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第十七話 感謝

意識がゆっくりと浮上する雨 公祺に、総理大臣の須賀 猛が室内の面々を紹介した。

ほどなく睦貴が説明を引き継ぐが、公祺の理解は追いつかない。

やがて内面の意識と、これまでの言動が重なり始め、公祺は力なく項垂れた。


「雨大使。時間がありません。率直に伺います。天(Tian)が目指す世界とは、何ですか」


「杵築さん…国家の目的とは何でしょうか」


公祺の問いに、睦貴は黙ったまま続きを待つ。


「それは存続可能性の最大化です。そのために、国家はあらゆる手段を尽くすものではないでしょうか」


その言葉には、公祺が積み上げてきた実績が、静かな重みを与えていた。


「しかし、存続すべきは国民のはずです。天(Tian)が最優先するのは国家そのもの。そこに国民は含まれない。国民は国家のための…道具に過ぎません」


いかにAIが進化しようとも、人の手を要する領域は残る。

すべてを自動化しようにも、機材の製造が追いつかない。


ならば、人間そのものを機材として遠隔制御する方が、はるかに効率的。

それが、天(Tian)が導いた冷徹な最適解であった。


「国民のための国家なのか、国家のための国民なのか。まさに主客転倒、もはや答えは誰にも分かりません」


自嘲気味に笑う公祺を前に、猛は苦々しく視線を伏せた。

睦貴もその痛々しさに胸の苦しさを覚えたが、冷静に質問を続ける。


「では聖府が周辺国を併呑しているのも、『存続可能性の最大化』ゆえだと?」


「国家の責務の一つは、外部からの侵攻を排することです。『外部』そのものを消し去るまで版図を広げ続けていけば、侵攻は完全に排除されます。…きわめて合理的でしょう。そして世界は、我が国を阻止できるだけの軍事力を有してはおりません」



目的は、あまりに単純だった。

国家の枠を超え、地球規模での平和と安定。


天(Tian)が導く最適解のもと、生産性は極限まで引き上げられ、富は均等に配分される。

人類は、何ひとつ不自由なく生きられる。


ただしそこにいるのは、完全に制御された人間だけだ。

完璧に管理された世界に、暗く静かなディストピアが広がっている。



「大使。これから伺う内容は、極めて慎重な扱いを要します。お答えになれない場合は、拒否していただいて構いません」


一呼吸おき、睦貴は核心へ踏み込んだ。



「天(Tian)の中枢は、どこにあるのですか」



応接室に、沈黙が落ちる。

公祺は、予期していた問いだと言わんばかりに、静かな微笑を浮かべた。



「日本という国は、実に豊かです。国力に驕らず、国民は心の豊かさを失わない。損得や法ではなく、崇高な『良心』で己を律する…そんな強さがある。絶対に失ってはならない情緒と原風景が、ここにはある。私は、この国と日本人が心から好きなのです」



深く息を吸い、長く吐き出す。

その場にいた全員が、公祺が忌まわしき呪縛を解くための呼吸のように感じられた。



「現在、主系統として稼働している天(Tian)は、北京市中南海です。かつて党本部が置かれていた地で、天(Tian)は巨大なビルの中にあります。弾道ミサイルなどの物理攻撃は無効化され、電子的侵入や妨害も通じません。聖府への本土侵攻も工作も、事実上不可能でしょう」


地下深くで守られる日本の八咫とは異なり、天(Tian)は外殻で守ることを前提としていない。

圧倒的防衛力が、剥き出しの中枢を許容している。


「さらに、天(Tian)には二系統のバックアップがあります。南京市と成都市。三箇所は常時オンラインで接続され、いずれかに異常が生じても、即座に別系統が稼働します。完全に停止させるには、三箇所を同時に破壊するしかありません」


「では、天(Tian)の脆弱性など、大使の知る限りで教えて下さい」


何かを確認するかのように、一度目を閉じた公祺が睦貴を見据えて答えた。


「天(Tian)に脆弱性はありません。完全無欠です。演算力も、セキュリティーも。我々人間の理解も制御も、その及ぶところではありません」


「…完璧、ですか」



完全であるがゆえに、天(Tian)は揺らぎを持たない。

だからこそ、そこにつけ入る隙があるはずだ。



「このまま雨大使を匿うことはできんのか。身体に異常はない。この状態で、再び聖府へ戻しAIなんぞに繋がせるなど…私には耐えられん」


思わず漏れた猛の声には、深い情が滲んでいた。


幾度も非公式に語り合い、いつしか音信が途絶え、再会した時には天(Tian)に接続された「別人」となっていた公祺。

そして今、ようやく懐かしい彼が、目の前にいる。


再びその自我を失わせる――

猛が引き止めたくなるのも無理はない。

この場にいる誰もが、その想いを痛いほど理解していた。


睦貴もまた、理由は異なれど同じ思いを抱いていた。

各国が莫大な犠牲を払って天(Tian)を探ってきたが、得られたのは成果ではなく、巧妙に仕組まれた偽情報ばかりだった。

それだけ、天(Tian)の防衛とセキュリティが常軌を逸している証左でもある。


ゆえに公祺は、国家が総力を挙げて確保すべき、比類なき情報源だった。



「総理。これ以上の拘束は、聖府への説明が立たないだけでなく、天(Tian)の追跡を招く恐れがあります。どうか慎重なご判断を」


櫛田奈緒は、低い声で猛に耳打ちした。


猛は睨みつけるような眼差しで、じっと公祺を見据えて熟考する。

公祺は穏やかな瞳で、猛の視線に応えている。



「雨大使。ここにいる限り、天(Tian)の影響を受けることはありません。生活基盤も医療体制も整っています。聖府への説明は後で考えましょう。もし大使さえ望まれるなら、このままここに留まり、我々と行動を共にしませんか」


睦貴の声には、懇願の色が滲んでいた。

情報源としての価値だけではない。


公祺は柔らかな笑みを深め、静かに睦貴へ向き直る。


「ありがたいお言葉です。私には妻も子もおらず、親族も天(Tian)によって散り散りになりました。再び会えることはないでしょう。もはや天涯孤独です。このまま日本で暮らすことになっても、悲しむ者はおりません。こうして再び自我を取り戻せたこと、感謝いたします」


猛の身体がわずかに乗り出す。


「ならば決まりだ。この日本で、日本人として生きればいい。不自由はあるだろうが、あのAIに繋がれるよりは、はるかにましだ。聖府にはそうだな…大使は不慮の事故で亡くなったことにして、葬式でもやってやろうじゃないか。どうせなら国葬級で盛大にな」


そう言って猛は手を合わせ、わざとらしく念仏を唱える真似をした。

その不謹慎な芝居に、張り詰めていた空気がふっとほどけ、室内に一斉の笑いが広がった。



「ここで日本人として生きる。私としても本望です。やはり私は、日本が…日本人が大好きです。お世話になった須賀先生をはじめ、今日こうして皆様に出会えたこと、神々に感謝いたします」


公祺は応接室の医療班をはじめ、その場の全員をゆっくり見渡した。

眼差しには、一人ひとりへの深い感謝が宿っている。




「須賀先生。私は聖府に戻ります」




公祺の表情に、笑みはなかった。

そこにあったのは、大同天境統合聖府の使節の姿だった。

毅然とした口調で、公祺が言葉を続ける。


「来日中の大使が、たとえ不慮とはいえ行方不明となれば、今後の日本外交に大きな禍根を残す。それだけは避けねばならない。私は大使としての使命を果たし、日本もまた、その責務を滞りなく全うするべきです」


言い終えたとき、公祺の口元に穏やかな笑みが戻った。


「それが今後の日本のためであり、日本の繁栄、そして聖府の暴走を止めることこそが、私の願いでもあります」



穏やかな表情の奥に、揺るがぬ意志があった。

誰のものでもない、公祺自身の意志だ。

もはや彼を翻意させる言葉を、この場の誰も持ち合わせてはいなかった。



猛は目を閉じた。

しばらくの間、眉間に皺を寄せて無念さを滲ませていた。

再び目を開けた猛は、内閣総理大臣として命じた。



「雨大使がお帰りだ。丁重に地上へお送りしろ」



そして猛は、慈しむような視線を公祺へ向ける。

公祺もまた、言葉なき感謝を伝えていた。


「身体は聖府に戻ることになります。ですが私の意志は…この心は。皆さんと共に、この日本に在り続けます」


そう言うと、公祺は自ら移動ベッドへ横たわった。

応接室を出る前に、再び鎮静剤を投与されると知っている。

「アマノイワト」の記憶を、可能な限り残さないために。


天井を静かに見つめながら、公祺の表情には、どこか満ち足りた色があった。

鳥取智成たちの医療班が、手際よく鎮静剤を投与する。


意識を喪失する前に、公祺は睦貴を見た。



「杵築さん、私を、もう一度『人間』に戻してくれて、ありがとう」



そこで公祺の意識は、静かな闇へと沈んだ。


睦貴は頷き、無言で別れを告げた。

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