見た目より怖い女だぞ
夕方。
予備校の自習室で参考書を開いていたソウシのスマートフォンが、机の上で短く震えた。
画面を見る。
バイト先のコンビニからだった。
ソウシは周囲を気にしながら席を立ち、自習室を出る。廊下へ出てから声を抑えて電話に出た。
「……はい」
『あ、もしもし。秋山くん?』
「はい」
『申し訳ないんだけどさ、今日って入れたりしないかな?』
「……あー、すみません。まだ予備校で……」
答えながら、ソウシは小さな違和感を覚えた。
今日は自分がシフトに入る日ではない。
そして確か、今日はミキちゃん――三木まりなが入っていたはずだ。
「どうかしたんですか……?」
『いやー、三木さんが入ってたんだけど来てなくってね。連絡もつかなくって』
「………」
『珍しいよね。あの子、そういうとこはキチンとしてるのに』
その言葉が、嫌な感覚になって胸の奥へ落ちた。
『秋山くんのとこに「代わって」とか連絡来てないよね?』
――ミキちゃんがシフトを忘れる?
ない。
急に休むことはあっても、その時は必ず連絡を寄越す。
むしろ自分には、気軽に。
『パイセン明日のシフト代わって♡』
などと送ってくるくらいだ。
連絡もなく来ない。
しかも店長からの電話にも出ない。
――連絡しないんじゃなくて、連絡できない状況にいる?
「そ、そうですね……俺にも来てないです」
一度息を飲み、ソウシは続けた。
「俺もちょっと連絡取ってみます」
『頼むよ。じゃあね』
「はい」
通話が切れる。
廊下に静けさが戻った。
ソウシはスマートフォンを見つめたまま、しばらく動かなかった。
――何かあったのか?
胸の奥で、心臓が低く脈打っている。
すぐにメッセージアプリを開いた。
『三木さん』
続けて打つ。
『何かあったの』
送信。
待つ。
しかし既読はつかない。
返事もない。
ソウシはスマートフォンを握り直した。指先が、ほんの少し震えている。
そのまま通話ボタンを押す。
呼び出し音が鳴った。
一回。
二回。
三回。
出ない。
ソウシはスマートフォンを耳へ当てたまま、廊下の壁を見つめた。
ただの遅刻なら。
寝坊なら。
スマートフォンを忘れただけなら。
そう考えようとしても、なぜか胸騒ぎが消えない。
そして、不意に
数日前、レンから言われた言葉が蘇った。
『大切なものなら、目を離さないでおけ』
「………」
ソウシは思わず眉を寄せる。
「……なんで今、それ思い出すんだよ」
自分でも理由は分からない。
だが、その言葉に続くように、今度は南池袋公園でミキちゃんから聞いた話が頭へ浮かぶ。
『あーにゃんの紹介って学校で話が回ってるんだよね』
『黒ギャルちゃんは需要あるって言われた』
あの時に感じた、背筋を這うような嫌な感覚。
無断欠勤。
連絡不通。
学校で広がっている、あーにゃんの名前を使った勧誘。
そしてミキちゃん自身も、実際に声を掛けられていた。
それらが頭の中で、嫌な形につながっていく。
「………まさか」
考えるより先に、ソウシは別のメッセージ画面を開いていた。
相手はヒロナリ。
しばらく連絡を取っていなかった名前。
『久しぶり』
続ける。
『相談があるんだけど、今これから会えないかな』
送信。
返事はまだない。
それでもソウシは待たなかった。
自習室へ戻ると、机の上の参考書とノートを鞄へ押し込む。そのまま肩へ掛けた。
もう勉強を続けていられる気分ではなかった。
ソウシはヒロナリからの返事を待ちながら、予備校を出た。
◇
サンシャイン60通り裏手。
古びた雑居ビルの三階。
ソウシは、かつて出入りした『池袋人材サービス』のドアを開けた。
中にはすでに、一人の大男が立っていた。
熊のぬいぐるみをそのまま人間サイズにしたような、見慣れた体格。
「よう」
ヒロナリが煙草の煙を吐き出しながら言った。
「久しぶり。ごめん、急に呼んで」
角刈りはやめ、今は短い坊主頭になっている。巨大な身体を包むのは、どこで売っているのか分からないほど大きなシャツだった。
以前のスーツ姿より、今のほうがソウシには中学時代の面影を強く感じさせる。
ソウシは事務所の中を見回した。
「ここ……あれからそのままなんだな」
レンが暴れた痕跡。
片付けきれなかった机や椅子。
強盗事件のあと、『本部』から切り捨てられ、そのまま放置された室内。
まるで人だけが突然消えたような事務所だった。
「そうみてぇだな」
ヒロナリは煙草を咥え直す。
「それより」
「?」
「なんか、またおもしれぇことに首突っ込んでるみてえじゃねーかよ」
「お、面白くないよ……」
ここへ来る途中、ソウシはメッセージで大まかな事情を伝えていた。
ミキちゃんが学校で怪しい勧誘の話を聞いていたこと。
本人も実際に声を掛けられていたこと。
そして今日、突然バイトへ来なくなり、連絡も取れなくなったこと。
「それより、ヒロナリなら池袋近辺のそういう噂に詳しいんじゃないかと思って……」
「まあ、心当たりがねぇこともねーけどな」
そう言うと、ヒロナリは以前自分が使っていた事務机へ向かった。
引き出しをガチャガチャと漁り始める。
「……あった」
取り出したのは、透明なプラスチック製の名刺ケースだった。
「えーと、この辺に……」
何枚かの名刺をめくり、やがて一枚を抜き出す。
「これだな」
ソウシは差し出された名刺を受け取った。
以前ミキちゃんが学校で渡された、キラキラしたデザインの名刺よりも、ずっとビジネスライクなものだった。
『株式会社ライフクリエイト
代表 安西杏奈』
電話番号。
メールアドレス。
そして、西池袋の事務所の住所。
「……ライフクリエイト」
「それと、これもそうか」
ヒロナリはもう一枚、名刺ケースから抜き出した。
『株式会社ライフクリエイト
マネージャー 佐倉のぞみ』
「………」
その名前を見た瞬間、あの日、西麻布のマンションで会った女性マネージャーの顔が浮かぶ。
「佐倉……のぞみ」
「なんだ。知ってんのか?」
「いや……ちらっと会っただけ。でも……」
頭の中に、別の文字が浮かぶ。
――nezumi。
『あの三人の中にnezumiはいる』
女性マネージャー。
佐倉のぞみ。
nezumi。
のぞみ。
「………」
――まさか。
いや。
今はそれを考えている場合ではない。
ソウシは浮かんだ考えを打ち消すように、軽く頭を振った。
「それよりも」
「?」
「あの女……安西杏奈は、見た目よりよっぽど怖ぇ女だぞ」
ソウシの顔が強張る。
「あいつがやってんのは、金持ってる男と女を繋ぐ仕事だ。キレイな商売じゃねえよ」
「……売春斡旋?」
「まあ、そういうのも混ざってんだろうな」
ヒロナリは灰皿へ煙草の灰を落とした。
「ただ、あの女はバカじゃねえ」
「………」
「自分まで一発で飛ぶような橋は渡らねえ。特に未成年なんざ、普通なら絶対避ける。何かあっても、『紹介しただけ』で逃げられる形にする女だ」
ソウシの背筋が、ぞくりと寒くなった。
ヒロナリは杏奈を擁護しているわけではない。
むしろ、彼女がどれほど危険な商売をしているか理解した上で言っている。
だからこそ。
「高校生の間で噂が回るような雑なやり方は、あの女ならしねぇだろうな」
「……どういうこと?」
「美味い話ぶら下げて頭数揃えて、そっからふるいにかけて、条件いい奴を高値で回す」
ヒロナリの表情が険しくなる。
「しかも末端には、誰が何やってんのか全部教えねえ」
「………」
「やり口が似てんだよ」
一拍置いた。
「――『本部』にな」
ソウシの顔から血の気が引いた。
「じゃあ……」
名刺を握る手に力が入る。
「あーにゃんの知らないところで、『本部』がライフクリエイトに入り込んでるってこと?」
「分かんねぇよ」
ヒロナリは即座に返した。
「会社ごと食われてんのか、中に誰か入り込んでんのか、そこまでは知らねぇ。ただ」
煙草を口から離す。
「今回のやり方は、安西杏奈一人のやり方には見えねぇ」
「………」
ライフクリエイト。
安西杏奈。
佐倉のぞみ。
本部。
そして、連絡の取れないミキちゃん。
「……だったら」
「?」
「だったら、なおさら行かないと」
ヒロナリは、でかい口から煙をぶはっと吐き出した。
「オメェが行ったところでどうなんだよ」
「分かってるよ!」
思わず声が大きくなる。
「でも……」
ミキちゃんが、そこにいるかもしれない。
ひどいことをされているかもしれない。
どこかへ連れて行かれるかもしれない。
『パイセンのにおいする』
南池袋公園で笑っていた、ミキちゃんの顔が浮かぶ。
『パイセン一生ついてく♡』
何気なく送られてきたメッセージ。
『戻ってきたのはバリカッコよかったっすね』
クロミちゃんの絆創膏。
思い出すほど、胸が重苦しく痛んだ。
ヒロナリはそんなソウシの顔を、しばらく黙って見ていた。
「………」
やがて、小さくため息を吐く。
「……本気でどうにかする気なら、せめてアイツ連れてけよ」
「……え?」
「ここをめちゃくちゃにしてくれた、あの異常に強ぇ兄ちゃんだよ!」
「……レン?」
「そうだよ」
「いや……レンは……」
「なんだよ。今アイツどこにいんだよ」
ソウシは一瞬言い淀んだ。
「……あーにゃんの護衛をやってるんだ」
「は?」
ヒロナリが数秒止まった。
「お前ら相変わらず何やってんだよ」
「俺に言われても……」
ヒロナリは呆れたように頭を掻いた。
だが、すぐに真顔へ戻る。
「だったら余計に呼んだほうがいいだろ」
「………」
「ライフクリエイトの中で起きてる話なら、安西杏奈にも関係ある」
ソウシは手元の名刺を見る。
西池袋の住所。
ここから、そう遠くない。
「……分かった」
スマートフォンを取り出す。
「とりあえず、レンに連絡しながらここに行く……!」
ライフクリエイトの名刺を握りしめ、ソウシは事務所を飛び出した。




