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閑話 キャンプ

「どうだ杵築、久しぶりに、一緒にキャンプに行かないか」



突然の諏訪部明仁からの誘いに、睦貴は一瞬の躊躇を見せた。

だがすぐに微笑み、軽く頷く。


以前、同じように誘われたことがあるが、そのときの記憶が脳裏に蘇った。






当時、待ち合わせ場所に颯爽と現れた明仁は、丸腰同然だった。

所持品は、ナイフ一本。

それにコンパスと地図だけ。

テントも、食料も、水すら持っていない。


「(キャンプ…だよな?)」


胸中でそう呟いた不安は、残念ながら的中した。


整備されたキャンプ場へ向かうものとばかり思っていた睦貴をよそに、明仁は徒歩で躊躇なく道なき道へ分け入り、山奥へと進んでいく。

時折コンパスと地図を確認してはいたが、その足取りには迷いがない。


だが睦貴の方は違った。

頭をよぎるのは「遭難」の二文字だった。

ニュースのテロップに自身の名前が出るかもしれない恐怖に、心底怯えていた。



「この辺でいいだろう」


睦貴には何が「いい」のか理解に苦しんだが、明仁に明確な目的地など最初から存在しないことを悟った。

おそらく明仁にとっては、この山々そのものが、丸ごとキャンプ地なのだ。


倒木と枯葉を集めて寝床を作り、枝を削り即席の銛を作って魚を仕留める。

食べられる草木を見分けて採集し、火はライターではなく、原始的な弓錐式の摩擦法で起こす。


もはやそれは、睦貴の知る「キャンプ」とは別物だった。

野外活動ではなく、完全なサバイバル。


無事に下山できたとき、疲労困憊の睦貴は安堵を抱くと同時に、「二度と誘いに乗るまい」と誓ったのだった。


だが、この体験を通じて、諏訪部明仁という人物を深く知れたことも事実だった。






キャンプ当日、明仁は予想通り丸腰で来た。

しかし今回は湊も参加を表明しており、装備も三人分をすでに用意してある。


キャンプ場に到着すると、テントを設営し、火を起こす。

クーラーボックスから食材を取り出し、湊が手際よく調理を進めていった。

一方、明仁はサバイバルナイフを片手に、所在なさげに周囲をうろついている。


「さすがだな、比留間。包丁さばきにも隙がない」


「料理は嗜み程度です。普段は外食かテイクアウトで済ませています。一人だと、片付けまで含めた効率があまり良くありませんので」


湊の料理は、とても素人の手によるものとは思えなかった。

ステンレス製のキャンプ用食器ではなく、美しい陶器に盛りつけられていれば、高級レストランの一皿だと言われても疑わないだろう。


途中、明仁が採集してきた見たこともない植物や、捌いた爬虫類のようなものを投入しようとしたが、睦貴が身を挺して阻止した。



「美味いな。やや野趣には欠けるが、たまにはこういう繊細な料理も悪くない」


「お口に合ったようで何よりです。次回までには、野草や昆虫の調理法も覚えておきます」



料理を平らげ、酒に手を伸ばす頃には、辺りはすっかり闇に沈んでいた。

街の灯りは届かず、見上げれば満天の星が広がっている。



平日とあって、他のキャンプ客の姿はまばらだ。

ほとんど貸し切りに近い。

男三人の会話を聞き咎める者もいない。



「杵築。お前も比留間を見習って、料理の一つくらい出来るようにならんとな。少しでも奥方を楽にしてやらねば」


「私はカップラーメンが限界ですよ。家のことをすべて妻に任せきりなのは、さすがに反省していますがね」




この三人の中で、既婚者は睦貴だけだった。


妻の勢理奈(せりな)とは、研究所勤務時代に互いに一目惚れし、交際が始まった。

当時の睦貴は、端正な顔立ちもあって女性人気はそれなりに高かった。

勢理奈の父親が有名な国会議員だと知ったのは、結婚の許しをもらうため彼女の実家を訪れた時だ。


そこで待ち構えていたのが、須賀 猛。

顔を見るなり彼が言い放った第一声が「なんだこの不細工は」だった。

だが次の瞬間には、「まあ上がれ。泊まっていけ」と勧めてくる。


夜も更けた頃、酔った猛が、夜襲さながらの勢いで部屋に乱入してきた。

事前に危機を知らせてきた勢理奈のおかげで、猛の襲来と同時に、睦貴は無事に窓から逃亡できた。


途中で逃げた時点で結婚は諦めたつもりだった。

だが後日、猛から思いがけない手紙が届く。

大仰な封筒に収められていたそれは、筆で豪快に書かれた、たった一文だった。


――勢理奈を妻とする以上、国を背負うほどの男になれ――


そして文末には、「この野郎!」と、怒声にも照れ隠しにも見える文字が、殴りつけるように添えられていた。




「ああ、いい奥方だ。少しヤキモチ焼きなところも、実に愛嬌があっていい」


「ヤキモチ程度なら可愛いものですがね。女性が参加する親睦会にまで、浮気を疑って乗り込んでくるんです。こちらとしては、たまったものではありません。先日など、湊が珍しく女性と食事をしていたと話しただけで…湊にまで嫉妬する始末でして」


額に手を当てて嘆く睦貴の隣で、明仁が膝を打って大笑いする。

湊はグラスのウイスキーをひと舐めし、わずかに口元を緩めた。


「そう気に病むな、杵築。あの奥方にそこまで嫉妬してもらえるとは、お前は果報者だぞ。比留間、お前もそれだけ認められているということだろう」






焚火の勢いが弱まってきたところで、睦貴が静かに薪をくべた。

ほどなくして炎は息を吹き返し、揺らめく光が三人の顔を淡く照らし出す。

辺りは、耳鳴りがしそうなほどの静寂に包まれていた。

聞こえるのは、薪がはぜる乾いた音だけだ。


しばらく、誰も口を開かない。

三人の視線は焚火に向けられたまま、まるで示し合わせたかのように、ただその静けさを味わっていた。



やがて、不意に湊が口を開いた。


「諏訪部さん。現在この国は、未曾有の危機に瀕していると言えます。国際的には伏せられていますが…すでに日本の海上設備が破壊され、実情は戦時下と呼んでも差し支えありません。いつ、防衛出動の命が下るか分からない状況です。諏訪部さんは、この現状をどうお考えですか」


「そうだな…正直なところ、政治のことはよく分からん。ただ、俺は軍人だ。征けと言われれば、いつでも征く。その覚悟は、ずっと持っている」


あまりに迷いのない声音だった。

当然のことを口にしただけ――そう言わんばかりに。


「俺には守りたいものがある。部下たちと、その家族。もちろん、お前たちもだ。聖府の奴隷として繋がれる未来など、俺には耐えられん」


明仁は焚火から視線を外し、遠くに横たわる山脈の影を指し示した。


「見ろ。この雄大な景色を。自然そのものなら、どの国にもあるだろう。だが、この国の山々は…この神秘的な気配は、まさに神々の座だと思わんか。ここに生きる人々を、俺は何があっても守りたい」


明仁は力強く拳を握り込んだ。

自身の言葉に、決意を新たにしているかのようだった。


「そう言う比留間、お前はどうなんだ」


「仕事です。任された任務は完璧に遂行する。それだけです」


切り返された湊は、無表情のまま即答した。

その迷いのなさに、明仁が満足げに低く笑う。


「杵築。お前はどうだ。武力による正面衝突になれば、前線に出るのは俺だ。だが、お前たちも後方だからといって安全とは限らん。拉致も暗殺もある。日常そのものが、常に危険と隣り合わせだ。生半可な覚悟では務まらんぞ」



話を振られても、睦貴はしばらく焚火から目を離さなかった。

揺れる炎を見つめたまま、言葉を探す。


自分の想いや覚悟など、これまで意識して言葉にしたことがない。

湊のように割り切れる性分でもなければ、猛や明仁のような熱を持つ人間でもない。


気がつけば、どこか中途半端なまま、この八咫プロジェクトに身を置いていた。



「さあ、どうなんでしょうね…」


湧き出てくる言葉を、睦貴は胸の内で反芻した。

炎が揺れ、薪がはぜる。


「ただ」


小さく続ける。


「守りたいものなら、俺にもあります」


視線はまだ焚火のままだった。


「大層な理屈じゃありません。誇れる経歴も、立派な信念なんてものもない」


一度だけ、目を閉じる。


「誰も見ていなくても、正しいことをしようとする。損をすると分かっていても、嘘をつかない。それが『日本人らしさ』というものです。そんな脆くも尊い精神を宿す彼らが、自分の意志で、力で、歩みを進められる国であってほしいんです」


静かな声だった。

だが、炎よりも揺らがない響きがあった。


「そういうかけがえのないものを――神代の昔から、大事にしてきたはずだ」


そこで初めて、睦貴は顔を上げる。


「それを守りたい。理由なんて、それで十分です」



睦貴の言葉が終わる。

誰も、すぐには口を開かなかった。


薪がはぜる音だけが、静寂の中に細く響く。



明仁は何も言わない。

焚火を見つめたまま、ただ一度だけ、深く頷いた。

それ以上の肯定はないほど、静かで確かなものだった。


湊もまた、何も言わなかった。

グラスを傾け、琥珀色の液体を一口だけ含む。

そして、わずかに目を細める。



それだけだった。



だが睦貴には分かっていた。

二人とも、答えを受け取っている。


言葉など、もう要らなかった。






焚火が、静かに燃えていた。

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