パイセンのにおいする
電話したときにはひどく混乱していたようだったミキちゃんの表情が、パーカーを貸すくだりで少しほぐれたように見えて、ソウシは内心ほっとしていた。
「それで……」
けれど、いつまでも別の話をしているわけにもいかない。
ソウシ自身、できることなら聞きたくなかった話へ切り込む。
「何が……あったの?」
「うん……電話でも言ったけど、ちょっと前からうちの学校で、あーにゃんの紹介でごはん食べるだけでお小遣いもらえるっていう話がまわってて……」
ミキちゃんは、借りたパーカーの袖口を指先で弄りながら続けた。
「で、今日はウチ、友達に頼まれて飲み会に行ったの。ごはん食べるだけって言われて」
「うん」
「なんか、ウチらくらいの子とオヤジがたくさんいた。ウチも隣のオヤジに『ギャル好きなんだよねぇ』とか言われて」
ミキちゃんは思い出しただけでも嫌そうに顔をしかめ、自分の両肩を抱くように身をすくめた。
「超キモかった」
その仕草を見ながら、ソウシは背筋が寒くなるのを感じた。
そんな場所に、ミキちゃんがいた。
もし何かあったら。
もし、あの場で誰かに無理を強いられていたら。
想像するだけで胸の奥がざわつく。
そして、その場にはあーにゃんとレンまでいたという。
ミキちゃんはバッグの中を探り、一枚の名刺を取り出した。
「あと、これ」
ソウシは受け取った。
『安西杏奈
動画クリエーター
女子支援・ライフクリエイト
個人スポンサー契約』
写真付きの名刺だった。
そこに笑っている女性は、森のエルフ姿とは髪型もメイクもまるで違う。
それでも、『森の民』であるソウシが見間違えるはずはなかった。
あーにゃんだ。
「これ渡されて、『黒ギャルちゃんって好きな人は好きだから需要あるんだよね』って」
「……」
「ギャルファッション維持するのにもお金かかるでしょう、あたしはあなたにお小遣いをあげたいおじさまと、お小遣いが欲しいあなたをマッチングしてるだけ、何も強制なんかしないよ、って」
ソウシは何も言えなかった。
学校で広がっている話。
ミキちゃんが参加した会食。
そして、安西杏奈本人から渡された名刺。
何かの勘違いだと片付けるには、材料が揃いすぎている。
かといって、今すぐ杏奈を罵ったり、すべてを否定したりできるほど、これまでの時間はソウシにとって軽いものでもなかった。
「レンが……」
ようやく声が出た。
「レンがあーにゃんの護衛スタッフの話を受けた時、俺も一緒にいたんだ」
ミキちゃんが黙って顔を見る。
「レンが一緒に居たってことは、その人は本物のあーにゃんだよ……」
そこまで言うと、ソウシは両手で頭を抱えた。
今は、それを認めるだけで精いっぱいだった。
「勇者くんともちょっと話した」
ソウシは顔を上げる。
「レンは……なんて?」
「あーにゃんがオヤジ達から、女の子の条件聞いてるの見たって。顔とか性格とか、いくらかとか……」
「うわあ……」
思わず声が漏れた。
「でも、それが悪い事言ってるってよくわかんなかったって。天然なん? 勇者くん」
「ああ……大体そんなもん」
「でも、怪しいなとは思ってたみたい」
「レンに怪しまれるってよっぽどだぞ」
「でも、怪しいけど依頼は依頼だから、ストーカー問題が片付くまでは護衛は続けるって、パイセンのマイメンっぽいマジメなこと言ってた」
「マイメン(笑)。まあでも、あいつはそういう感じだよ」
少しだけ、ソウシの口元に笑いが戻った。
「今日あったことはそんな感じ」
「そっか……」
再び沈黙が落ちる。
ソウシはうつむいた。
配信で見せる、いつもの笑顔。
受験のときにくれた言葉。
初めて本人へ会えたとき、手を握ってくれたこと。
『森の民』という名前の由来を知ったときのこと。
いくつもの記憶が頭を巡って、言葉にならなかった。
自分が信じていたものは、何だったのだろう。
救われたと思った時間まで、全部嘘だったのだろうか。
そこまで考えたところで、ふと隣へ目を向ける。
ミキちゃんが、借りたパーカーの袖口へ顔を半分埋めていた。
「………何やってんの?」
「まってこれ、パイセンのにおいする」
「はぁー? 何?」
ミキちゃんはもう一度袖口へ鼻先を近づける。
「なんか……落ちつくにおいする」
そう言って、ふにゃっと笑った。
ソウシの頭から、すべてが吹き飛んだ。
――おいおいおいおい、かわいすぎるだろ!!!
反射的に少し身を引いたソウシへ、ミキちゃんは今度は自分が顔を埋めていた袖先を押しつけた。
「………!!!」
「においする?」
鼻先へふわりと香ってきたのは、自分の匂いではなかった。
むしろ、ミキちゃんの香水かシャンプーのような、甘くていい匂いがする。
「……自分じゃわかんないよ」
「ぶー。いいにおいなのに」
ミキちゃんは不満そうに頬を膨らませる。
「パイセン」
「え?」
「ショックだった?」
不意に聞かれて、ソウシは少し黙った。
「………今は大丈夫」
ミキちゃんのおかげで。
その一言だけは、どうしても言えなかった。
「また落ち込んだら、話きくっすよ?」
「やだよ。三木さん怒るじゃん」
「怒ることもふくめてウチだから!」
まりなは胸を張った。
その迷いのない言い方が、妙におかしくて、少しだけ救われた。
「わかったよ。なんかあったら聞いてもらう」
「任せてくださいよぉ☆」
その後、ソウシはまりなを駅まで送り届けた。
パーカーは家まで着て帰っていいと、そのまま貸した。
別れて一人になった帰り道。
先ほどまであれほど重かったあーにゃんの話よりも、今は別のことばかりが頭を回っていた。
――ミキちゃん、自分が口に当ててた袖を俺の顔にも当てたよね。
――あれって……間接キ……
叫びそうになった。
だが、寸前でなんとか堪える。
夜道でいきなり叫んだら、本当にただの不審者だ。
危なかった。
危うく不審者になるところだった。
◇
東池袋の六畳一間へ戻ってからも、ソウシはまだどこかふわふわしていた。
部屋のドアを閉め、鞄を置く。
ショックな話も聞いた。
それなのに頭へ浮かぶのは、今日のミキちゃんの姿ばかりだ。
黒いオフショルダーのワンピース。
自分のパーカーを着た姿。
『パイセンのにおいする』
『なんか……落ちつくにおいする』
「……いけない」
ソウシは頭を振った。
こんなことにうつつを抜かすために、ここにいるのではない。
机の上には、出かける前に広げたままだったノートと参考書の束が残っている。
それらが、現実へ戻れと訴えているように見えた。
そして、そのさらに先。
パソコンのモニターには、ソウシの浮ついた気持ちを一気に冷ます存在があった。
あーにゃん。
「……そうだ。今日モデレーターの日だ」
ソウシは椅子へ座り、ヘッドホンを着けた。
配信開始までの待機時間。
いつものように過去の切り抜き動画を再生する。
マウスを操作し、流れてきた声を何気なく聞いて――。
手が止まった。
………あれ。
耳元へ流れてくる、あーにゃんの優しい声。
何度も聞いてきたはずの声。
何度も見たはずの笑顔。
何ひとつ変わっていない。
それなのに。
――こんな声だっけ。
――こんな顔だったっけ。
妙に作られているように感じる。
今までなら、それだけで安心できたはずなのに、今日は声も笑顔も、どこか薄い膜の向こうにあるようだった。
画面の向こうのあーにゃんが、ほんの少し遠く見える。
不思議なことに、その距離がソウシを少しだけ落ち着かせた。
◇
やがて時間になり、配信が始まった。
『みなさーん♡ 今日も森へおかえりなさい♡』
森を模したスクリーンの前に、森のエルフ姿のあーにゃんが映る。
ソウシはいつものようにコメント欄へ目を移した。
不適切なコメントを削除し、時折テンプレートの案内文を流す。
あーにゃんは人気配信者だ。
同時接続数が増えれば、当然アンチも増える。
これまでは、杏奈の実像とは違うと思える悪口など、いちいち内容を深く考えるまでもなく削除してきた。
けれど今日は、ひとつひとつの文字が妙に目へ入った。
『おばさんのアニメ声キモ』
『あの胸本物?』
『安西杏奈はパパの金で整形放題』
『◯◯西麻布』
『横向くとマジ整形顔』
『池袋でJK集めてるよ』
『P活女子の元締めやってるってホント?』
『Pの誘いウチの学校にも回ってた』
『売春斡旋じゃん』
『ちょっと体型だらしなくなってきたな』
『キンキン声のブス』
『最近池袋の勇者たらしこんでる』
ソウシの指が止まった。
……これ……。
ただの『悪口』じゃない……?
さっき聞いたミキちゃんの話が蘇る。
学校で、あーにゃんの名前を使った勧誘が広がっていること。
そして、会食の場で杏奈本人が言ったという言葉。
『黒ギャルちゃん、需要あるんだよね』
『お小遣いをあげたいおじさまと、お小遣いが欲しいあなたをマッチングしてるだけ』
今までなら、全部まとめて悪質な荒らしとして消していただろう。
けれど。
『池袋でJK集めてるよ』
『Pの誘いウチの学校にも回ってた』
『売春斡旋じゃん』
そのいくつかは、ミキちゃんから聞いた話とあまりにも重なっていた。
――今まで俺が消してきたコメントの中にも、本当に何かを知ってる奴がいたのか?
一瞬、胃のあたりが冷たくなる。
ただ、それとこれとは別だとも思う。
もし杏奈が本当に悪いことをしていたとしても。
外見を笑ったり、「ブス」だの何だのと罵ったりしていい理由にはならない。
けれど今まで全部同じ「荒らし」だと思っていた言葉の中に、明らかに種類の違うものが混ざっている。
そのことが急に気味悪く思えた。
また、ミキちゃんの顔が浮かぶ。
自分のパーカーへ顔を埋めて、
『なんか……落ちつくにおいする』
と笑った顔。
もし。
あの笑顔を一瞬でも曇らせるような場所へ、杏奈が彼女を引き込もうとしていたのだとしたら。
胸の奥に、怒りとも悲しみともつかない感情がちりちりと広がる。
そして。
『最近池袋の勇者たらしこんでる』
ソウシは、その一文へもう一度目を戻した。
レンが杏奈の護衛になって、まだ数日しか経っていない。
ソウシの知る限り、二人で撮った写真も、コラボ企画も、まだ世には出ていない。
レンが杏奈のそばにいる。
そのことを普通の視聴者が知る機会など、ほとんどないはずだ。
ストーカーか?
いや。
ただ配信を見ているだけなら、そもそもレンが杏奈の近くにいることさえ知りようがない。
では、どうして。
ソウシはモニターを見つめたまま、低く呟いた。
「……近くにいる。たぶん、すごく近くに」
いつものように削除ボタンへ伸ばしていた指が、そのまま止まる。
ソウシはコメント主の名前を確認した。
『nezumi』




