第十九話 武神
高天原を統べる天照の神勅により、葦原中国は天津神の治める地と定められた。
だが使者として降った神々は皆、大国主に従い帰らない。
この異変に神々が選んだ最後の切り札こそ、随一の武威を誇る武御雷であった。
伊那佐之小浜に雷のごとく降り立ち、十掬剣を逆さに突き立てる。
その瞬間、天地を圧する神威が満ちる。
ただ在るだけで、抗う意志は砕け散る。
葦原中国を赫々たる神威にて鎮め、天孫降臨を成就へと導きし至功の神。
それが鹿島神――武御雷大神である。
『懐かしい香りよ。出雲の気配か』
低く静かな声音であった。
だがその響きは、天上より落つる雷霆のごとく睦貴の頭上へ直撃する。
音ではなく震え。
空間そのものが神の言葉を受け止めきれず、軋みを上げているように感じられた。
地に着けた膝を立てようともがいたが、まるで大地そのものに縫い留められたかのように、脚は微塵も応じなかった。
拝殿の隅でひっそりと波動を保存し、すぐに鹿島神宮から去るはずだった。
まさか祭神と邂逅するなど、想像だにしていない。
神威の余波に触れるだけでも身は竦む。
それが今、神そのものを前にしている。
耐えられるはずがない。
心の備えがない身体には、この武御雷の神威はあまりにも峻烈だった。
「畏れながら御前にて拝礼仕ること、何卒お許し賜りたく存じます」
震える唇を懸命に結び、睦貴はその場に在ることの赦しを請うた。
頭を上げることすら叶わない。
やがて沈黙を破り、武御雷は思いも寄らぬ言葉を下した。
『赦す。そもそも汝に会うため、我は出でたのだ』
会うために、出でた。
その一言が、遅れて意味を結ぶ。
「(武神が………俺に…?)」
押し潰されそうな神威を前に、睦貴は呼吸を整え、少しずつ頭を上げる。
本殿を囲む瑞垣の上に、武御雷はごく自然な姿勢で座していた。
その身に宿る気配が天地の尺度を狂わせ、見る者にのみ巨躯と錯覚させる。
漆黒の髪は束ねもせず背へ流れ、風も無いのにかすかに揺れていた。
額から眼差しにかけては人の相を超えた威が宿り、ただ神の理のみがそこに在った。
身にまとうのは華美な装束ではない。
上は古式の衣を思わせる直衣に似た装い、下は静かに落ちる袴。
雷雲のような淡い墨と白の衣は、布でありながら鎧にも似た張りを帯び、神威そのものが形を取って織り上げられているかのようだった。
「私に会うため…とは、いかなる御意にございましょうか」
『出雲の子よ。汝らが神威を借り、大難に抗っておること、我はすでに知っている』
人が神々の力を用いることを不遜と断じられる。
そう思った瞬間、睦貴の胸はひやりと強張る。
だが次に続いた武御雷の言葉は、その危惧を静かに打ち消すものだった。
『此度、我が力を求めて来たのであろう。我が威、我が雷、我が断。存分に振るうがよい』
睦貴は再び頭を伏せ、勾玉を両手に捧げた。
武御雷が静かに手を差し出したその刹那、空気が鳴った。
稲妻が奔ったあとの余震のような衝撃が、空間そのものを揺らす。
勾玉が翡翠の光を烈しく放つ。
一陣の突風が睦貴の身を貫き、思わず後ろに倒れそうになる。
次の瞬間、光は断たれ、勾玉は灼けた鉄のような熱を帯びる。
思わず取り落としかけ、それでも必死に両手で支えた。
この瞬間、武御雷の神威が、勾玉に宿ったのだと睦貴は悟った。
『我は汝の背負う覚悟を確かめに来た。すでに汝の魂は、己が何を為す者かを知っているようだ』
そう告げられた直後、睦貴を包む気配がふっと和らいだ。
荒々しい威圧は影を潜め、代わって静かな慈威が満ちる。
だが、その神威はいささかも衰えてはいなかった。
『我は香取の神と相並び、大御神の大御心を承けて、この地に在りて災厄を鎮め、天之益人らの行く末を見守らねばならぬ』
その御言葉に、睦貴は声を発することも叶わず、ただ深く首を垂れた。
武御雷は荒ぶる武神として知られる。
だが民を想い、慈威をもって護る守護の神でもあった。
国を統べる礎を築くため諸国を平定し、やがて東北の日高見国を望む鎮護の神として――
遥か太古の時代より、この地に鎮まり続けているのだ。
『この地は、天つ御子の知らす国である。渡来の者どもに領けらるる理など、本来あろうはずがない』
独り言のように落ちた武御雷の言葉を、睦貴は胸奥に刻みつけた。
領ける地――即ち、聖府による強圧の統制、力による支配。
もしこの日本が聖府領となった時、それは日本の皇統や文化伝統が途絶えるだけでなく、日本人の心そのものが失われることを意味する。
それは断じて容認できるものではない。
胸奥に刻まれた神言が、静かに脈打った。
その響きはやがて己の鼓動と重なり、睦貴は決意を新たにする。
峻烈な武威と、緩やかな慈愛が満ちる空気の中、しばしの沈黙が流れる。
膝を折らせるほどの神威に包まれながら、睦貴は不思議と心地よささえ覚えていた。
『出雲の子よ。これより我が申し伝えることを、心して聞け』
睦貴を包む空気が一変し、ふたたび武威が満ちた。
抗い難い圧に押され、頭が自然と下へと垂れる。
『汝らが操る力、波動と呼ぶそうだな。その波動、操るのは汝らのみにあらず』
「なんだって!」
驚愕のあまり、思考が追いつくより先に叫びが迸る。
神前にあるまじき不敬であったが、武御雷は意に介さず、ただ静かにその動揺を受け止めていた。
「波動は極秘に開発を進めてきた。機密は厳重に守られてきたはず。まさか…俺たちは天(Tian)の探知能力を見誤っていたのか」
時計が狂った――天(Tian)が波動へ干渉してきたことは、ある程度の予測はしていた。
あの時点では、未知の物理法則を探査している段階にすぎないと睦貴は読んでいた。
だが、武御雷の言葉はそれを否定する。
あれは脅しや警告ではなく、「波動を技術として取り込んだ」という宣告だったというのか。
天(Tian)の底知れぬ不気味さに、睦貴の背中に冷たいものが走る。
『過日、我が社の静寂を破りて踏み入る者があった。我が領域より神威――汝らの言う波動を掠め取った者は、渡来の気配がしておった。あれが目的あっての所業であることは、疑う余地もあるまい』
睦貴に、ある記憶が蘇る。
新聞の三面記事に載っていた、鹿島神宮本殿に侵入した狼藉者が逮捕された記事。
当時は反体制派による、半ば愉快犯めいた所業だろうと軽く受け流していた。
だが――まさか侵入目的が、波動の保存であったとは、夢にも思わなかった。
「波動を保存する技術まで確立していたというのか…」
波動に関しては自らの率いる調査室が、聖府よりも一歩先を行っていると疑っていなかった。
しかし、神域由来の波動保存に限って言えば、日本はいまだ技術を持たず、それを可能にしているのは睦貴の勾玉のみであり、保存にかかわる技術はいまだ解明できていない。
天(Tian)は波動においてさえ、日本を追い越してしまった。
胸奥に、焦燥に似た苛立ちが燻り、次いで底知れぬ絶望が静かに広がる。
気づけば、睦貴の面差しには苦悶の影が深く落ちていた。
『そう案ずるには及ばぬ。我らが神威は、たやすく操れるほど軽き力ではない。触れ得たところで、得られる力は紛い物に過ぎぬ。神の力とは、定められし者にこそ応ずるものである』
縋るような思いに突き動かされ、睦貴はおそるおそる顔を上げた。
「その『定められし者』とは、いかなる者を指すのでしょうか」
問う声はかすかに震えていた。
武御雷は静かに顎髭へ手を添える。
そして、幼子を見守る父のような眼差しを、まっすぐ睦貴へ注いだ。
『この豊葦原瑞穂国で息づく、我らが末裔。敬い、尊び、慈しむ心を忘れぬ者たち。すなわち――』
慈愛に満ちた、包み込むような声だった。
『――汝らに他ならぬ』
その言葉には、疑う余地すら与えぬほどの温もりが宿っていた。
『忘るるな。神代より受け継ぎし汝らの美しき心を。それを失わぬかぎり、姿は見えずとも、天より、地より、常に見守り――』
清浄な風がひとすじ、静かに吹き抜けた。
震えていた空気はさざ波のように揺らぎ、天地を満たしていた重圧は、潮が引くように次第に薄れてゆく。
『――汝らの傍らに立ち続けよう』
触れれば消えてしまいそうな、柔らかな余韻だけが残っていた。
睦貴が顔を上げた時には、武御雷の姿は音もなく消えていた。
峻烈な神威から解き放たれた睦貴は、静かに立ち上がり、本殿へ向けて深く拝礼した。
ほどなくして、御神木を拝観に来た参拝客が足を止め、膝を泥に染めたまま佇む睦貴に、訝しむ眼差しを向けた。
武御雷の言葉は、いまも胸奥に鳴り響いていた。
その余韻を力へと変え、睦貴は己の覚悟を静かに定めた。




