全部ほんとだったの
タクシーを降り、二人が入ったのは六本木の夜景を一望できる高層階のバーだった。
店内は照明を落としてあり、大きな窓の向こうには無数の街の灯りが浮かんでいる。遠くまで広がる光の海を背に、いつもより露出の多いワンピース姿の杏奈は、案内されたボックスシートへ腰を下ろして脚を組んだ。
一方のレンは、護衛時のスーツ姿のまま、いつものように杏奈のすぐ脇へ立つ。
「あっ。今日レンくんはそこじゃないの」
「?」
杏奈が自分の隣のソファを軽くぽんぽんと叩いた。
「こっち♡」
「………」
「今日は、あーにゃんと一緒に飲んでくれるのが護衛のお仕事だよ♡」
レンはしばらく杏奈を見る。
つくづく得体の知れない女だ。
そう思うものの、同行すること自体に特別な問題があるわけでもない。強く断る理由も見当たらず、レンは仕方なく杏奈の隣へ腰を下ろした。
杏奈は満足そうに笑う。
「レンくんはぁ、今日はあたしと勝負して♡」
「……勝負?」
「どっちがお酒強いでしょう♡ 勝負!」
「………」
レンのいた世界にも当然、酒はあった。飲んだ経験もあるし、嫌いでもない。酒で正体をなくすほど酔った記憶もなく、自分を酒に弱い人間だと思ったこともなかった。
ただ、それは裏を返せば、自分の限界を知るほど飲んだ経験がないということでもある。
そして何より。
勝負と言われると、妙に引く気になれない。
「……いいだろう」
「わぁーい♡」
杏奈の口元が、わずかに上がる。
「じゃあ、お酒はあたしがどんどん選んじゃうね♡」
レンは知らない。
杏奈が、いわゆる『ザル』――かなり酒に強く、ほとんど酔わない体質であることを。
間もなく、細い脚のカクテルグラスに入った酒が運ばれてきた。量は少なく、一口でも飲み干せそうに見える。甘い香りがして、いかにも飲みやすそうな見た目をしている。
だが、その実かなり度数の高いショートカクテルだった。
「それじゃあ、かんぱーい♡」
「………」
二人はグラスを合わせる。
そして杏奈に合わせるように、レンも一息で飲み干した。
◇
「レンくぅん? まだ三杯目だよ♡ 起きて♡」
――ほんとは十三杯目だけど。
杏奈は内心で笑う。
甘く、口当たりが良く、それでいて度数の高いショートカクテルばかりを選び、かなり速いペースで飲ませ続けた。
杏奈の思惑どおり、レンは次第に目元がとろんとし始めている。普段は真っ直ぐな姿勢もすっかり崩れ、時折身体がゆらりと揺れた。そして今では、完全に杏奈の肩へもたれかかっている。
「……まだだ」
「うふふ。その調子♡」
杏奈は横目でレンを見る。
この男は、確かに嘘をつかない。むしろ正直すぎるほどだ。
だが一緒に過ごしてきたことで、杏奈にも少しずつ分かってきたことがある。
聞かれたくない話題になると、一瞬だけ視線が逸れる。
嘘をつく代わりに、話さないことを選ぶ。
ならば今なら。
普段は決して口にしないことも、聞けるかもしれない。
「ねぇ、レン」
「ん……」
「前に結婚の話した時、それはないって言ってたよね」
少し間を置いてから、杏奈は続けた。
「結婚願望がないってこと?」
レンの瞼が重そうに動く。
「……違う」
「じゃあ、なんで?」
レンはしばらく黙っていた。
やがて、低い声で呟く。
「俺には……その資格がない」
「……どういうこと?」
レンの視線がゆっくりと落ちた。
「実家にいた時……婚約していた女性がいた」
「え」
その一言を聞いた瞬間、杏奈の胸の奥へ冷たいものを差し込まれたような痛みが走った。
――婚約者?
レンに?
レンは杏奈の肩へ預けていた身体を起こそうとした。だがうまく力が入らないらしく、そのままテーブルへ突っ伏してしまう。
「ねえ……それで、どうなったの」
「俺の勝手で……家を出た」
言葉と言葉の間が、次第に長くなっている。
「それで……婚約を解消することになった」
杏奈は黙って聞いていた。
「何の落ち度もない相手の人生を……俺が狂わせた。だから……俺は、結婚はしないと決めた」
「……なにそれ」
「………」
「なにそれ!」
先ほどまで胸を刺していた嫉妬よりも、別の苛立ちが強くなった。
「そんなのおかしいでしょ。その人が、レンに『一生結婚しないで』って言ったの?」
「……そうではない」
「じゃあ何で勝手に決めてんのよ」
「俺の……決めたことだ」
「それが変だって言ってんの」
杏奈は苛立ったようにレンを睨む。
「そもそも、家を出たって何? 縁切ったってこと?」
「……俺がいれば、兄上の邪魔になる」
「兄貴?」
「だから……名前も、家の名も捨てた」
杏奈は言葉を失った。
詳しい事情までは分からない。
だが、一つだけ分かる。
この男は、もうそばにいない兄に。
婚約を解消した女性に。
自分の人生の一部を、そのまま差し出してきてしまった。
そして今でも、その代償を払い続けているつもりなのだ。
「……バカじゃないの」
テーブルへ突っ伏していたレンの肩を支え、杏奈は身体を起こしてやった。
薄く開いたレンの瞳に、杏奈の顔が映る。
「ねぇレン。聞きなよ」
「………」
「あんたの人生は、あんたのものなの」
杏奈の声から、いつもの作った甘さは消えていた。
「あんたがいつ、何を思って、何をしたいかは、あんたが決めるの。兄貴も、その婚約者も、あんたに一生そうしてろなんて言ってないんでしょ?」
「………」
「だったら、今ここにいない人たちのために、いつまで自分を罰してんのよ」
レンの目が、わずかに細くなる。
「もういいじゃん。自分の人生くらい、自分で好きにして」
眠気に負けそうになりながら、レンはほんの少し口元を緩めた。
「……貴殿に、励まされるとはな」
「キデンじゃない」
「……?」
「杏奈」
一瞬の間。
レンはぼんやりと瞬きをした。
「……そうだった」
そして、
「杏奈……」
たった二文字。
それだけなのに、胸の奥を直接掴まれたような気がした。
普段のレンとは違う、力の抜けた表情。自分だけに向けられたように聞こえる、名前を呼ぶ低い声。
胸が苦しくなる。
理由なんて、まだ考えたくない。
でも、
――やっぱり、全部知りたい。
もっと知りたい。
この男のことを、何もかも。
そして
――あたしのものにしたい。
「しかし……何もかも我慢して生きているというわけでもない」
「……え?」
レンは目を閉じかけながら続ける。
「少なくとも……俺は今、自由だ。この妙な世界に迷い込んでからも……伯爵家にいた時より、ずっと……」
そう言って、レンは少しだけ笑った。
「………」
一拍遅れて、杏奈が引っかかる。
「……伯爵家?」
これまで何度も感じてきた違和感が、また頭をもたげた。
アルディア王国。
冒険者。
日本に来て二か月。
緑色の光。
不自然なほど現代社会を知らない男。
「ねえ、レン」
眠りかけているレンの顔を覗き込む。
「あんた、本当はどこから来たの」
レンは面倒そうに眉を寄せた。
「だから……何度も言っているだろう」
「………」
「アルディア王国だ」
酔っていようが、答えは変わらない。
「魔王討伐の時……自爆した奴の……」
一度、言葉が止まる。
「結界が……次元の裂け目に飛ばされて……」
杏奈は何も言えなかった。
「仲間が無事か……確かめないと」
「帰る方法を……」
声が次第に小さくなり、そのまま再びテーブルへ身体を預ける。
「……レン?」
返事はない。
聞こえてくるのは、一定の寝息だけだった。
「………」
伯爵家。
アルディア王国。
魔王討伐。
次元の裂け目。
仲間。
帰る方法。
今までなら、酔っぱらいの戯言だと思ったかもしれない。
だが、この男はこれまで何度聞かれても、同じことを言い続けている。
杏奈は眠り込んだレンをしばらく見つめてから手を上げ、店員を呼んだ。
「チェックで」
そしてもう一度、レンを見る。
「あと、タクシー呼んで」
◇
タクシーのドアが閉まる。
車内でレンは、杏奈へ寄りかかるようにして眠り込んでいた。
マンションへ着く頃には多少意識を取り戻したようだったが、話しかけても上の空で、視線も定まっていない。
タクシーを降りると、杏奈はレンと腕を組み、ふらつく身体をほとんど支えるようにして歩いた。
「着いたよ」
「………」
レンはぼんやりと杏奈へ視線を向けただけで、返事をしない。
「なによ。気持ち悪いの?」
やはり答えはない。
どうにかスタッフルームまで辿り着くと、レンはそのままベッドへ倒れ込んだ。
杏奈は小さくため息をつく。
「ねえ……そのまま寝たらスーツ駄目になっちゃうから」
完全に眠ってしまったように見えるレン。
杏奈はベッド脇へ腰を下ろすと、まずネクタイへ手を伸ばした。結び目を緩めて外し、続いてシャツの襟元を少し緩める。さらにジャケットとベストのボタンへ手をかけた。
そのとき、眠っていたはずのレンの手が、突然杏奈の手首を掴んだ。
「…………!」
「ちょ、なに!?」
レンの口から何か言葉が漏れる。
しかし、杏奈には意味が分からなかった。
聞いたことのない言語。
「は? 何? 何言ってるか分かんないんだけど!」
レン自身も、自分の言葉が通じていないことに気づいたらしい。
酔いで集中が途切れ、普段ほとんど無意識に維持している翻訳術式が一時的に切れていた。
レンは重そうに片手を持ち上げ、自分の耳元へ触れる。そして何かを小さく呟いた。
その瞬間、耳の上に、青白い魔法陣のような紋様が浮かび上がった。
淡い光が一度強く瞬き、消える。
「……何をしている……」
今度は、日本語として杏奈の耳へ届いた。
「………」
目を見開いたまま、杏奈は固まった。
「……今の青いの、何?」
「……翻訳魔法だが……」
「………」
「それが……どうした……」
言葉の途中で、レンの瞼がまた重く落ちていく。
杏奈の手首を掴んでいた指から、力が抜けた。
その手が落ちる前に、杏奈は反射的に受け止めた。
そして今度は、自分のほうからそっと握る。
「……魔法?」
レンはもう答えない。
「翻訳……魔法……?」
頭の中で、これまでの出来事が一つずつ繋がり始めた。
日本に来てまだ二か月しか経っていないと言っていたのに、不自然なほど流暢な日本語。
現代日本の言葉は話せるのに、常識をほとんど知らないこと。
母親との電話で呼吸ができなくなった夜、
背中へ触れられた時、レンの手から身体へ流れ込んできた不思議な温かさ。
カメラへ偶然映り込んだ緑色の光。
『あの時、何かした?』
そう尋ねた時、わずかに逸らされた視線。
そして、
アルディア王国。
魔王。
冒険者。
次元の裂け目。
伯爵家。
「………」
魔法などというものが、本当に存在するのだとすれば。この男が本当に異世界から次元を越えて来たのだとすれば。
今まで不可解だったことの、ほとんどに説明がつく。
杏奈は眠っているレンの顔を見つめた。
握った手は、そのまま離さない。
「全部……」
小さく呟く。
「全部ほんとだったの……? レン……」
返事はない。
レンは静かな寝息を立てている。
杏奈はしばらく、そのままベッド脇に残った。
レンの横顔を見つめたまま、握っていた手を離すタイミングを失ったまま、杏奈自身もいつしかベッドの端で眠り込んでいた。
◇
明け方。
レンはぼんやりと目を覚ました。
頭が重い。口の中は乾き、喉が張りついたように渇いている。
酒を飲んだところまでは覚えていた。
杏奈と勝負をしたことも。
だが、途中からの記憶がない。
重い瞼を開けようとした、その時だった。
腕へ柔らかな感触が触れていることに気づく。
「……!」
一気に目が覚めた。
レンは勢いよく跳ね起きる。
すぐ隣に、杏奈が横たわって眠っていた。
「ここで何をしている」
「うーん……なぁに……?」
杏奈がゆっくりと目を開ける。
「あ、起きたの?」
「なぜここにいる」
杏奈は眠そうに瞬きをしてから、口元だけでにいっと笑った。
「何をしてるって……覚えてないの?」
「………」
杏奈の顔が、ずい、と近づく。
「何があったとは言わないけどぉ」
「………」
「レンくんって、意外と寝相いいんだなーって♡」
レンの表情が固まる。
記憶がない。
隣で杏奈が寝ている。
自分はベッドの上。
レンは無言で頭を抱えた。
杏奈は内心で笑いを堪える。
「あ、スーツはちゃんとハンガー掛けといたから」
「………」
さらに固まった。
杏奈は何事もなかったようにベッドから立ち上がる。
そのまま部屋を出ようとすると、背後から声が飛んだ。
「……待ってくれ」
「なに?」
レンはしばらく言いにくそうに黙っていた。
「昨晩、俺は……何か話していたか」
「うん」
杏奈はあっさり答えた。
そして、いつもの『あーにゃん』のような笑顔を作る。
「聞いちゃった☆ ぜーんぶ♡」
「……全部……?」
レンの顔から血の気が引いた。
自分がどこまで話したのか。
婚約者のことか。
家のことか。
アルディア王国のことか。
それすら分からない。
「じゃ、あたし寝るから」
「………」
「あ、朝ごはんはこの前のスープにして」
「ちょっと待て……」
「お願い♡」
そのまま杏奈は部屋を出ていった。
扉が閉まる。
取り残されたレンは、一人で頭を抱える。
「俺は一体……昨日何をしたんだ……?」
一方、廊下。
ドアの向こうで杏奈は足を止めた。
――全部聞いた。
過去のことも。
アルディア王国のことも。
でも。
杏奈は自分の手を見る。
昨夜、その目の前で浮かんだ青い魔法陣を思い出す。
――魔法を見たことは、まだ言わない。
レンの話を全部信じたことも。
まだ。
杏奈はわずかに口元を緩めた。
――これは、あたしだけが知ってるレンだから。
そのまま杏奈は、自室へ戻っていった。




