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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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6 積んだものだけ

牙犬の尻尾は、村を少しばかり騒がせた。


飢えた魔物が森の縁まで来ていたとなれば当然だ。父は青くなり、母は俺の腕の傷を見て泣いた。


傷は膿まずに塞がったが、母はその冬のあいだ、俺が薪拾いに出るたびに戸口まで出て見送るようになった。


自警の若い衆が松明を持って森の縁を三晩見回り、狩人が三日かけて足跡を読んで、他にいないことを確かめた。


降りていたのはあの一頭だけだった。尻尾は組合のない村では銭にならず、厄除けだと言われて自警の詰め所の壁に吊るされた。


兄たちはしばらく俺を英雄扱いして、それからすぐ元どおりの三男坊扱いに戻した。


村というのはそういうところで、俺はそののどかさが嫌いではない。


ひとつだけ、面倒があった。詰め所に呼ばれて、あの数十秒を大人たちの前で三度も話させられたのだ。


話すたびに、若い衆の目つきが変わっていくのが分かった。感心が半分、薄気味悪さが半分。


ゼフ爺の弟子だから、というひと言で全員がいちおう納得してくれたのは、爺の名前の重さのおかげだ。


帰り際、自警の頭が俺の肩に手を置いて、次は逃げろ、と言った。逃げ足も稽古しておきます、と答えたら、変な顔をされた。


冗談のつもりはなかったのだが。


騒ぎがひと通り済んだ晩に、俺は爺の小屋に呼ばれた。


囲炉裏の前で、爺は詰め所から借りてきたらしい牙犬の尻尾を火箸でつついた。


「牙犬の成獣だ。飢えて気も立ってた。……小僧。正直に言え。なんで生きてる」


「足運びと、素振りです」


「茶化すな」


「茶化してません」


俺はあの数十秒を、覚えている限り全部話した。風の変わり目に来た匂い。勝手に出た半身。木を背にした位置取り。


初手の突進の低さと速さ。外した左足。肩に入って抜けなくなった鉈。引き倒されて袖ごと喰われた左腕。


乗られた下から膝と腰で軸を外したこと。埋まったままの鉈を体重ごと捻り込んだこと。


爺は火箸を置いて、腕を組んで、途中からは目を閉じて、最後まで黙って聞いていた。


「……五年か」聞き終えて、爺は言った。「五年の皿で、成獣の初手を外したか。悪くねえ。悪くねえが、二度目はないぞ。今回のは向こうが飢えて痩せてた。万全の牙犬なら初手はもう半拍速い。おまえの皿ではまだ足りん」


「分かってます。足りない分は、これから埋めます」


「それよ」爺は俺を睨んだ。「前から訊こうと思ってた。おまえのその、積んだら減らねえ体。ありゃ何だ」


来た、と思った。


誤魔化す道はあった。


子供の頃から要領がよかっただけだとか、雪の日も納屋で振っていたとか、言い抜ける筋は前もっていくつも用意してあった。


だがこの五年、俺の一段目から全部を見てきたのはこの爺だ。


籠手の返しのひと月も、雪明けの三年も、ぜんぶこの目の前で起きている。


それに俺は、これから先も爺に教わりたいものが山ほどある。


教える側が皿の底を知らないままというのは、教わる側の不義理だと思った。


「減らないんです。何も」


俺は最初から話した。物心ついたときから稽古が一度も後戻りしないこと。二十日空けても最後の一振りの続きから始まること。


熱で寝込んでも筋の張りが落ちないこと。わざと五日空けて確かめたこと。


筋も、手の内も、覚えた型も、一度身につけたら二度と落ちないこと。そのかわり、覚え込みは人の倍遅いこと。


前世のことだけは伏せた。あれは話しても仕方がない。


話しながら、俺は妙な軽さを感じていた。この話は八年間、俺ひとりの荷物だった。


家族にも、ダンにも、口にしたことは一度もない。疑われるからではない。言葉にした瞬間に何かが薄まる気がしていたからだ。


だが爺に話す言葉は薄まらなかった。皿だの段だの、爺と俺が五年かけて作ってきた言葉の上に、そのまま載った。


秘密というものは、載せる台のある相手にしか渡せないのだと、話し終えてから知った。


爺は長いこと囲炉裏の火を見ていた。薪が一本、燃え落ちるくらい長かった。


「……若い頃、東の剣士に聞いた話がある」やがて爺はぽつりと言った。「戦役帰りの流れ者でな。酒場で一晩だけ同じ卓を囲んだ。そいつの国の言い伝えに、百年にひとりだか二百年にひとりだか、そういう生まれの奴がいるんだと。才の器がでかい奴の話じゃねえ。器の底に、穴がない奴の話だ」


「穴」


「人間の器にはな、みんな底に穴が空いてんだ。注いでも注いでも、少しずつ漏れる。だから注ぎ続けた奴だけが強い。歳を取ると穴が広がって、注ぐ量より漏れる量が増える。それが衰えるってことだ。俺の膝もそれよ。膝だけじゃねえ。目も、勘も、若い頃に注いだものが、いまはもう半分も残っちゃいねえ。……おまえのは、それがない。漏れない器だ」


爺は火箸で灰に丸をひとつ描いて、すぐ消した。


「東の剣士は笑い話にしてた。そんな生まれがあったら化け物だ、いや、化け物にすらなれん、ってな。若いうちはただの出来の悪い凡人にしか見えねえからよ。周りが本物だと気づく頃には、当人は爺むさい歳になってる。……俺も笑って聞いてた。五十年も前の話だ」


囲炉裏の火が小さく鳴って、爺は俺に目を戻した。


「言っとくが、羨ましい話とばかりも言えんぞ。漏れない器ってのは、注がなきゃただの空っぽの器だ。おまえの伸びは遅い。人の倍注いでやっと一段だ。近道はねえ。覚醒だの開眼だの、そういう当たり札は、おまえの籤には最初から入ってねえ。そのかわり――」


「そのかわり、死ぬまで注げます」


「そうだ」爺は初めて、はっきりと笑った。「天才どもはな、小僧、どこかで止まるんだ。若いうちに山の八合目まで駆け上がって、そこで穴と注ぎが釣り合っちまう。あとは景色を眺めて下るだけよ。俺もそうだった。銀札なんて言やあ聞こえはいいが、俺の皿は四十で釣り合って、あとは漏れる一方だった。……おまえは遅い。だが止まらん。止まらん奴がどこまで行くのか、俺は見たことがねえ」


囲炉裏の火が爆ぜた。


「明日から稽古を変える。それと小僧、この話は俺とおまえだけのものだ。漏れない器なんぞ、知られたら碌なことにならん。囲って飼おうとする金持ちか、気味悪がって石を投げる連中か、どっちにしろ碌なもんが寄ってこねえ。いいな」


「はい」


「よし」爺は立ち上がって、戸棚から古い革の鞘を出してきた。「ついでだ。鉈はもうやめろ。見てて肝が冷える」


中身は、幅広の無骨な短剣だった。爺が冒険者時代に予備で差していたものだという。


鞘の革は乾いて白茶けていたが、抜いた刃には曇りひとつなかった。手入れだけは欠かしていなかったのが分かる刃だった。


柄は俺の手には少し余ったが、その重さは、なぜか最初から手に馴染んだ。


「研ぎ方と手入れも教える。得物ってのはな、皿の外側の皿だ。注いだ手入れのぶんだけ、いざってときに応えやがる」


その場で、研ぎの一度目を教わった。砥石の据え方。刃の当てる角度。引くときだけ力を入れること。


爺の節くれた指が刃の背を押さえて、しゅ、と一度だけ引いて見せる。俺は同じ角度で十回引いた。


十回とも同じ音がするようになるまで、囲炉裏の前で半刻かかった。頭で覚える角度ではなく、指の腹と耳で覚える角度だ。


こういうものまで残る体でよかったと、砥石の水を替えながらつくづく思った。


その晩、俺は短剣を抱いて帰り道を歩きながら、胸の中で今日の勘定をした。今日得たもの。爺の信用。器の名前。


研ぎの角度。短剣一振り。それから、俺の他にもいたかもしれない誰かの話。百年にひとり。二百年にひとり。


その誰かがどこまで行ったのか、東の剣士の笑い話は教えてくれない。なら俺が、行けるところまで行って確かめるだけだ。


翌日から、爺の稽古は本当に変わった。


足運びの線の隣に、獣の足の置き場が加わった。四つ足は前脚の出た側にしか速く曲がれないこと。


低い相手には腰から下を守る半身があること。一対一の間合いと、二対一の間合いは別の生き物だということ。


爺の中に眠っていた銀札の引き出しが、あの晩を境に音を立てて開き始めた。教わる端から、ひとつ残らず俺の皿に沈んでいく。


沈んだものは、二度と浮いて出ていかない。

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