9 木札
朝の組合は、思ったより静かだった。
稼ぎ頭の連中は夜明けとともに出てしまうらしい。
俺が戸を押した朝遅くの広間に残っているのは、昨日の稼ぎを酒にした顔ぶれと、掲示板の売れ残りを睨む連中と、それから俺のような新顔だけだ。
広間は天井が高く、傷だらけの長卓が並び、奥に窓口が三つ。酒と革と墨と、うっすら血の匂いがした。
壁には魔物の頭骨がいくつも掛けてある。どれも大物なのだろうが、名前はまだひとつも分からない。
分からないものの数だけ、これから覚えられるということだ。
広間の壁の一角に、小さな黒枠の貼り紙が並んでいるのにも気づいた。名前と、等級と、日付だけの紙だ。
近くの卓で杯を舐めていた男が、俺の視線に気づいて教えてくれた。戻らなかった連中の名簿だよ。
ひと月貼って、身寄りが来なけりゃ剥がす。紙は十枚ほどあって、木札の焼き印が半分を越えていた。
あの護衛の言った「消える」というのは、こういう形で壁に残るらしい。俺は名前をひとつずつ読んだ。
読んだところでどうなるものでもないが、素通りしてはいけない気がした。
登録の窓口には先客が三人並んでいた。
いずれも俺と歳の近い若者で、身なりはそれぞれ違った。先頭は仕立てのいい革鎧に真新しい剣の男。
その後ろは狩人上がりらしい弓の男と、鉈を提げた大柄な男。革鎧が窓口で高らかに名乗るのが聞こえた。
街の剣術道場で三年修めたこと。父親が街の何とかいう組合の役付きであること。
声がよく通るので、聞くつもりがなくても広間の半分に聞こえていたと思う。
受付の女は聞き流して、羊皮紙に必要なことだけ書き取っていた。
弓の男は逆に声が小さく、鉈の大男は名前のほかをほとんど喋らなかった。三人三様だが、三人とも今日が初日の顔をしていた。
強張って、それを隠そうとして、隠しきれていない。たぶん俺もだ。
列に並んでいる間に、後ろの弓の男とふたことだけ話した。北の猟師村の出で、弓は親父の仕込みだという。
あんたは、と訊かれて、山あいの村で棒振りを、と答えた。嘘ではない。
鉈の大男は俺たちのやりとりを黙って聞いて、最後にぼそりと、伐り出しだ、とだけ言った。木こり上がりらしい。
道場の三年より、猟師の弓と木こりの膂力のほうがこの稼業では長持ちしそうな気が俺はするのだが、それも含めて、これから答え合わせが始まるのだろう。
俺の番が来た。
「名前と、出身と、得物」
「ルド。トゥーレ村。短剣です」
「保証人は」
「いません」
「登録料、銅貨五枚。死んでも組合は骨を拾わない。組合の規約を破れば札は取り上げ。以上に頷けるなら、ここに名前を」
規約は壁に貼ってある、読めないなら読み上げる、と続いたので、読めますと答えて壁の羊皮紙を読んだ。依頼の横取りの禁止。
納品のごまかしの禁止。組合を通さない魔物素材の売り買いの禁止。自分の等級より二つ上の依頼は受けられないこと。
どれも理屈の通った決まりで、要するに、嘘と背伸びをするなと書いてあった。いい規約だと思う。
頷いて、名前を書いた。前世を入れて三度目の、新しい世界への入り口にしては、あっけないやりとりだった。
受付の女が焼き印の押された木の札を寄越す。手のひらに載る、ただの木片だ。
表に組合の焼き印、裏に俺の登録番号が彫ってある。紐を通して首から提げるも、腰に結ぶも好きにしろという。
俺は腰の、短剣の鞘の隣に結んだ。
これが今日からの俺の身分だった。
窓口を離れるとき、帳場の奥の机にいた白髪まじりの男が、ふとこちらを見たのが分かった。歳は爺より下だが、若くはない。
目が合ったのは一瞬で、男はすぐ手元の帳面に戻った。ただの一瞥のはずなのに、荷の重さを量られた感じだけが残った。
トゥーレ村、という俺の声が届く距離ではあった。ゼフ爺の手紙の宛先はこの組合の受付頭だ。あれがそうなのかもしれない。
確かめはしない。困るまでは出すな、が約束だ。
あの机がどれほどの席なのかは、広間を少し眺めていれば分かった。窓口の女たちは判断に迷うと、みんな一度あの机を見る。
男が頷けば通り、首を振れば止まる。
腰に得物はなく、立ち上がる素振りもないのに、武装した連中のひしめく広間で、あの机の周りだけ空気が締まっていた。
強い者の立ち方が分かるようになった目は、どうやら座っている強い者まで拾うらしい。
◇ ◇ ◇
掲示板の前で、さっきの革鎧と一緒になった。
掲示板は貼り場が上下に分かれていて、上の段ほど等級が高い。上段には護衛だの調査だの、報酬に銀貨の文字が並ぶ。
木札向けは板の下のほう、屈まないと読めない高さに固めて貼られている。分かりやすい世界だ。
革鎧はその下段の紙を、指ではじきながら鼻で笑っていた。薬草採り。街道の清掃。畑を荒らす一角兎の駆除。荷運びの人手。
溝さらい。
「雑用ばかりだな。俺たちは魔物を狩りに来たんだ、こんなもの」
同意を求める目がこちらに来たので、俺は正直に答えた。
「俺はこれでいいです」
「……変わってるな、あんた」
革鎧は肩をすくめて、駆除依頼の中からいちばん報酬のいい紙を剥がして行ってしまった。角猪の駆除。
木札が受けられる中では上限の相手だ。悪い奴ではなさそうだが、あの護衛の言った「背伸び」の見本を見た気がした。
もっとも、あれで腕が本物なら背伸びではない。どちらなのかは、これから分かる。
残った俺は、下段の紙を端から全部読んだ。読むだけならただだ。薬草採りが三種。清掃が二つ。荷運びが四つ。溝さらい。
兎の駆除が二つ。それぞれの報酬と場所と期日を頭に並べて、稽古の品書きに読み替えていく。荷運びは負荷歩き。
清掃は街の地理。溝さらいは、たぶん腰と我慢の稽古だ。どれも稽古になる。
どれから手をつけるかだけの話で、その順番を組む時間が、俺は嫌いではない。
前世の営業計画と違って、この計画は立てたぶんだけ必ず俺に返ってくる。
紙を選んでいると、隣に立った古株らしい男がにやにや笑って言った。坊主、そんなに睨んでも下段の紙は化けねえぞ。
化けます、と俺は答えた。化かすのはこっちの仕事です。男は妙な顔をして離れていった。紙は化けない。
だが同じ紙から何を汲み出すかは、受けた側の器で決まる。俺の器は、汲んだものを一滴もこぼさない。
俺が剥がしたのは、薬草採りだ。
ミド草。傷薬の材料になる下草で、街道を半日行った森の縁に群生する。納品は乾いていない生の葉で束二十。報酬は銅貨六枚。
木札依頼の中では安いほうから数えたほうが早い。掲示板の前の連中が誰も手を伸ばさないわけだ。
だが俺はこの紙の別のところを読んでいた。街道を半日。つまり往復一日ぶんの、荷を背負った足運びの稽古。森の縁。
つまり魔物の領分の入り口で、気配を読む稽古。納品は生の葉。つまり鮮度を落とさない荷の扱いをひとつ覚える。
ついでに銅貨六枚と、この街の外の地理がひとつ頭に入る。
雑用の値段は銅貨六枚でも、稽古代としてなら破格だ。
何しろ向こうが銭をくれる。
受付に紙を出すと、さっきの女が半眼で俺を見た。初日の新入りは十人が十人、駆除の紙を持ってくるという顔だった。
行き先の森の名前と、日暮れまでに戻らない場合の届けの決まりを教えてくれて、最後にひとことだけ付け足した。
森の縁から中には入るんじゃないよ。木札の初日に、説教をひとつ。これも稽古のうちだ。
組合を出ると、昼前の広場は市の声で埋まっていた。屋台で豆と芋の煮込みを一杯。
銅貨一枚の昼飯を胃に落として、俺は明日の下見がてら南門まで歩き、門番に森までの道筋と近頃の物騒の有無を訊いた。
門番は面倒くさそうで、それでも三本橋の先の分かれ道だけは間違えるなと教えてくれた。
歩きながら、腰の木札に一度だけ触れた。まだ何の色もついていない、ただの木片だ。
だがこの木片から銅へ、銅から銀へ、俺は目盛りをひとつずつ上げていく。急がない。目盛りの間を一段も飛ばさない。
飛ばした段の下には、あの黒枠の紙が待っている。それがこの稼業の造りだと、初日の俺はもう教わっている。




