。

湊は急かすことなく、辛抱強くその続きを待つ。



「大祓詞には、罪穢れを祓うためのトリガーが記されている。『(あま)祝詞(のりと)太祝詞事(ふとのりとごと)』を()り上げることが、その条件だ」


「天つ祝詞の太祝詞事…。どのような祝詞なのでしょうか」


睦貴は肩をすくめ、わずかにおどけてみせる。


「所説ある。だが、いずれも真偽は定かではない。神々が()す天空世界の祝詞を、人が言語化できるかも怪しい。ひょっとすると、大祓詞を編んだ者の『想像上の究極の祝詞』かもしれん」


湊は露骨に落胆した。

その様子を面白がるように、睦貴は続ける。


「これは俺の仮説だが…。『大祓』の発動で八咫は過負荷状態に陥った。だがその裏で、『天つ祝詞の太祝詞事』に類する、俺たちの理解を超える何かが実行されていたのではないかと思っている。トリガーが引かれ、祓戸大神が顕現した。そして俺は、映像が途切れる直前、柿崎川に立つ瀬織津姫を見ている」


「八咫は、人知を超えた領域を演算したため、過負荷になったとお考えですか」


睦貴は頷いた。


「神々の祝詞を()れるのは、やはり神しかいないと俺は思う。そして八咫には、大国主大神の神威が流れている…」


独り言のように呟く睦貴の言葉を、湊は真剣に聞いている。


「あの時、俺たち調査室はもちろん、多くの国民の願いが一つになっていた。『国を守りたい』という祈りだ。人の祈りが満ちるとき、神の力も満ちる…と気吹戸主は語っていた。これ以上ないタイミングだったのだろう」


「八咫の回答に変化がありましたが、あの意味に心当たりはありますか」


睦貴はデバイスを取り出し、湊と一緒にディスプレイを見る。


「『過去に発現した類似の性能』というのは、恐らく元寇で顕現した級長津彦命の『神風』を指すのだろう。あの時代にシステムも制御もなかったが、何も問題は発生しなかった」


「では、この『日常でも人々が体験している』というのは…」


睦貴は笑って、腕を左右に大きく振る仕草をした。


「祈祷の際に、『祓詞』を奏上して神職が大麻(おおぬさ)でお祓いをするだろう。あのとき、祓戸大神たちは人々の罪穢れを祓ってくれている。その気配、神威は感じられなくても…人々の祈りに、応えてくれている」


湊は黙って、調査室の窓から空を見つめた。

神威を間近で体験した者でなければ、到底受け入れ難い話だ。

少し前の彼なら、相手が黙るまで科学的反論を重ねただろう。


だが今は違う。

睦貴の言葉を、静かに受け止めている。



「ま、正直なところ、今回の件は誰にもわからんよ。周辺地域の監視カメラはすべて同時に途絶え、記録にも残っていない。復旧したときには、艦隊がきれいさっぱりと消えていた。確かなのは、水門の破損と放水だけだ。あとはすべて、単なる推測に過ぎない」



湊は全てを察したのか、少しの笑みを浮かべながら、中指で眼鏡を上げた。




そのとき、調査室の外がにわかに騒がしくなった。

異変に気づいた湊が立ち上がろうとした瞬間、ドアが勢いよく開く。


「邪魔するぞ。途中でコーヒーを買ってきた。これがあると、お前の機嫌が良くなると聞いてな」


入ってきたのは、内閣総理大臣の須賀 猛と、秘書官の櫛田奈緒だった。


睦貴と湊は立ち上がり、二人を迎える。

猛は遠慮なくソファーへ腰を下ろすと、室内をぐるりと見回した。


「なかなかいい仕事部屋だな。私が初当選した頃を思い出す」


豪快に笑う猛とは対照的に、睦貴は内心穏やかではない。

総理自ら足を運ぶ以上、雑談で済むはずがない。

また国難が押し寄せてきたか、いつも通り無理難題を押し付けにきたか、判断できなかった。


「親父殿…いえ、総理。ご用件があるなら、こちらから伺いましたが…。本日は、どのようなご用向きでしょうか」


「ほう、ずいぶん殊勝になったな。少し前までは、呼び出せば遅刻するわ、用が済めばさっさと帰るわ。少しは私を尊敬する気になったか?」


室内にくすりと笑いが広がる。

だが睦貴だけは、どこか憮然としたままだった。




四人はソファーに座り、猛が買ってきたコーヒーを手に談笑した。


「今回の聖府による上陸は、さすがの私も肝を冷やした。無事に国難を乗り切れたこと、まずは礼を言っておきたくてな」


そう言って、猛は睦貴と湊に向かって頭を下げた。

奈緒も、それに倣って深く一礼した。


「やめてください親父殿。俺たちは迎撃システムの実行はしましたが、発動効果は確認できていません。聖府軍の撤退も、ダム放水の事故が偶然こちらに味方しただけに過ぎません」


猛はゆっくり首を振る。


「国民が団結してくれた。そしてお前たちが最善を尽くした。その事実があったからこそ、我々も最後まで踏みとどまれたのだ。私が立っていられたのは、お前たちに支えられていたからだ」


睦貴は何も言わず、その言葉を受け止めた。

心の内で、静かに頭を下げる。



やがて奈緒が、空気を引き締めるように口を開いた。


「今回の聖府による侵攻について、監視カメラ映像を解析し戦力を推定しました。上陸兵力は約2万8千名。第二波として待機していた兵力は8千名を超えると見られます。艦艇は強襲揚陸艦4隻、護衛艦および駆逐艦が16隻。その後方に、補給艦を含む支援艦艇が多数確認されました。映像で確認できた範囲での数字ですので、実数はさらに上回る可能性があります」


その規模に、睦貴は息を呑んだ。


「完全に首都包囲を想定した戦力ですね。それが、あの短時間ですべて消えたというのか…」



何かを考え込む睦貴を見て、猛は話題を変えた。


「それで、お前の『おもちゃ』が壊れているらしいが、直る目途は立っているのか」


「現在、八咫は破損したコードを自己修復中です。それが完了次第、技術者による最終確認を経て再起動できる見込みです。先ほど技術統括官から連絡があり、もう少し時間を要するとのことでした」


猛は眉間に皺を寄せて、不安げな表情を浮かべた。


「聖府のハッキングが気にかかる。インフラを掌握されれば、我が国はひとたまりもない。いまは三峯が開発中のAIを防御の中核に据えているが…三峯いわく、天(Tian)や八咫には及ばない、当面を凌ぐのがやっとだそうだ」


「三峯精機のAIについては、私も概要を把握しています。演算能力は天(Tian)に肉薄すると聞いています。三峯精機の『凌げる』という言い回しは、安全側に見積もった表現でしょう。あの人たちは、過大評価を嫌いますから」


睦貴が指摘する三峯精機の性分に、調査室は笑いに包まれた。



「それにしても、この日本に再び神風が吹いてくれたとはな。やつらも元寇を思い出し、これで諦めてくれれば有難いのだがな」


「親父殿、その『神風』というのはお止めください。へそを曲げてしまわないか心配になります」


そう言うと、睦貴は一人、低く笑った。






大いなる祓えは、たしかに成就した。

人々に知られることもなく、国難を退けた。


それでいいのかもしれないと、睦貴は思う。

神威を誇示することもなく、ただ見守り、慈しみ、そして種を撒く。


神々は、常に我々のすぐそばに在る――


その確かな感覚だけが、睦貴を静かに前へと進ませていた。






これまでの戦闘および侵攻に関し、日本、聖府双方の公式発表によれば、現在までに死傷者は確認されていない。


国家戦争規模の危機を辛くも乗り越え、日本にはひとときの安堵が広がっていた。



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