第4話 雨の日の午後
雨の日の午後は、人の心まで湿らせてしまうらしい。
その日、会社は休みだった。
正嗣さんは仕入れに出かけている、雨の日の午後。
私は洗濯物にアイロンをかけている。
ちょうどその日は蒼生くんも家にいて、台本を読んでいた。
今度、ドラマの撮影があるらしい。
「蒼生くんってやっぱり俳優さんなんだね」
「俺のこと、何だと思ってるんですか?」
彼は怪訝そうな顔をしている。
「俺は、あなたの推し。若手俳優の蒼生ですよ」
「はいはい、私の息子だけどね」
適当にあしらうと、蒼生くんは少しムッとしていた。
ちょっと主導権を握った気がして、気分がいい。
鼻歌でも歌いながらアイロンをかけたい気分だ。
蒼生くんの台本読みの邪魔をしてはいけないから、実際には歌わないけど。
しばらく、ふたりとも無言でそれぞれの作業に集中する。
外では雨の音。
家の中では、アイコンのシューッとスチームをかける音。
時計のチクタクと針を刻む音。
蒼生くんが台本のページをめくる音が響いた。
今日は正嗣さんがいない。
それだけで、家の中の空気が少し違った。
「ねえ、春乃さん」
「お母さんって呼びなさい。なに~?」
「ちょっと手伝ってほしいことがあって」
台本を読む作業で何を手伝えというのか。
不思議に思って振り向くと、彼がちょいちょいと指で誘っていた。
アイロンを止めて、蒼生くんのほうへ歩み寄る。
「今度、ドラマやるって話したじゃないですか」
「うん」
「恋愛ドラマで、俺、主演をすることになったんです」
「えっ、すごいじゃない! おめでとう!」
小さく拍手すると、蒼生くんは小さく首を傾げて微笑んでいた。
「それで、台本読んでるんですけど、相手の女性がどう思ってるかわかんないところがあって」
「うん」
「ちょっと読み合わせというか、女性役の台詞、読んでみてもらえませんか?」
「私が……?」
いや、この家に他に女性はいないんだけども。
私には学芸会以外で演劇の経験なんてない。
そんな大役が務まるんだろうか……?
「とりあえず台本見ながら読んでもらうだけでいいんで。俺はもう台詞覚えたから、春乃さんが台本持って」
蒼生くんに台本を渡されて、わけがわからないながらも読み合わせをすることに。
……っていうか、これまだ放送されてないドラマだよね?
私みたいな部外者が極秘情報を持っていると思うと震える。
「えっとね、ここから読んでください」
蒼生くんに指さされた箇所から、台本を読み上げ始めた。
「えーっと……嬉しい。私たち、これでずっと一緒だね」
うわ、自分で言うのも情けないけど、大根だ……。
棒読みの上にカチコチな私の演技に、蒼生くんは何でもなさそうに応える。
「ずっと、君と結ばれたかった……」
うわっ! これが本物の俳優!
彼の名演技はずっと推し活してて知ってるけど、目の前で見ると破壊力がすごい。
台本のト書きには「ベッドに押し倒す」とあり……ちょっと待って!?
「ベッドないからソファで代用するね」
「いやちょっと待ってこれ」
腕を引かれ、気づいたときにはソファに閉じ込められていた。
逃げようとした肩を、彼の重みが優しく、けれど断固として押さえつける。
「待ってー!?」
「春乃さん、台本読んで。これは練習だから」
そ、そうか……練習か……なら仕方ない……のかな……?
混乱しつつ、押し倒されながら台本を読み進める。
「あ……優しすぎておかしくなりそ……」
「じゃあ、とことん優しくするから、もっとおかしくなろうね」
「これ月9で流していい内容!?」
びっくりした。
今どきのドラマは過激だなあ……。
そんなツッコミどころを探している最中にも、蒼生くんは私の首筋に顔を埋めている。
「あ、ちょ、待って」
「春乃さん、台本に忠実にやって。練習だから」
「練習で許される範囲超えてるんだよなあ!?」
どう考えてもおかしいでしょ!
ジタバタと抵抗するが、まったく彼には効いていない。
「……春乃さんから、父さんのパンの匂いする。消したいなあ……」
耳元で響く、低音のウィスパーボイス。
ゾワッと身体の芯から震え上がる。
ちゅー……としばらく首筋を吸われた。
さらに服の上からフェザータッチで撫でられて、流石にこれはヤバい、と必死に押し返す。
「蒼生くん、やめて」
私の声が震えているのに気づいたのか、彼は一瞬、息を止めた。
そっと身体をどかしてくれる。
そっと自分の首筋に触れると、熱を帯びているのがわかった。
……多分、痕ついてるなこれ……。
「そろそろ父さん帰ってくるかな」
呟いて、私の手からそっと台本を受け取った。
「どうして、正嗣さんがいない間にこんなこと……」
「え? 父さんの前でしてほしいの?」
「違う」
私は首筋を押さえたまま、曇った視界で蒼生くんを見上げる。
「私、正嗣さんと蒼生くんと、家族として生活したいだけなのに……」
目に見える世界が潤んでしまって、蒼生くんの表情がわからない。
彼はただ、無言で私を見下ろしていた。
「……俺はヤダ」
「なんで……」
「俺は春乃さんが欲しい。母親としてでもファンとしてでもない。父さんにだって渡さない」
その声に、隠しきれない欲望が滲んでいて、初めて蒼生くんを怖いと思った。
正嗣さんが帰ってきたあと、私たちは何事もなかったように夕食を取る。
正嗣さんに「どうしたの、その赤いの。虫刺され?」と聞かれたときは生きた心地がしなかった。
寝室に上がると、鏡台に何かが置いてあるのに気付く。
小さなガラス瓶には紫色の液体が詰まっており、手紙が一緒に置いてあった。
『俺がよく使ってる香水。日常使いできるから、使って』
蒼生くんの言葉を思い出す。
――春乃さんから、父さんのパンの匂いする。消したいなあ……――。
……ただのファンだった私が、どうしてここまで彼に執着されているのか、全く理解できない。
私は困惑を隠せないまま、香水瓶を置いてベッドに潜るのだった。
〈続く〉




