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第十六話 搬送

『天叢雲剣<あめのむらくものつるぎ>』


草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の別名。

須佐之男(すさのお)命が八岐大蛇(やまたのおろち)を斬った折、その尾より得た神剣である。


須佐之男命はこれを高天原(たかまのはら)に献じ、天照(あまてらす)大御神は八咫鏡(やたのかがみ)八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)とともに、瓊瓊杵(ににぎ)尊へ授けて天降らせた。

以後、この三つは「三種の神器」として皇統に伝えられる。


『日本書紀』によれば、日本武(やまとたける)尊が東征の途次、倭姫(やまとひめ)命よりこの剣を託され、火攻めに遭った際、剣は自ら草を薙ぎ、炎を退けたという。


この故事により、剣は「草薙剣」と称されるようになった。






環境情報調査室の特殊車両「天叢雲(あめのむらくも)」は、明治神宮を後にし、環境省ビルへ向かっていた。

天叢雲は、防衛システム「草薙」の機能を簡素化・小型化した車両で、主目的はハッキング防御にある。

外見は通常の高級セダンだが、携行火器程度であれば即座に無力化可能な防御機構を備える。

現在は調査室による試験運用段階だが、将来的には政府要人の公用車への正式採用が予定されていた。


この車内であれば、天(Tian)による追跡や、大使への直接的干渉を抑制できると予測されている。


後部座席には、大同天境統合聖府の大使、() 公祺(こうき)が横たわり、静かな寝息を立てていた。

明治神宮の神域を出た直後、同行していた他の関係者が次々と覚醒したことからも、天叢雲が天(Tian)の影響圏外にあると思われた。


公祺には乗車前に、鎮静薬を投与してある。

天(Tian)と繋がっていれば、薬物などによる脳への作用も効果を示さないだろう。

公祺が目覚めた時。

それは天(Tian)に「回収」されたことを意味していた。


「ここまでは想定通りです。懸念があるとすれば、天(Tian)との通信が遮断されたことで、大使の身体に影響が出ないか、その一点だけです」


「『底の国』で厳重に医療チェックをする。問題が出そうなら、即座に地上へ戻すさ。個人的には、目を覚ました雨大使『本人』と、少し話をしてみたいがな」



環境省ビル地下駐車場には、すでに医療班が待機していた。

天叢雲が停車すると、彼らは即座に公祺をストレッチャーへ移し、無言のまま運び出す。

睦貴と湊はデバイスを起動し、微弱な波動を散布し、少しでも天(Tian)からの追跡を妨害する。

一行は「アマノイワト」へ向かう専用エレベーターに乗り込む。


静かな下降が続き、体感では妙に長く感じられたが、九十一階に到達したところで、睦貴はようやく息をついた。



エレベーターの扉が開くと、そこにも医療班が待ち構えており、公祺を移動ベッドへと移し替え、医療エリアへと搬送していく。

「アマノイワト」には千名を超える職員が常駐し、臨時政府の設置を想定した物資と、最新の医療設備が整えられている。

ここは単なる地下施設ではない。

国家存続を前提とした、もう一つの中枢だった。



「あとは検査の結果を待つだけだな。睦貴、お前の予測通りなら我が国にとって得難い情報が手に入るかもしれん」


振り返ると、須賀 猛がすでに到着していた。

総理大臣の存在に、職員たちの緊張が一段と高まっているのが分かる。


「親父殿…いや総理。応接室があるのですから、こんなところでお待ちにならなくても」


「なに、お前の『おもちゃ』を私もじっくりと見学したくてな。ある程度のことは聞いているが、こうして実際に目にすると…改めてこの国を守る覚悟が湧き上がってくるようだ」


感慨深く周囲のモニターを見渡す猛の言葉に、睦貴はどこか気恥ずかしくなる。


「さあ親父殿、『アマノイワト』自慢の応接室にご案内しますよ」


照れ隠しのように、睦貴は半ば強引に猛を促した。




雨 公祺は、在日中国大使や外交部副部長を歴任し、国務院総理として長く対日政策に影響を与えてきた人物である。


日本では「知日派」と評されてきたが、実際は熱烈な親日家であった。

日中間で幾度となく生じた摩擦が致命的な衝突に至らずに済んだのは、公祺の調整力によるところが大きい。

猛もその才覚を高く評価しており、日本駐在中はもちろん、来日のたびに非公式な意見交換を好んで重ねてきた。


大同天境統合聖府成立以降、公祺は表舞台から姿を消していた。

それでもなお、今回あえて大使として送り込まれたのは、過去の実績と対日影響力を、天(Tian)が演算した結果なのだろう。


公祺「本人」にとっては、この上なく不本意な役目であろうことは想像に難くない。





応接室で、奈緒が淹れたコーヒーを飲み干そうとした時、最終医療責任者の鳥取(とっとり)智成(ともなり)が報告に現れる。


「検査の結果が出ました。脳波を含め、大使の身体に異常は見られません。脳内にあるチップも確認できました。頭蓋の奥深く、視床の内側核群に据えられています。正確には、感覚情報を大脳皮質へ振り分ける内側膝状体と腹側外側核の境界部にあります。そこから伸びる極細の導線が、神経束に沿って分岐しているようです。」


「つまり、どういうことだ」


専門用語の洪水を遮り、やや苛立った表情で猛が低く問い返す。


「前頭前野や海馬への直接的干渉は少ないと考えられます。行動や発する言葉はすべて制御されていますが、自身の思考や記憶は残っている状態だと思います。思考が残っているといっても、それを表出する手段がないはずです」


「つまり、彼の身体は天(Tian)のものだが、彼の意識は残っている状態、ということか」


天(Tian)のあまりの冷酷さに、その場にいた全員が凍りつく。


「いえ、思考や記憶が残っているといっても、恐らく明確なものではなく、何となくぼんやりと…ではないかと思います」



意志の死ではなく、意志の幽閉。

大同天境統合聖府の国民は、その生命が尽きる時まで、天(Tian)という逃げ場のない檻の中に取り残されている。

国力の最大化という、天(Tian)が演算する最適解のために。



「…チップ除去は可能なのですか」


重すぎる沈黙を破り、湊が口を開く。


「現在の日本の医療技術では、脳へのダメージは避けられないでしょう。チップ本体の摘出は可能でも、無数に伸びた導線の完全除去は困難です。前頭骨に極小の侵入痕があり、そこから埋め込まれたと見られます。埋設後、導線はチップ自体が自律的に神経内へ展開したと推察されます」


「天(Tian)の信号が遮断された状態で、このまま大使を覚醒させても大丈夫でしょうか」


一瞬の逡巡の後、智成が言葉を選びながら答える。


「当初の検査では、導線に神経パルスを模したと思われる微弱な信号を確認しました。大使の身体データは、八咫にも読み込ませています。八咫に解析させ、問題がなければ信号の停止を指示したところ、信号は消失しました。各データを見る限り、私は覚醒には問題ないと判断します。八咫からも、この環境下なら問題ないとの結果が出ています」


「では、静かに大使を起こしてください。常時モニターし、異常が見られた際は即座に中止して地上へ送ります」


睦貴の指示に、猛も無言で頷いた。


恐らく八咫は、公祺に埋め込まれたチップを直接観測したのだろう。

そして干渉し、その機能を完全に停止させることに成功した。

この「アマノイワト」で天(Tian)の影響を受けなければ、本来の公祺と対話が可能であることを八咫は予測している。




智成を先頭に、医療班が公祺が横たわる移動ベッドを応接室に運び込んできたのは、しばらく経った後だった。

公祺は身体を様々な機器に繋がれ、医療班が厳重に監視を続けている。

頭部は主に、八咫と接続されている。


「雨大使、ここは日本の環境省の地下になります。一時的に、大使の安全を確保するため、こちらにお越し願いました」


睦貴の呼びかけに、まだ半覚醒状態の公祺が目を開ける。


「这里是……?您不是须贺先生吗?!」


猛を視界に認めた直後、公祺は慌てて身を起こそうとした。

鎮静剤が少し残っているせいか、やや緩慢な動きで、医療班の助けでようやく起き上がることができた。

紳士的に医療班へ感謝を伝える公祺の姿は、猛がよく知る以前の公祺であった。


「申し訳ありません、咄嗟のことで祖国の言葉が出てしまいました。須賀先生、大変お久しぶりです。ご無沙汰しておりました非礼を、お詫びいたします」


「なにを申される。お互い、国のために尽力してきた友ではありませんか」


公祺に手を差し伸べ、互いに握手を交わす。

官邸での公式会談では見られなかった、真の友好がここに実現した。


握手をしながら、猛が目配せをしてくる。


「(――ここからは、お前の仕事だ――)」




今度は睦貴が、猛の指示に黙って頷いた。



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