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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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10 薬草採りの剣

夜明けと同時に門を出た。


門が開くのを待つ荷車の列の脇で、俺は徒歩の一番乗りだった。


行李は宿に預けて、背負うのは水と昼飯と、納品用の背負い籠だけにした。それでも俺はわざと籠に石を三つ入れた。


荷の重さは足運びの稽古の重りだ。帰りは薬草で埋まるぶん、行きは石で埋めておく。


門番の衛兵が籠を検めて、石を見て、妙な顔をした。説明はしなかった。説明して分かる話でもない。


狙った負荷で歩く半日は、村の丘の千日と地続きの時間だった。


朝の街道には朝の顔ぶれがある。


街へ野菜を運ぶ近在の農夫。粉屋の荷車。夜のうちに獲物を仕留めて戻る猟師。


すれ違う顔と荷を数えながら歩くと、この街の暮らしの輪郭がうっすら見えてくる。


道は南へ行くほど寂しくなって、畑が切れて、草地になって、昼前に森が見えた。


途中の三本橋で、見回り帰りらしい年寄りの木札とすれ違った。


互いに会釈だけの間柄にもならない相手だが、向こうが足を止めて、初日か、と訊いてきた。


はいと答えると、年寄りは自分の足元を指した。森の縁はいま乾いてるが、獣道の泥はまだ湿ってる。


足跡が新しけりゃ引き返せ。それだけ言って行ってしまった。


名前も知らない先達の、銅貨一枚にもならないひと言を、俺は籠の石と一緒に持って歩いた。


ミド草はすぐに見つかった。


依頼の紙に葉の形が描いてあったし、群生というのは本当で、森の縁の日だまりに膝丈の下草が帯になって続いている。


探すより屈む時間のほうが長い。葉の付け根を親指の爪で摘むと、青い匂いの汁がにじむ。傷薬の匂いはこれかと得心した。


単純な仕事だ。そして単純な仕事は、頭と耳が空く。


束ねる作法にも工夫の余地はあった。


依頼の紙には束の太さの指定があって、細すぎれば数え直し、太すぎればこちらの損になる。


俺は最初のひと束を丁寧に作って、それを型に残りを揃えた。葉は日に当てると萎れるから、籠の中で湿らせた布を被せておく。


これは行商の親父の、売り物の扱いからの借り物だ。


どこで拾った知恵でも、使えば俺のものになって、俺のものになったら二度と出ていかない。


昼飯は摘みの手を止めずに済むよう、朝のうちに屋台で買った堅パンにしておいた。


齧りながら、屈む姿勢をわざと二種類使い分ける。膝を折る屈みと、腰から折る屈み。


半日同じ姿勢では腰が固まるし、どうせなら二種類の保ちを比べたい。夕方には答えが出た。


俺の腰は、膝の屈みのほうが半刻長く保つ。こういうどうでもいい答えの一つひとつが、十年後のどこかの戦いで効いてくる。


俺の帳面には、どうでもいい頁というものがない。


俺は摘みながら、聞こえる音を数えることにした。


鳥が三種類。羽音の高さで枝の高さが分かる。下草を走る鼠の類が、右手の藪に二匹。遠くで木を叩く鳥がひとつ。


風が変わるたびに森の奥の匂いが流れてくる。土と、腐った葉と、獣の通り道の匂い。


ゼフ爺の言う「森の当たり前」を、耳と鼻に覚えさせる。当たり前を知らなければ、当たり前でないものに気づけない。


これも爺の受け売りだ。村の森とこの森では、当たり前の中身が少し違う。鳥の顔ぶれが違い、土の匂いが違う。


その違いをひとつずつ、新しい帳面に書き込んでいく。


当たり前でないものは、昼過ぎに来た。


鳥が一斉に黙った。


右手の藪の鼠が逃げた。俺は籠を置いて立ち上がり、短剣を抜いて半身になった。考えてそうしたのではない。


森が静かになったら手を止めろと、体に入れてあっただけだ。目より先に耳が、耳より先に足が動く。


爺の庭の千日は、こういうときのための千日だ。


藪を割って出てきたのは、一角兎だった。


名前は可愛いが、犬ほどの体に、額から槍の穂先みたいな角が突き出ている。


畑を荒らし、追い払おうとした農夫の腿を刺し、木札の新入りに最初の傷をつける獲物として組合の講釈で名前の挙がる獣だ。


突進は速いが、曲がれない。受付の女が付け足したひと言まで、ちゃんと覚えている。


兎は後ろ足で立って、鼻を動かして、俺を見た。逃げるかと思った。逃げなかった。


縄張りの主張か、ただ腹が減っているのか、角のある獣は気が荒い。前足が地面を掻いた。来る。


一角兎が地を蹴った。


速い。牙犬より直線は速いかもしれない。だが知っている速さだ。そして、直線しかない速さだ。


俺は半歩だけ左に滑って、角の線から体を外した。曲がれない突進は、外れた瞬間にただの的だ。


すれ違いざま、首の後ろに短剣を打ち下ろした。


手応えはひとつ。それで終わった。


拍子抜けするほど静かに、一角兎は草の上に伸びていた。俺はしばらく短剣を握ったまま、自分の体を確かめていた。


震えは、ある。牙犬のときと同じで、命のやりとりの後の震えは消せない。だが震えの底が違った。


あのとき紙一重だったものが、今日は三枚くらい余裕があった。半歩の外しに迷いがなく、打ち下ろしの狙いが逸れなかった。


二年ぶんだ。


あの冬から今日までに重ねた二年が、そのまま三枚の余裕になっている。


目に見えない地力の高さが、命のやりとりの場でだけ、はっきり目に見える。


この稼業は、俺の地力の検分場でもあるらしい。


血抜きと角の切り取りは、村の狩人の見よう見まねで済ませた。手際は悪かったと思う。これも数をやれば覚える。


帰り道は角のぶんだけ荷が重く、日暮れの門限が頭の隅で鳴っていた。門が閉まれば壁の外で夜明かしになる。


急ぎたい足を、俺はわざと同じ歩幅に抑えた。焦った足は転ぶ。転べば生の葉が潰れて、納品の検分で揉める。


爺の受け売りで言えば、依頼は納めて終わりで、納めるまでのぜんぶが依頼だ。


結局、門には日のあるうちに間に合って、抑えた歩幅の判断ごと今日の帳面に載った。


◇ ◇ ◇


夕方、組合に戻って、ミド草二十束と一角兎の角を納めた。


受付の女が角を検めて、初めて俺の顔をまともに見た。


「討伐依頼は受けてないね」


「薬草採りの最中に、向こうから来たので」


「……ふうん。初日の木札が角を持って帰るのは、久しぶりに見た」女は帳面に何か書きつけた。「薬草が銅貨六枚。角は買い取りで四枚。次からは駆除依頼を先に受けてから行きな。同じ角でも報酬が倍つく」


「覚えておきます」


「あと、傷は」


「ありません」


女はもう一度だけ俺を見て、それ以上は何も言わなかった。


組合の受付というのは、新入りの生き死にを帳面の上で見送り続ける仕事だ。傷の有無を訊くのが癖になっているのだと思う。


窓口の隣では、朝に角猪の紙を睨んでいた二人組が、手ぶらで帰りの報告をしていた。獲物に会えなかったらしい。


駆除依頼は仕留めてなんぼで、会えなければ一日がまるごと空振りになる。


薬草採りの払いが安いのには、外れがないという値打ちも織り込まれているわけだ。


安いものには安いなりの、高いものには高いなりの理屈がある。依頼の値段の読み方が、初日にしてまたひとつ増えた。


宿に戻る道で、掌の銅貨十枚を確かめた。宿代と飯代を引いて、三枚残る。それが初日の稼ぎだ。


革鎧の彼が聞いたら鼻で笑う額だろう。あいつの取った角猪は、確か銅貨三十枚だった。


だが俺の帳面は銭だけではない。往復一日の負荷歩き。森の当たり前をひとつ。街道の朝の顔ぶれをひとつ。


一角兎の間合いをひとつ。血抜きの手際をひとつ。実戦の場数をひとつ。


全部、今日の俺に残って、明日の俺から二度と減らない。銭の帳面は三枚でも、こっちの帳面は初日から大黒字だ。


この稼業は、俺のための稼業だ。


宿の晩飯は豆の粥に芋がふたつ。齧りながら、俺は頭の帳面の今日の頁を閉じて、明日の頁を開いた。


明日は街道見回りの紙を取ろう。


行商の親父の西の森の話も、受付の説教も、年寄りの木札の足跡の話も、全部ひとつの絵に繋がりかけている。


この街の周りで、いま何がどう動いているのか。木札の雑用は、その絵を自分の足で塗っていく仕事だ。


絵が塗り上がる頃、俺の足と目と耳は、来た日の俺より確実に濃くなっている。


藁の寝床で、俺は明日の依頼の算段をしながら眠った。眠りに落ちる寸前、ゼフ爺の声で誰かが言った。焦るなよ、小僧。


分かってる。焦らない。焦らないまま、一日も止まらない。それだけのことを、死ぬまでやる。

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