夜のあーにゃん
杏奈はコスプレ衣装を脱ぎ、夜の「仕事」へ出かける準備を済ませていた。
暗めのブラウンのロングヘアーは艶が引き立つよう柔らかく巻かれ、ナチュラルに見えながらもしっかりと作り込まれたメイクが施されている。体の線が美しく見えるワンピースは、派手すぎない上品な色と形ながら、杏奈の白い肌をよく引き立てていた。
つい先ほどまで配信で見せていた「あーにゃん」とは、雰囲気も表情もまるで違う。
背後で、スタッフルームの扉が開く音がした。
杏奈が振り返る。
そこには黒いスーツ姿のレンが立っていた。
「これで良いのか」
杏奈は一瞬黙ったままレンを見る。それから数歩ゆっくり近づき、頭の先から足元まで眺めた。
「ふふっ……やっぱり似合う」
杏奈はレンのネクタイに手を掛け、わずかに曲がっていた形を整えた。
そこまで近づいてきた杏奈を、レンも物珍しそうに見つめる。
「貴殿も、随分様変わりするものだな」
「当たり前でしょ。コスプレしてたんだから」
「声まで変わるとは……そういう魔法でもあるのか?」
「は? 魔法?」
レンにとって、先ほどまでの「あーにゃん」と今目の前にいる杏奈は、容姿だけでなく声も話し方も異なっていた。本人としては純粋な疑問を口にしただけなのだが、杏奈は呆れたような目を向ける。
「意味分かんないこと言わないで。もうタクシー来るから準備して」
「承知した」
杏奈はそれ以上追及することなく、スマートフォンを手に玄関へ向かった。
マンションを出た二人はタクシーへ乗り込み、六本木へ向かう。
やがて車は、高級ラウンジの入る建物の前に停まった。
◇
支払いを済ませ、杏奈が先に車から降りようとしたときだった。
レンがごく自然に手を差し出す。
「……!」
「どうした」
杏奈は差し出された手を見て、それからレンの顔を見た。
「レンくんって、そういうことするタイプなんだーと思っただけ」
「護衛なら当然の行動だろう」
「……あっそ」
レンに特別な意図はない。
護衛対象である女性が馬車や乗り物から降りる際に手を貸すことも、足元の悪い場所で支えることも、彼にとっては身についた当然の所作だった。
だが杏奈は、わずかに意外そうな目をレンへ向けていた。
それはタクシーを降りたときだけではなかった。
階段を降りるときも、段差のある場所を歩くときも、レンは当然のように杏奈へ手を差し出した。必要以上に触れることはない。それでも転倒や危険があれば即座に支えられる距離を保ち、その振る舞いには妙なぎこちなさがなかった。
人の多い場所では杏奈が歩きやすいよう自然に位置を変え、階段では肘を差し出す。
黒いスーツ姿のレンと、上品なワンピース姿の杏奈。二人が並んで歩く姿は、否が応でも周囲の目を引いた。
差し出されたレンの肘に手を掛けながら、杏奈はどこか上機嫌だった。
「やっぱレンくん連れてると映えるわ」
「護衛能力と見た目は関係ないだろう」
「あるよ。この界隈では特にね」
「そういうものなのか」
「そういうものなの」
杏奈にとって、この世界では自分自身の見た目だけではなく、服装や持ち物、そして隣にいる人間さえもその人物の価値を測る材料になる。
レンにはその感覚がよく理解できていなかったが、少なくとも杏奈の機嫌が良いことだけは分かった。
◇
ラウンジへ入ると、杏奈は慣れた様子で案内された酒席へ向かった。
レンは周囲を一度見渡したあと、護衛として杏奈の近くへ位置を取る。
そこにはすでに、数人の中年男性が酒を飲みながら座っていた。
一人の男が、杏奈の後ろに立つレンへ目を向ける。
「おっ、杏奈ちゃん。どうしたの今日は若い男連れて」
「新しいうちのスタッフなの。よろしくね」
レンは軽く頭を下げ、そのまま黙って杏奈の隣に立った。
杏奈は先ほどまでレンに見せていた砕けた態度を消し、柔らかな笑顔を浮かべて男たちと名刺を交換する。やがて酒が運ばれ、席は一見すればただの賑やかな歓談へと移っていった。
だが、少ししてレンの耳へ飛び込んできたのは、妙な言葉ばかりだった。
「派手なのは嫌なんだよね。普通の大学生っぽい感じ」
「俺、逆にギャルもいいなと思うけど」
「SNSに何でも書く子は困る。口の堅い子」
「金、金って露骨なのも萎えるんだよ。こっちを楽しませる気がある子がいい」
「そう! 最初から金額の話する子って可愛げないじゃん」
「俺のことおじさん扱いしない子がいいな」
「こっちだって癒やされたいわけだからさ」
「写真より実物が違うのは勘弁」
「前の子みたいに急にブロックするのやめてほしいんだよね」
レンは表情を変えず、その会話を聞いていた。
……何だ、これは。
どうやら女について話しているらしい。
家柄や性格、容姿、金銭の条件を並べて相手を探す。
貴族か商人の婚姻相手の斡旋か?
一瞬そう考えたものの、聞こえてくる単語のいくつかが、レンの知る縁談とはどうにも噛み合わなかった。
疑問を顔に出さないよう努めながら、黙って耳を傾ける。
「はいはい。派手じゃない子も派手な子も良くって、口がかたくて、お金お金言わない子ね」
杏奈はスマートフォンを操作しながら、慣れた様子で男たちの希望を聞き取っていく。
「お金はそりゃ出すんだけどさぁ、どっちかって言うと俺のこと自然に好きになってくれるような子がいいの」
「…………」
――きっっも。そんな子いねぇよ。
喉まで出かかった言葉を、杏奈はそのまま飲み込んだ。
「疑似恋愛っぽいのがしたいってことね」
「そうそう、そういう感じ」
「はいはい」
別の男が酒のグラスを揺らしながら口を挟む。
「でもさぁ。金に困ってる子のほうが『話が早い』よね」
「それあるけどさ、あんまりオススメしないよ」
「そんなこと言ってさ、杏奈ちゃんだって分かってるでしょ」
「そうなんだけど、後々面倒なことになんの。そういう子って。こっちが後始末させられることになってもね」
杏奈の口調に、罪悪感めいたものはなかった。
困っている人間につけ込むことそのものを咎めているというより、後から問題になったときの面倒を避けようとしている。それだけのことらしい。
「まあ杏奈ちゃんの紹介に任せておけば大丈夫だって」
「頼むよ。こっちは長く付き合える子探してるんだから」
「それは予算と条件にもよるからね」
「こっちも相性とかあるから、考えて決めたいよね」
「そうそう。こっちを立ててくれる子とかさ」
「また始まった」
男たちから笑い声が上がる。
杏奈もそれに合わせて笑いながら、話を続けていった。
ある相手には少し甘えた声を出し、別の相手には淡々と事務的に返す。冗談を好む相手には笑い、細かな条件を気にする相手にはスマートフォンへ一つずつ記録していく。
話す相手によって声色を変え、態度を変えながら、それでも常に酒席全体へ目を配っていた。
その様子を見ながら、レンは先ほどマンションで交わした会話を思い出していた。
『声まで変わるとは……そういう魔法でもあるのか?』
どうやら、あれは「あーにゃん」という姿に限った話ではないらしい。
この女は、相手によって自分の見せ方そのものを変えている。
レンは何も言わず、杏奈を見ていた。
翻訳魔法は、言葉そのものの意味を伝えてくれる。
だが、隠語や、この国で暮らす人間なら説明されずとも察することのできる前提まで補ってくれるわけではない。
紹介。
条件。
予算。
長く付き合う。
相性。
一つ一つの言葉は理解できる。
しかし、それらが何を意味しているのかまでは分からない。
少なくとも、先ほど考えた婚姻相手の斡旋ではないようだった。
では杏奈は、いったい何をこの男たちへ紹介しているのか。
完全には分からない。
それでも、男たちが女について話す声。金銭の話。困っている女のほうが「話が早い」という言葉。そして、それらを当然のこととして処理する杏奈。
レンは杏奈の横顔を静かに見つめた。
この女が何をしているのか、まだ正確には理解できない。
だが、その周囲に漂う空気が、自分の知らない何か不穏なものへ繋がっている。
れだけは、はっきりと感じ取っていた。




