第5話 エスカレートする好意
これは許されないことだと、分かっている。
それでも、蒼生くんの行為は次第にエスカレートしていった。
彼は正嗣さんがいない隙を狙って、私に好意をぶつけてくる。
「蒼生くん、ダメ……!」
――正嗣さんがお風呂に入っている間、リビングのソファで、蒼生くんは私の手を取った。
拒絶しようとした私の指を、彼は壊れ物を扱うような手つきで絡めとり、逃がしてくれない。
「春乃さん、見て……俺、こんなに震えてる」
差し出された彼の手首を掴むと、確かにかすかに震えていた。
テレビの中の自信満々な彼とは違う、余裕のない「男」の姿。
彼は私の手の甲にそっと唇を落としたあと、親指の先から、一本ずつ、ゆっくりと確かめるように口づけを落としていく。
爪の先に触れる、熱い吐息。
指の節を這う、柔らかな唇の感触。
ただそれだけなのに、背筋を電流が走ったような衝撃が突き抜けて、喉が震えて声が出ない。
「……父さんのパンを触る手。このまま、俺だけのものにできたらいいのに」
指の間をなぞる彼の舌の感触に、ゾクゾクと嫌悪と快楽が混ざり合う。
わけがわからなくなって涙が流れると、彼は空いた方の手で優しくそれを拭い、その指先すらも愛おしそうに口に含んだ。
この香水の匂いが立ち込める密室で、私は彼が刻む「愛の印」に、抗う術を持たなかった。
私の張り詰めていた我慢の糸がぷつりと切れるのも時間の問題だっただろう。
翌朝、いつものように蒼生くんと駅まで一緒に向かう。
別々の電車で彼と別れたあと、私は会社に電話をかけた。
「申し訳ありません。今日は急用のため、出社できません」
そして、私は電車に乗ったまま、会社の最寄り駅を通り過ぎる。
電車に揺られて、どこまでもどこまでも――。
スマホに電話がかかってきたのは22時のことだった。
「今、どこにいるの」
「教えない」
蒼生くんの声は、なんだか慌てているようだ。
焦って、震えている。
「俺が悪い……んだよね。ごめんなさい」
私は答えない。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。いい子にするから戻ってきて」
まるで母親に叱られた子供のような口ぶりに、思った以上の効果が出たことを知る。
「蒼生くんも、こっち来る?」
「え?」
「今、温泉に来てるの」
私が会社を休んで、電車に揺られてやってきたのは温泉街。
毎日、息子に襲撃されていたら、そりゃ命の洗濯もしたくなる。
「正嗣さんには温泉に行くこと、話してあるんだけど、聞いてない?」
「……だから、父さんは焦ってなかったのか……」
やられた、と言いたげな蒼生くんに、ふふ、と笑って返した。
彼は、タクシーで駆けつけてくれた。
宿を取った部屋に一緒に向かって、私は彼に緑茶を淹れる。
「俺、すごく心配したんですけど」
むくれる蒼生くんに「ごめんって」と笑う。
「でも、こうなった原因、あなたにあるんだけど」
「ごめんなさい」
小さくなってしょぼくれる蒼生くんに、「温泉入ってきたら」と尋ねた。
彼はふるふると首を横に振る。
「また、俺の前からいなくなったら困ります」
「いなくならないよ」
「信用できません」
ジトッとした目を向けられて、思わず笑ってしまった。
「さて、正嗣さんもいないし、腹を割って話そうか。母と息子として、ね」
ここに蒼生くんを呼んでしまったことを、私はまだ後悔していた。
それでも、顔を見なければ前に進めないと思った。
私は、蒼生くんの私に対する執着がどうにも気になっている。
きっかけを尋ねると、彼はカバンからクリアファイルを取り出した。
「それ、いつも持ち歩いてるの?」
「俺の大切なお守りですから」
――ファイルに入っていたのは、私が送ったファンレター。
それも、1つ2つの数じゃない。
「俺がデビューして、ファンもろくについてなかった頃から、春乃さんは俺を応援してくれましたよね」
「うん、覚えてるよ」
まだ、ファンクラブの会員ナンバーが1桁だった時代だ。
「あの頃、蒼生くんまだちっちゃな子役だったもんね。懐かしいな」
しかし、蒼生くんのデビュー作であるドラマで、彼はいじめっ子の役だった。
ドラマでの役割と本人は別物なのに、なまじっか演技がうまかったせいで、当初は嫌われ者になってしまったのだ。
その後、舞台やドラマでいい役をもらうようになってから、やっとファンが増えていった。
「その頃から、俺はあなたに恋をしてましたよ」
「ええ~? ほんとに?」
「いつも最前列で応援してくれる春乃さんに、何もお返しできなかったのを悔やんでいました」
一部のファンに贔屓をすれば、妬み嫉みで潰される。
推し活というのは命がけである。
「俺の実の母が亡くなったときも、手紙で懸命に励ましてくれたあなたに、恋をするなという方が難しい」
蒼生くんは目を伏せて、考え事をしているようだった。
私は、自分でも恐れていた提案をする。
「一度、正嗣さんと3人で話し合わない? このまま隠し事は難しいよ」
「でも、父さんには……」
「話し合って、場合によっては離婚しようと思う」
私の言葉に、蒼生くんは弾かれたように顔を上げた。
それを口にした瞬間、戻れない場所に足を踏み入れたと分かった。
「私は、自分の行動に責任を持ちたい。蒼生くんとお付き合いしたいなら、正嗣さんには誠意を持たなきゃいけないと思う」
正嗣さんを傷つける覚悟なしに、何かを選ぶことなんてできない。
「春乃さん……」
「こういう人間のほうが、蒼生くん好きでしょ?」
歯を見せて笑う私に、彼は力強く抱きつく。
温泉宿で夜を明かしてから、翌朝電車で再び家に戻ることになった。
〈続く〉




