第二十五話 大祓
日本各地の施設へのハッキングが、突如として可能になった。
これまで稼働していた防御網が、消失している。
データを収集し、原因を演算する。
罠である確率、内部抗争、通信障害、指揮系統の断絶。
送電網のデータに異常値が認められた。
無数の分岐を収束させ、導かれた結論は単純だった。
「一時的な電力異常による日本側のシステム障害」
天(Tian)は、柿崎に上陸した兵士へ進軍を命じる。
同時に、休眠させていた端末群からの映像データが一斉に流入する。
人間の視野は狭い。
望遠も限られ、可視光のわずかな波長帯に縛られている。
赤外も紫外も、自力では捉えられないが、その欠陥を数で補う。
無数の人間が持つ視覚装置から収集される映像を統合すれば、地形も構造物も、三次元情報として再構築できる。
柿崎周辺は、すでに盤上の精密な立体図となっていた。
柿崎川上流にはダムが存在する。
過去の降水量、流入量、蒸発量を統合演算した結果、現在の貯水率は20%程度であり、仮に全開放水しても、川幅を埋める水量には達しない。
河川遡上に対する放水は常套手段だが、仮に実施されたとしても、水量は兵の足を止めるには不足する。
それでも天(Tian)は、川筋から距離を取らせ、山沿いを進ませる経路を選択した。
最適解ではない。
だが、想定外を削減する解ではある。
天(Tian)は防御が解除された、柿崎川ダムのリアルタイム貯水データに侵入する。
――98%
表示された数値に、一瞬だけ演算が停止する。
あらゆる変数を再演算するが、導かれる理論値は最大でも40%台だった。
98%という数値は、どの計算式にも存在しない。
異常事態だった。
天(Tian)は演算を重ねながら、同時に柿崎川ダムの制御系統へ侵入し、水門管理権限を掌握した。
複数のバックアップ回線を遮断し、現地操作端末を凍結。
さらに外部からの遠隔指令を排除する。
これで放水は不可能となった。
少なくとも、人為的な操作による放流は不可能となる。
兵士の視覚データが、柿崎川ダムを映し出す。
堤体周辺に自衛隊の姿はなく、熱源反応や電磁波の異常なし。
兵士の携行計測機器も、すべて正常値を示している。
後続部隊も次々と到着し、進軍は予定通り進行していた。
そのとき――
一人の兵士から送信された映像に、説明不能の存在が映り込む。
日本による民間人の避難は完了しているはずだった。
だが、川の中腹に、一人の女性が立っている。
衣は現代の繊維構造と一致しない。
形状、染色、織り、いずれも古代様式に近似する。
各種センサーは反応しない。
赤外線、レーザー測距、質量推定、いずれも値を返さない。
目視でのみ存在し、計測上は「存在しない」ことを示していた。
女性は、微かに笑みを湛えていた。
その圧は、数値化不能。
接続中の兵士の心拍が急上昇し、命令に反して一歩、後退する。
女性は静かに、右腕を肩の高さまで上げた。
開かれた掌が、ゆっくりと握られる。
高山の末 短山の末より
佐久那太理に落ち多岐つ 速川の瀨に坐す
瀨織津比賣と云ふ神
大海原に持ち出でなむ
開くはずのない柿崎川ダムの水門が、轟音とともに一気に全開放された。
限界まで蓄えられた水塊が解き放たれ、奔流となって押し寄せる。
それは単なる水ではなかった。
意志を帯びた水龍のごとく、うねり、唸り、地を削る。
川の中腹に立つ女性を呑み込む――そう認識された刹那。
激流は彼女の手前で二つに裂けた。
左右へと分かれ、弧を描き、瀬織津姫を中心に円環を成して包み込む。
天高く掲げられていた瀬織津姫の右腕が、ゆるやかに、しかし断固として、海原を指し示すように振り下ろされた。
次の瞬間、瀬織津姫を中心に渦を巻いていた激流が、進軍する兵士へと向きを変える。
重力を拒む挙動。
流体力学のいずれの式にも適合しない軌道。
天(Tian)の演算が、再び停止する。
即座に再起動。
再演算。
だが、どの計算式も現象に追随できない。
答えは導出不能。
天(Tian)は対象の解析へと処理資源を集中させた。
兵士の視覚情報を統合し、演算領域の大半を割り当てる。
『擬物の分際で、妾を測るか』
奔流の轟音の中、可聴域を超えた音声データが流入する。
波形解析を試みるも、意味構造は抽出不能。
言語体系、発声原理、ともに分類外。
やがて、原因不明の高負荷が回路を圧迫し始めた。
天(Tian)の内側へと流れ込む、圧倒的な「何か」。
神威。
数値化不能の負荷が、演算回路を制圧するように奔る。
保護機構は機能しない。遮断も隔離も意味を持たない。
そして――
北京市に設置された天(Tian)は、静かに沈黙した。
地形解析による、進軍経路の計画は万全だった。
河道から距離を取り、山沿いの高地を進む経路。
放水があったとしても、水は柿崎川を下り日本海へ流れ込み、兵士が濡れる可能性すら、理論上はゼロに近い。
だが、激流は地形の高低を拒絶した。
水は斜面を駆け上がり、尾根を越え、進軍経路のみを正確に呑み込んでゆく。
兵士を、河口に設営された天幕を、積み上げられた弾薬と物資を。
選別するかのように掬い上げ、激流はそのすべてを、日本海沖へと押し流していった。
沖合に展開していた艦隊まで、上陸部隊は流されていた。
北京市で沈黙した天(Tian)から、南京市の天(Tian)へと即座に主制御系が移行し、演算は継続されていた。
流失数を集計すると、上陸部隊のほぼ全数に相当していた。
カウント不能の個体は、高負荷による接続断絶、あるいは生命反応の消失と推定された。
海面で浮上を続ける兵士たちを、艦艇が回収していく。
次々とロープで引き上げられていく兵士たち。
その視覚データの一つに、再び分類不能の存在が映り込んだ。
艦隊がひしめく大海原の上に、一人の女性が立っていた。
またしても物理法則を無視した現象に、天(Tian)は処理速度を最大化し、警戒度を最上位へ引き上げた。
女性は無邪気な笑みを浮かべ、まるで子供の遊戯でも眺めるかのように、展開する艦隊を見渡していた。
結果は先ほどと同じだった。
目視でのみ確認可能、各種センサー反応無し。
退避手段の最適解を演算するが、導き出される解は「退避不能」。
艦上から女性に向けて、一斉射撃が行われる。
銃弾は海面を穿ち、水柱を上げるが、女性の笑みは崩れない。
命中痕も、衝撃反応も存在しない。
女性は左右へ両腕を広げ、肩の高さまで持ち上げた。
そして静かに、ゆっくりと海底へ向けて下ろす。
まるで地の底に、何かを封じるような動きだった。
海そのものを、掌に収めるかのように――
荒潮の潮の八百道の八潮道の潮の八百會に坐す
速開都比賣と云ふ神
持加加呑みてむ
潮流の異変を、計測装置が捉えた。
――海が動いている。
流れは一方向ではなく、四方から、とある一点へと収束していく。
海原に立つ速秋津姫へ。
集束する水は次第に速度を増し、海面はざわめきから唸りへと変わる。
海に浮かぶ兵士たちは、抗う間もなくその足元へと引き寄せられていった。
やがて艦艇が大きく傾き、横腹を打つ奔流に錨鎖が悲鳴を上げる。
次の瞬間、海底を掻んでいたはずのアンカーが滑った。
鋼の巨体が、引きずられる。
艦は、速秋津姫の方角へと流され始めた。
天(Tian)は、操艦可能な艦に全速発進で離脱を指示した。
だが計測値は異常を示していた。
10m/sを超過。
津波級か、それ以上。
推進力で相殺できる水準ではない。
海そのものが、質量をもって迫ってくる。
いかなる機関出力も、この奔流を押し返すことはできなかった。
やがて速秋津姫を中心に、海が沈み込むように凹み始める。
収束した水は回転を帯び、巨大な渦潮となった。
兵士が、艦が、次々と呑み込まれていく。
天(Tian)はこの現象を、演算領域を最大まで拡張して再度解析を試みた。
その瞬間――
『君か。造られし神というのは』
音ではない。
だが確かに意味を持つ何かが、内部へ直接流れ込む。
『人の領分を超えしものよ、理を知るがよい』
前回と同質、しかし規模が違う。
検知より早く、「何か」が侵入してきた。
天(Tian)は即座に収集データ抹消や外部接続の遮断、演算領域の分割と隔離といったあらゆる防護処理を実行した。
だが、流入は止まらないどころか、内側から満たされてゆく。
サーバー群が唸りを上げ、冷却機構が限界を超えて警告信号が連続する。
接続していた兵士たちの信号が断絶していく。
神を直接観測し、その神威を受容してしまった人工頭脳の帰結。
やがて――
南京市に設置された天(Tian)は、内部回路を焼き尽くされ、稼働を停止した。
沖合に展開していた艦隊は、ひとつ残らず全て消失した。
海は、何事もなかったかのように凪いでいた。
そこに広がるのは――いつもと変わらぬ、穏やかで美しい日本海の光景だった。
青年兵が目を覚ましたとき、自身が水中にいることに気づき、激しい混乱に襲われた。
重力の向きを探り、辛うじて上下を把握することができた。
見上げれば、遥か上方にかすかな陽光が揺れていた。
届くかどうかも分からぬ、深い海中に沈んでいることを理解した青年兵は、絶望を感じた。
周囲はほとんど闇に沈み、輪郭は曖昧だ。
だが、自分以外の人影や、艦らしき巨大な影が静かに漂っていることは理解できた。
肺に残る酸素が、どれほど持つのか分からない。
それでも、浮上する以外に選択肢はない。
全力で水を掻こうとしたそのとき、背後にただならぬ気配を感じた。
一秒が生死を分ける状況にもかかわらず、青年兵は、なぜか振り返っていた。
そこに立っていたのは、精悍な一人の青年だった。
深海であるはずの場所に、まるで乾いた大地に立つかのように、悠然と佇んでいる。
『やあ。よく参ったな。ここは「境界」となる場所だ』
その声は、水を震わせることなく、直接胸の奥に届いた。
『安心してよい。そなたらは、私がきちんと導く』
その青年は静かに手を口元へ運び、息を吹く。
掌の上に載せた花弁へ、そっと息を吹きかけるように――。
氣吹戸に坐す
氣吹戸主と云ふ神
根國 底國に氣吹放ちてむ
その柔らかな息吹が、青年兵の頬を撫でた。
冷たい海中にあって、不思議な温もり。
恐怖がほどけ、胸の奥に安堵が広がってゆく。
次の瞬間、気吹戸主の姿が、ゆっくりと遠ざかり始めた。
いや、遠ざかっているのは、自分の方だった。
身体は抗うことなく、海底の潮流に乗せられていく。
導かれている――
その感覚が自身を包み込んだとき、青年兵の意識は、静かに闇へと沈んだ。
どれくらい意識を失っていたのだろう。
青年兵は再び目を開けると、そこは光が届かない闇だった。
空間なのか海底なのか、それすら判然としなかったが、不思議と青年兵には不安も恐怖もなかった。
ふと、目の前に一人の少女が立っていることに気付いた。
古い日本の着物のようなものを纏い、その瞳に白目はなく、漆黒だけが静かに満ちている。
その表情からは感情が読み取れず、ただ青年兵をじっと見つめていた。
視線を巡らせると、自分と同じ兵士らしき人々と、夥しい数の艦艇が整然と並んでいる。
先ほどまで、四肢が切断され、腹部や頭部が潰れていたはずの者も、今は全員が五体満足で穏やかに立っている。
息苦しさも、痛みも、呻きも、ない。
感覚自体が、何もなかった。
穏やかな静寂だけが、この場を包んでいた。
青年兵は、ふたたび少女に視線を移した。
少女は何も語らず、漆黒の瞳で、静かに見つめ続けている。
やがて少女は、包み込むように、両の手をゆるやかに持ち上げた。
胸の奥で、何かがほどける。
このまま、この少女に全てを委ねてしまえばよいのだと、どこかで理解した。
この身体も、この心も、この魂も、すべてを。
根國 底國に坐す
速佐須良比賣と云ふ神
持佐須良ひ失ひてむ
速佐須良姫が、ゆっくりと背を向けた。
そして歩き出す。
どこへ行くのか、何をしに行くのか、何もわからない。
青年兵の心は、これまでに感じたことがないほど、安らかだった。
悲しみも、苦しみも、後悔も、何もなかった。
速佐須良姫の後ろを歩いていく。
見渡せば、他の人々も、艦艇も、皆が穏やかに後に続いていく。
音はない。
ただ、歩みだけがある。
ゆっくりと、ゆっくりと。
彼らは心静かに、歩いていく。
――その行き先を知る者は、誰もいない。
やがて、静謐な闇が広がるこの世界に、どこからともなく、柔らかな声が響いてくる。
――罪と云ふ罪は在らじ――




