あーにゃんが飼ってあげようか♡
数日後の夜。
西麻布にある安西杏奈のマンションでは、今夜も配信の準備が進められていた。
スタッフたちが忙しく行き来する気配を遠くに聞きながら、レンは自分に割り当てられたスタッフルームで過ごしていた。
その扉が、不意に軽い音を立ててノックされる。
「レンくぅん♡」
聞き慣れつつある甘ったるい声に、レンは眉間へ皺を寄せた。
――またか。
内心でうんざりしながら立ち上がり、扉を開ける。
「……なんだ」
そこに立っていたのは、すでに配信衣装へ着替えた『あーにゃん』だった。
黒猫を思わせる耳に、魔導士風の衣装。画面の向こうでは多くの視聴者を虜にしている姿のまま、杏奈は上目遣いでレンを見つめる。
「あのね、レンくん……今日もあーにゃんのお願い、聞いてくれるかにゃん?♡」
レンは露骨に嫌そうな顔をした。
「言ったはずだが、俺の戦装束は見世物にするためのものではない」
「でも、ソウくんもあーにゃんとレンくんの配信見たいって言ったよ? 楽しみにしてると思うけどなあ?」
ぴたり、とレンが黙る。
杏奈を見つめたまま、しばらく何も言わない。
やがて深々とため息をつくと、レンは踵を返した。
「着替える」
「着替えたら配信ルームに来てね♡」
扉が閉まる。
その瞬間、杏奈の顔から笑みが消えた。
「……チッ」
レンには聞こえない程度の小さな舌打ちが漏れる。
――あたしが頼んでも一度は断るくせに。ソウくんの名前出したら言うこと聞くのなんなの、マジ。
扱いやすい。
そう考えればいいはずなのに、それはそれで妙に腹が立った。
とはいえ、レンが配信へ出演するようになってから反響が大きくなっているのも事実だった。レンの登場する切り抜き動画はよく回り、最初に二人で撮影した写真も順調に拡散されている。
数字という意味でも、レンはすでに杏奈にとって非常に価値のある存在になりつつあった。
――これは絶対に手放せない。
護衛の件が終わる前に、なんとかしてあたしに心酔させて、離れられなくしてやる。
――奪ってやる。
杏奈自身、それを恋愛感情だとは思っていなかった。
ただ、自分の思い通りにならない。
自分が呼んでも渋るくせに、ソウシの名前を出せば折れる。
そんなレンを、自分のものにしてしまいたい。
それは恋というよりも、強い所有欲に近かった。
◇
しばらくして、配信ルームの扉が開く。
元の世界で使っていた鎧へ着替えたレンが入ってきた。
明らかに気乗りしていない。どこか不貞腐れたような顔のまま杏奈の隣へ腰を下ろす。
杏奈は、その横顔をじっと見た。
――コイツ、顔が浮腫むとか肌の調子悪いとかないのかよ。ほんとムカつくくらい顔がいい。
「なんだ」
視線に気づいたレンが言う。
杏奈は即座に笑顔を作った。
「なんでもないよ♡」
つい先ほどまでの表情など最初から存在しなかったかのように、『あーにゃん』へ戻る。
「始めまーす」
スタッフの声が飛ぶ。
カメラが回り、配信が始まった。
「みなさーん♡ 今日も森へおかえりにゃん♡」
◇
その頃、東池袋の古いアパートでは、パソコンからまったく同じ声が流れていた。
『みなさーん♡ 今日も森へおかえりにゃん♡』
「おっ、またレンが出てるじゃん」
ソウシは画面へ顔を近づける。
映っているのは、黒猫魔導士姿のあーにゃんと、その隣に座る鎧姿のレンだった。
二人が初めて並んで配信へ出演した時は、それだけで大騒ぎだった。
推しと、異世界からやってきた本物の冒険者。
あまりにも絵になる光景を前に、ソウシ自身、完全な供給過多に陥ったものだった。
だが、今夜は違う。
数日前、ミキちゃんから学校内で広がっている怪しい勧誘について聞いた。そしてその後、あーにゃんの配信コメントの中に『nezumi』というユーザーを見つけた。
それ以来、以前と同じ気持ちだけで二人を見ることはできなくなっていた。
画面の中では、レンがいかにも気乗りしない顔で座っている。
時折あーにゃんから質問されては適当に答え、愛想が足りないとでも言いたげに杏奈から肘で小突かれる。するとレンは面倒そうにカメラを見て、渋々手を振った。
以前のソウシなら、それだけでも十分に喜んでいた。
けれど今、ソウシの目が追っているのは二人ではない。
画面脇を次々と流れていくコメントだった。
一つずつ、見落とさないように文字を追っていく。
――俺の感じたことが間違いじゃなければ、近くにいるはずなんだ。
『nezumi』は。
そして、奴は知っている。
ミキちゃんを危険に晒そうとする何かを。
ソウシはもう、配信を楽しむためにコメント欄を見ているのではなかった。
流れては消えていく無数の名前と文字の中から、『nezumi』の痕跡だけを探し続けていた。
◇
ミキちゃんから電話がかかってきたあの日から、ソウシが始めたことがもう一つあった。
自分がモデレーターを担当した、あーにゃんの配信コメントログを遡ることだった。
もっとも、ログは無限に残っているわけではない。
確認できるのは、ほんの数日程度。
それでも充分だった。
ソウシが知りたいのは、『nezumi』がレン――
『池袋の勇者』について、いつから言及し始めたのか。
その最初の書き込みだった。
『また新しい男かよ』
『今度は池袋の勇者をたらし込んでるよ』
「……これだ」
ソウシの指が止まる。
『nezumi』がそう書き込んでいたのは、ソウシが西麻布のマンションから帰ったあとの夕方の配信だった。
レンと杏奈が初めて対面した日。
二人で写真を撮影し、そのままレンが護衛スタッフとして契約を結んだ直後だ。
その時点では、レンが杏奈の護衛になったことなど外部へ知られているはずがなかった。
――誰も知りようがない。
あの場にいた人間以外は。
ソウシはスマートフォンを見つめながら、その日マンションにいた人物を頭の中で一人ずつ整理していく。
まず、自分とレン。
当然違う。
次に、杏奈本人。
自作自演という可能性が、一瞬だけ頭をよぎった。
少し前の自分なら、その時点で即座に否定していただろう。
あーにゃんがそんなことをするはずがない、と。
だが今は違う。
ソウシは『あーにゃん』ではなく、一人の人間として安西杏奈を考えようとしていた。
杏奈なら、その程度の工作をしても不思議ではない。
そう考えることさえ、今ではできる。
けれど今回に限っては違う。
ストーカーを装い、自分自身の仕事や評判を傷つけるような書き込みを続ける。そこまでして得られるものが杏奈にはない。
ならば残るのは、あの日マンションにいたスタッフたち。
男性スタッフ。
カメラマン。
そして、女性マネージャーが一人。
ソウシは画面に残る『nezumi』の文字を睨んだ。
「間違いない……あの三人の中にnezumiはいる」
追跡を始める前は、まだぼんやりした感覚でしかなかった。
おそらく杏奈の近くにいる。ただそれだけだった。
けれど今、書き込みの時系列によって、その輪郭がはっきりと狭まり始めていた。
◇
西麻布のマンションでは、その日の配信が終わろうとしていた。
「それじゃあみなさん、疲れたらまた森に帰ってきてにゃん♡ またね〜」
「終了です! おつかれさまでした!」
スタッフの声と同時に配信が切れる。
「はぁ……疲れた……」
途端に杏奈の表情が変わった。
声も仕草も、たった今までの『あーにゃん』とは別人のように消える。
杏奈は電子タバコを手に取ると深く吸い込み、ゆっくりと煙をくゆらせた。
その変貌を隣で見ていたレンが、呆れたように苦笑する。
「相変わらず見事な変わりようだな」
「ふっ、それ褒めてないでしょ」
「感心はしている」
杏奈は横目でレンを見る。
そして、ふと思いついたように口元を緩めた。
次に発した声は、再び先ほどまでの甘い『あーにゃん』のものだった。
「あれぇ? それともソウくんと一緒で、レンくんもこっちのあーにゃんが好きなのかにゃん?♡」
「……それは護衛と関係のないことだ」
露骨に話を切り上げようと、レンが杏奈から距離を取る。
だが杏奈は逃がさなかった。
伸ばした手でレンの腕を掴む。
「いま、護衛の話してないんだけど」
そのままさらに距離を詰め、レンの首へ腕を回す。
一気に顔と顔が近づく。
「ねぇ……聞いたよ? レンくんって住む場所なくて、ソウくんのところにいるんでしょ?」
間近まで杏奈が迫っても、レンの視線は揺れなかった。
「……それがどうした」
「だったらさあ、護衛が終わってからもあーにゃんのところにいればいいんじゃない?」
杏奈の唇が、レンの耳元へ近づく。
「……ねぇ。あーにゃんが飼ってあげようか。レンくんのこと♡」
甘く囁いた、その直後だった。
レンの手が杏奈の肩を掴んだ。
少し強引に身体を押し返し、自分から引き離す。
レンの顔には、はっきりとした不快感が浮かんでいた。
「……飼う? 俺は羊ではない」
「…………」
杏奈が一瞬、言葉を失う。
そこじゃない。
そういう意味ではない。
こちらの誘惑そのものがほとんど伝わっていないらしい。
それでも杏奈は諦めなかった。
「ソウくんだってさあ、お金ありそうには見えないし。レンくん置いとくだけの余裕なんてないんじゃないの?」
レンを正面から見つめ、今度はその頬へ手を添える。
「あたしなら『これ』をちゃーんとお金に変えてあげられるのに」
『これ』。
レンの顔。
その容姿。
存在そのもの。
杏奈は、それを価値として見ていた。
住む場所も、仕事も、金も、自分なら与えられる。
レンが持つ価値を、もっと大きな金へ変えることだってできる。
杏奈にとっては、それが誰かを自分のもとへ留めるための、ごく自然な方法だった。
「必要ない」
返ってきた言葉は短かった。
レンは目を伏せ、杏奈の手から静かに身体を離す。
「俺は冒険者だ。この力で身を立てる」
それだけ言うと、杏奈へ背を向けた。
呼び止める暇もなく、そのまま配信ルームを出ていく。
扉が閉まった。
杏奈は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
やがて力が抜けたように傍らのソファへ身体を預ける。
そのままクッションへ顔を埋めた。
せっかく整えたメイクが崩れるかもしれない。
普段なら真っ先に気にするはずのことさえ、その時の杏奈の頭には浮かばなかった。
……あたしは、
どうして何かを伝える時に、こういうやり方しかできないんだろう。




