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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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7 出立

十五の春に、俺は村を出ることになった。


もともと決まっていたことではある。トゥーレの畑は長兄が継ぐ。次兄は隣村の桶屋に婿に入る。


三男の俺に割り当てられた土地はない。口減らしと言えば身も蓋もないが、この世界の村の三男坊とはそういうものだ。


むしろ十五まで置いてもらえたのは、末の子への情の厚い家だったからだと思う。行き先だけが問題だった。


俺の行き先は、二年前の冬の晩からとっくに決まっていた。


冒険者だ。


理由は銭でも夢でもない。あれほど身になる稼業が他にないからだ。


毎日体を使い、毎日場数が増え、毎日知らない獣と知らない土地と知らない人間に会う。


稼ぎは等級という目盛りになって返ってくる。前世の営業と違って、期末に数字がゼロへ戻ることもない。


討伐の腕は誰にも横取りできない。俺の体質のために誂えたような稼業だと、牙犬の冬からずっと思っていた。


出立までの半月は、旅支度と挨拶回りで過ぎた。


母は俺の寸法に合わせて羊毛の外套を仕立て直し、夜なべの紡ぎ車がいつもより長く回った。


俺は俺で、爺の小屋に通える残りの晩を数えながら、組合の作法を口移しで教わった。依頼の受け方。


納品の検分で揉めないための証の残し方。宿の選び方と、選んではいけない酒場の見分け方。


剣の教えと違って紙に書けば済む話だが、爺は最後まで口で言った。


書いたもんは失くす、おまえの頭は失くさねえんだろう、と笑いながら。


挨拶回りの相手は多くなかった。世話になった狩人。婿入り前の次兄。


詰め所の自警の頭は、壁の牙犬の尻尾を顎で指して、こいつも持っていくか、と笑った。


厄除けはここの厄を除けていてください、と断った。丘には最後の朝まで立った。


八年間、毎朝同じ刻限に見上げた小屋の煙突の煙を、俺はたぶん一生、どこの空の下でも思い出せる。


南に馬車で三日下ったところにドルンという街がある。


街道の要で、近くに魔物の湧く古い森と岩山を抱えていて、冒険者組合の支部がある。


爺が若い頃に札を上げていった、まさにその支部だ。


出立が決まった晩、俺は最後の稽古に呼ばれた。


といっても、もう打ち合いはしない。爺の膝は近頃また重くなって、立っての稽古は月に数えるほどになっていた。


囲炉裏の前で、爺は俺に型をいくつかさらわせて、直すところがないのを確かめると、つまらなそうに鼻を鳴らした。


それが爺の満点だと、八年も通えばさすがに分かる。


「木札から始まる」それから爺は言った。「木札は雑用だ。薬草採り、溝さらい、街道の見回り。魔物退治なんぞ回ってこん。焦って背伸びする木札から死ぬ。おまえはどうせ焦らんだろうが、一応言っとく」


「焦りません。焦って強くなれる体なら、とっくにそうしてます」


「違いねえ」


爺は短く笑って、それから膝の上に手を置いた。


「小僧。餞別は、もうやってあるからな」


「はい」


「八年ぶんの基礎だ。あれより上等なもんは俺の小屋にはない。短剣もくれてやった。だからこれは餞別じゃなくて、預けもんだ」


爺が差し出したのは、一通の手紙だった。折り目のところが手擦れで柔らかくなっている。


書いてから、しばらく手元に置いてあったのだと思う。宛名は、ドルン支部の受付頭。爺の古い連れだという。


「口利きじゃねえぞ。等級に手心なんぞ利かん世界だ。ただ、おまえみたいな妙な新入りは、事情を知ってる大人がひとり近くにいたほうがいい。困ったらそいつに見せろ。困るまでは出すな」


「はい」


「返事は」


「困るまでは、出しません」


「よし」


それで爺の言葉は終わりだった。八年通った小屋の戸口を出るとき、俺は一度だけ振り返って頭を下げた。


爺は囲炉裏の前から動かず、手も振らなかった。ただ、行け、と顎をしゃくった。それがいちばん爺らしい見送りだった。


その晩、俺は爺の手紙を行李のいちばん底に縫い込んだ。困るまでは出さない。


つまりこの手紙は、出さないまま古びていくのがいちばんいい。切り札というものの扱いなら、前世の商談で少しは覚えた。


見せた瞬間に、切り札は切り札でなくなる。持っていることを自分でも忘れるくらいの場所が、ちょうどいい置き場所だ。


◇ ◇ ◇


出立の前の日、丘でダンと最後の打ち合いをした。


あいつは十六になって、狩人の仕事のかたわら、隣街の剣術大会で大人を打ち転がして名前を売り始めていた。


最後の打ち合いも、俺の負けだった。ただ、打ち数は二十を越えて、終わったとき、あいつの息も俺と同じくらい上がっていた。


二十いくつの合のうち、覚えているのは中ほどの三合だ。あいつの得意の、外から巻いてくる小手。


八年前なら三合目で喰らっていた一手を、俺は受け流して、外して、初めて返しの突きをあいつの喉元の寸前まで届かせた。


届いて、止まって、その次の一手であいつが勝った。それでいい。


俺の返しがどこまで届くようになったかを、あいつの目が誰より正確に量ってくれている。


「おまえさ」木剣を肩に担いでダンは言った。「絶対、途中でやめんなよ。おまえの伸び方、俺は好きなんだ。会うたびにちょっとずつ強くなってやがる。気味が悪くて、目が離せねえ」


「やめない。やめられる性分じゃない」


「知ってる」


あいつは笑って、俺の肩をひとつ叩いて、山へ帰っていった。


負けの数をまだ数え続けている俺の帳面の、いちばん古い頁からいるのがあいつだ。遠ざかる背中に、俺は胸の中でだけ言った。


次に会うときまでに、俺は今日の俺に千回勝っておく。


千回は誇張ではない。一日一勝なら三年足らずだ。


あいつが大会だか兵団だかで名を上げる頃、俺はまだ薬草を摘んでいるかもしれない。それでいい。


物差しの合わない相手と競っても、目盛りが狂うだけだ。俺の相手は明日の俺で、あいつの相手はあいつの才だ。


いつか二本の道がまた交わる日に、どちらの歩き方が高くまで届いたか、答え合わせをすればいい。


出立の朝は、よく晴れた。


母は泣いて、荷物に干し肉を詰められるだけ詰めた。行李の半分が干し肉になった。


兄たちは照れくさそうに、上の兄は自分の革紐を、下の兄は使い込んだ火打ち石をくれた。


父は最後まで何も言わず、村境の道標のところまで黙ってついてきて、ひとこと、死ぬな、とだけ言った。


どこかで聞いた台詞だと思ったら、いつか爺が言っていた。雇い主に恵まれた人生だ。


前世の三十五年で、死ぬなと言ってくれた雇い主はひとりもいなかった。


街道を南へ歩き出す。


背中には行李と干し肉。腰には爺の短剣。手の中には、八年ぶんの地力がある。


目には見えないが、俺にはその高さが一段残らず分かっている。六つの春の、あの最初の一振りからぜんぶだ。


納屋の裏の百振り。丘のひと月。庭の土の線。千日の足運び。四十六敗と、その先の負けの数々。牙犬の数十秒。


囲炉裏端の器の話。どれひとつ、こぼれていない。


峠の曲がり口で、一度だけ振り返った。段々の畑と、羊の白い点と、藁葺きの屋根。あの丘と、爺の小屋の煙突。


十五年ぶんの景色が、朝靄の底で静かに光っていた。前世の俺は、故郷というものに未練を持ったことがなかった。


築いたものを崩され続けた土地に、置いていくものが何もなかったからだ。今度は違う。


ここには俺の一段目からの歩みが、そっくりそのまま立っている。だからこの振り返りは未練ではない。検分だ。土台よし。


俺は前に向き直った。


前世で三十五年かけて思い知った。築いたものは崩れる。数字は消える。体は衰える。


努力というものは、この世でいちばん報われない賭けだ。


だがこの体は違う。


この体では、努力は賭けですらない。今日の百振りは明日も俺の中にいて、明日の百振りがその上に乗る。一段は小さい。


人より遅い。それがどうした。俺は死ぬまで続ける。


止まった天才たちの脇を、歩みは遅いまま、しかし一度も立ち止まらずに通り過ぎていく。


十年後でも二十年後でもいい。いつかどこかの誰かが訊くだろう。あんたのその強さは何だ、と。


そのときの答えだけは、もう決めてある。


毎日積んだ。それが全部だ。

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