あんたは誰にも愛されない
美味しいのはスープだけではなかった。
ハーブの香りがする魚は臭みもなく、寝起きの頭がすっきりするような味だった。目玉焼きの黄身はとろりと柔らかく、サラダにかかっているドレッシングも、おそらく既製品ではない。
杏奈はしばらく黙って食べていたが、やがて向かいに座るレンへ目を向けた。
「……ねえ」
「何だ」
「料理……こんなの、誰に教わったの?」
「冒険者として旅をしていれば当然のことだ。俺のいたパーティでは、当番制だった」
「また設定?」
杏奈は鼻で笑った。
しかしレンはむきになって説明することもなく、淡々と食事を続けている。
「ソウくんと一緒に住んでたんでしょ? その時も作ってあげてたの?」
「そうだな。ソウシの世話になってからは、ほぼ毎日作っていたな」
「ふぅん……」
杏奈は話す相手の視線や表情を見る癖がある。
仕事柄、相手が嘘をついているとき、何かを隠しているときに見せるわずかな間や仕草を拾うことには慣れていた。
今のところ、レンが嘘をついているようには見えない。
「……どうしてソウくんと一緒に住んでたの?」
その瞬間。
レンの視線が、ほんのわずかに泳いだ。
杏奈はそれを見逃さなかった。
「……母国から急にこちらに来て困っていた俺に、最初に声をかけてくれたのがソウシだ。それ以来、世話になっている」
完全な嘘ではないのだろう。
だが、何かを言っていない。
レンは以前、ソウシから異世界や魔法のことを不用意に人へ話すなと忠告されていた。
そんな事情を知らない杏奈には、ただ目の前の男が何かを隠したことだけが分かる。
「それで『恩人』ね……」
「もっとも、ソウシの恩人は貴殿のようだがな」
そう言って、レンは少し表情を緩めた。
杏奈はスプーンを置き、何気ない調子を装ったまま続ける。
「母国って? どこなの?」
「言っても分からんと思うが、アルディア王国という」
「へえ……」
杏奈は手元のスマートフォンを取り、『アルディア王国』と検索した。
いくつか検索結果は出る。
だが表示されるのは、小説やゲームの中に登場する架空の国ばかりだった。実在する国家としての情報は見当たらない。
「その国で……冒険者をしてたってこと?」
「そうだ」
レンの目は、まっすぐ杏奈を見ている。
まただ。
一番嘘みたいな話をしているときほど、この男の顔には迷いがない。
「日本に来たのはいつなの?」
「……二ヶ月ほど前になるか」
「それでその日本語?」
「……」
今度は、レンの目が横へ逸れた。
杏奈はわずかに眉を上げる。
「家族は? その『母国』にいるの?」
「そうだ。両親と、兄がひとりいる」
「へぇー。お兄ちゃんいるんだ。お兄ちゃんも冒険者なの?」
「いや……兄は……家督を継いでいる」
レンの目が伏せられた。
「カトク……」
何のことかよく分からない。
だが、その言葉を口にしたときだけ、レンの表情が少し曇ったことは分かった。
杏奈はそれ以上そこを掘るのをやめた。
「なんか、レンくんってときどきジジイみたいな言葉使うよね。何歳?」
「二十二だが」
「でしょー? 若いじゃん! カトク? とか、あとさっきも言ってた……キ、キデン? 何それ」
「?」
レンが少し不思議そうな顔をする。
「俺もこの国の言葉には詳しくないが……あなたは、とか、そういう意味だと思うが」
「何? あたしのことだったの?」
「今、貴殿と向かい合って話しているような状況であれば、そうだな」
「は? あたし杏奈なんだけど。ソウくんはソウシで、なんであたしはキデンなの?」
「………」
レンの視線がまた横へ逃げた。
しばらく黙ったあと、少し居心地悪そうに口を開く。
「……杏奈」
「!」
「これでいいか」
杏奈は一瞬、言葉に詰まった。
朝から何度も聞いてきた低い声。
なのに自分の名前を呼ばれただけで、妙に耳へ残った。
「……うん」
それ以上その話を続けるのが何となく気恥ずかしくなり、杏奈はすぐに話題を変えた。
「彼女とかいないの?」
「彼女? 恋人か? いない」
即答だった。
迷いもなければ、照れた様子もない。
「えー? その見た目で彼女いないの? ウソでしょ? フォロワーも多いし、会いたいって女の子いっぱいいるでしょ」
「俺は嘘は言わない」
「じゃあ好きな子は?」
「いない」
「へえ……」
杏奈は何でもない顔をしていたが、自分でも少し心が躍ったことに気づいた。
何が嬉しいのかは分からない。
ただ、恋人も好きな女もいないと聞いて、ほんの少しだけ気分が良くなった。
「結婚したらいいパパになりそうなのにねぇ。料理上手で」
「……」
今度は明らかだった。
レンの視線が横へ流れる。
それまでどんな質問にも淡々と答えていた男が、言葉に詰まった。
「……それはない」
短くそう答えると、レンは席を立った。
二人分の空になった食器を重ね、キッチンへ運んでいく。
杏奈はスマートフォンを手に取りながら、洗い場に立つレンの横顔をしばらく眺めていた。
この男にも、触れられたくない何かがあるらしい。
◇
その日の夜。
「おつかれさまでしたー」
カメラマンの声とともに、配信が終わった。
森のエルフ姿の杏奈は、笑顔を消すとすぐ傍らに置いてあった電子タバコへ手を伸ばした。
「はぁ………」
深く息を吐く。
いつまで続けるの、こんなの。
最近、肌のハリが少しずつ変わってきたことを自分でも感じていた。
撮影した写真や動画に加工を入れることも、今では当たり前になっている。
スタッフたちが機材を片付け、次々に帰っていく。
やがて先ほどまで賑やかだった部屋に、静寂が戻った。
「あーにゃん」から安西杏奈へ。
嫌でも現実へ引き戻される時間だった。
そして――あの人が電話をかけてくるのも、いつもこんな時間だった。
悪寒が走る。
ほとんど同時に、スマートフォンが振動した。
画面には、たった一文字。
『母』
二十六になった今でも、その表示を見るだけで手が震えた。
杏奈はしばらく画面を見つめたあと、震える指で通話ボタンを押した。
「……はい」
『あーっ、もしもし。杏奈ちゃあん?』
「……何」
『あのね、ママちょっと海外に行きたいんだけど、お金振り込んでくれない? 大した額じゃないのよ? 五十万くらいでいいの』
「は? なんで?」
杏奈の声に怒気が混じった。
『あなた今稼いでるんでしょ? 自分だって高いバッグとか服とか買ってるじゃない。それともママには出せないっていうの?』
まただ。
喉が、ひゅっと張りつく。
言い返したいのに、声が出ない。
『そもそも、今稼げてるのだって誰のおかげだと思ってるの? レッスン代もみーんなママが出してあげたんじゃない。今になって一人で成功したみたいな顔しないでよね』
杏奈はスマートフォンを握る手に力を込めた。
『あんたの顔だって誰からもらったと思ってるの? ママが産んであげたから可愛く生まれてこられたんじゃない! その顔で稼いでるんだから、ちょっとくらいママに還元したって罰は当たらないわよ!』
「……っ、とにかく、無理だから」
『はぁ~。ひどいのねぇ、杏奈ちゃんって』
母親は大げさにため息をついた。
『ママ、あなたのために自分の人生ほとんど使っちゃったのよ。オーディションにもレッスンにも付き添って、自分の友達なんてほとんどいなかったんだから。だから今、その分を取り戻してるっていうのに。それも出してくれないなんて。はぁ~。こんな娘に育つなんて思ってなかった』
杏奈は机を強く叩いた。
「……!! こっちは頼んでないんだよ!!」
『ハァ……昔はほんっとに可愛かったのにねぇ〜』
心臓が大きく跳ねた。
視界が狭くなる。
昔。
『あんた、もうあんまり可愛くなくなっちゃったね』
記憶の中の声と、今の母親の声が重なった。
「うっ……く……もう切るから!」
『ちょっと待ちなさいよ!』
鋭い声に、全身の細胞が一斉に棘立ったようになった。
『ねぇ……杏奈ちゃん』
次に聞こえてきたのは、先ほどまでの怒鳴り声が嘘だったかのような、妙に優しい声だった。
『都合悪くなるとすぐ投げ出して逃げるの、昔からちっとも変わらないね。おかげで学校でも嫌われてきたじゃない? ママしか味方いなかったもんねぇ?』
息が浅くなる。
『ママはあなたのこと心配して言ってるのよ? 男だって若くて綺麗なうちにちやほやしてくれるだけなんだから。最後に残るのはママだけって、いつも言ってるでしょう?』
やめて。
『誰も愛してくれないんだから、家族のことくらい大切に――』
杏奈は通話を切った。
そのままスマートフォンを床へ投げつける。
胸の鼓動が太鼓のように鳴っていた。
耳の奥に、自分の呼吸音が響く。
息が吸えない。
吐けない。
あれ。
どっち?
『誰も愛してくれないんだから』
頭の中で母親の声が何度も繰り返される。
気づいたときには、杏奈は自分でも意図せず絶叫していた。
手が痺れる。
指先の感覚がおかしい。
膝が震え、身体から力が抜ける。
杏奈はその場へ崩れ落ちた。
そのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
直後、扉が強くノックされる。
「杏奈、何か声が聞こえたようだが」
◇
返事ができない。
荒い呼吸と呻き声だけが、室内に漏れた。
扉の向こうから、再びレンの声がする。
「杏奈、杏奈……聞こえるか。開けるぞ」
返事を待っている場合ではないと判断したのだろう。間もなく扉が開いた。
レンは室内へ入るなり、床へ膝をついている杏奈の姿を見つけた。
配信を終えたまま、森のエルフの衣装すら脱いでいない。杏奈は胸元を押さえ、まともに呼吸もできずにいた。
「あ……レンく……ん」
「どうした、何があった」
レンの声は落ち着いていた。
「だ……いじょうぶ……いつもの……ことだから」
「息ができないのか」
レンは杏奈の傍らへ片膝をつき、首筋へ指を添えて脈を確かめる。
「だい……じょぶだから……あっちいって」
「もう話すな……ゆっくり息を」
レンの手が杏奈の背中へ触れた。
ただ身体が倒れないよう、背中へ手のひらをそっと添える。
「まず吐いて……そうだ。ゆっくり。今度は吸って……」
そのとき。
部屋の奥に置かれたカメラのレンズに、一瞬だけ何か緑色の光が映ったように見えた。
背中が温かい。
レンの手が触れている場所から、じんわりとした熱が広がっていく。
そこから全身を締めつけていた強張りが、少しずつほどけていくようだった。
身体だけではない。
胸の奥まで。
耳鳴りのようだった周囲の音が次第に遠ざかり、代わりにレンの低く落ち着いた声だけが妙にはっきりと聞こえる。
「そうだ。焦らなくていい。ゆっくり息をしろ」
杏奈の目から、涙がこぼれた。
――あたしは誰にも愛されない。
母親の声が、まだ頭の奥にこびりついている。
そう思った瞬間、どうしようもなく誰かの体温が恋しくなった。
考えるより先に、杏奈はレンの胸元へしがみついていた。
レンの身体が一瞬だけ固まる。
けれど抱き締め返すことはなく、背中へ添えていた手も離さなかった。
「大丈夫だ。ゆっくり息をしろ」
杏奈はレンの服を掴んだまま、言われた通り少しずつ呼吸を整えていった。
吸って。
吐いて。
また吸う。
やがて、激しく上下していた肩の動きが少しずつ落ち着いてくる。
◇
「ごめんね……もう大丈夫」
杏奈はようやくレンから身体を離した。
「あたし、シャワー浴びて寝るから。レンくん、部屋に戻って」
「そうか」
レンは杏奈の顔色をもう一度確認した。
それ以上、何も聞かなかった。
なぜあれほど取り乱したのか。
誰に何を言われたのか。
そうしたことには一切触れず、まるで最初から聞くつもりなどなかったかのように立ち上がる。
背を向けて部屋を出ていこうとしたレンを、杏奈はもう一度呼び止めた。
「レンくん」
レンが振り返る。
杏奈は少し間を置いた。
「………あたしに、何かした?」
「……」
その瞬間。
レンの視線が、わずかに横へ泳いだ。
杏奈は目を細めた。
朝から何度も見てきた反応。
何かを隠そうとするときの、この男の癖。
「……いや、何も」
「……そう。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
扉が閉まる。
杏奈はその場に残ったまま、しばらく動かなかった。
背中にはまだ、レンの手が触れていた場所の温かさが残っている気がする。
それだけではない。
朝から感じていた、いくつもの違和感。
存在しないはずの『アルディア王国』。
本気の顔で語る『冒険者』。
二ヶ月しか日本にいないというのに、不自然なほど流暢な日本語。
その理由を尋ねたときに逸れた視線。
そして今。
一瞬だけ見えた気がした、緑色の光。
突然、身体が楽になった感覚。
問いただしたとき、また逸れたレンの目。
ばらばらだった違和感が、杏奈の中で少しずつ形を作り始めていた。




