優しいスープ
翌朝。
杏奈は、キッチンのほうから聞こえてくる小さな物音と、部屋に漂ういい匂いで目を覚ました。
まだ少し重い頭のまま、ベッドの上で目を開ける。
昨晩は六本木でかなり酒を飲んだ。マンションへ戻ってからはシャワーを浴び、そのまますぐ眠ってしまったはずだ。
そういえば、まともに何も食べていない。
そう思った途端、急に空腹を自覚した。
杏奈はベッドを抜け出し、寝室を出る。
扉を開けると、すぐ正面にあるキッチンにレンが立っていた。
「……何してんの」
声をかけると、レンが振り返った。
「起きたか」
「いや、だから何してんの」
「朝食だが」
「え、そうじゃなくて。冷蔵庫とか何も……」
「ああ。材料ならば昨晩、貴殿が休んでから買ってきた」
「あ……そうなんだ」
そういえば昨日、マネージャーがレンにマンションの鍵の使い方を説明し、近くにあるコンビニやスーパーの場所まで教えていた。
レンは再びキッチンへ向き直った。
「間もなく出来る。座れ」
「…………」
「昨日は何も食べていなかったろう」
杏奈は何も言わず、ダイニングの椅子へ腰を下ろした。
しばらくすると、レンが次々と料理を運んでくる。
パン。野菜の浮かんだ澄んだ色のスープ。焼いた魚と目玉焼き。それに簡単なサラダ。
どれも派手な料理ではない。
けれど、普段の食事が外食やデリバリーに偏っている杏奈にとって、誰かがキッチンで作ったこうした朝食は妙に見慣れないものだった。
「……え、何でこんなの作れるの?」
杏奈が思わず尋ねると、レンはほんの少し表情を緩めた。
「ソウシと同じことを聞くのだな」
「……ソウくんも?」
「ああ」
それだけ言って、レンは自分の分の料理も並べる。
「食事は体調や出せる力に直結する。食べることは冒険者の基本だ」
「そこで設定濃いの、よく分かんないけど」
「設定?」
「いい、何でもない」
レンは少しだけ首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。
「早く食べろ。冷めるぞ」
「あ、うん……」
杏奈は目の前に並べられた料理を改めて見つめた。
誰かに頼んだわけではない。金を払って注文したものでもない。
レン自身も食べるついでだったのだろう。それでも、自分の分まで当然のように用意されている。
杏奈はしばらく料理を見つめたあと、恐る恐るスプーンを手に取った。
◇
――手料理なんて、ほとんど食べたことがなかった。
杏奈は幼い頃、街を歩けば周囲の人間が振り返るほど可愛い顔をした子どもだった。
もともと自身もタレント志望だった母親は、そんな杏奈を三歳のときに子役劇団へ入れた。
それからの日々は、オーディション、撮影、レッスンの繰り返しだった。
小学校にはほとんど通えなかった。たまに登校しても、『芸能人気取り』『ぶりっ子』『テレビに出られないくせに』と、そんな言葉を投げつけられ、周囲から浮いていった。
食事といえばコンビニの弁当やパン、惣菜、外食ばかり。成長期に入り体重が少し増えたときには、「衣装が入らなくなるから」と、それすら満足に与えられない日もあった。
オーディションや打ち合わせの席では、妙に距離の近い中年男性もいた。
必要以上に肩へ触れたり、腰へ手を回したり、べたべたと体へ触れてくる男がいても、母親は杏奈を助けなかった。
それでも杏奈は、母親に言われるまま仕事を続けた。
やがて小学校を卒業し、幼児向けの仕事が徐々に減ってくる。
そんなある日。
母親は杏奈を見ながら、何でもないことのように言った。
『あんた、もうあんまり可愛くなくなっちゃったね』
その言葉だけは、今でも覚えている。
――ママ。
もうあたしは、勉強にもついていけなくて。
未だに九九も漢字も全然分かんなくて。
いまさら学校に居場所なんてないっていうのに。
ママまであたしを否定するの……?
◇
スープが、スプーンから舌の上へ滑り込んでくる。
杏奈はゆっくりと飲み込んだ。
小さく刻まれた野菜は、それぞれに違う味がする。けれど噛みしめると、澄んだスープの味と混ざり合い、ひとつになる。
温かい。
妙にほっとする味だった。
――優しい味。
って、こういうことを言うのかな。
杏奈は妙に感心しながら、もう一口スープを飲んだ。
向かいに座るレンが、そんな杏奈の複雑な表情を見て眉をひそめる。
「口に合わなかったか?」
「いや……おいしい。すごくおいしい」
「そうか、なら良かった」
レンはそれ以上追及せず、自分の朝食へ手を伸ばした。
「朝は体温を上げるために温かいものを摂ったほうが良い。今日も働くのだろう?」
「そうだね……今日は昼に企画の打ち合わせと、夜は配信と……」
杏奈は今日の予定を頭の中で確認する。
「あ、レンくんは今日はゆっくり休んでていいから」
「そうか」
レンは特に異論を挟まなかった。
「また昼食も夕食も作るから、必要ならば言ってくれ」
「……昼も夜も?」
「ああ。俺も食べるからな」
あまりにも当然のように言う。
杏奈は少しだけ考えた。
普段はスタッフも含め、食事はデリバリーや外食で済ませることが多い。これだけ美味しいなら、他のスタッフたちも喜ぶだろう。
「そう……じゃあ、お願いしようかな」
「心得た」
杏奈は再びスープを口へ運んだ。
温かい。
やっぱり、おいしい。
誰かの手料理を食べるということが、こんなにも悪くないものだとは知らなかった。




