5 森の牙
初めての実戦は、向こうから来た。
十三の冬だった。その年は秋口から雨が少なく、森の実りが薄かった。
どんぐりも木の実も裏年で、狩人が言うには鹿の腹の脂が例年の半分もなかったという。実りが薄い年は獣が里に降りる。
畑の際の芋が掘り返され、羊の囲いの杭に爪の痕がついた。獣だけならまだいい。獣を喰うものも一緒に降りてくる。
村の大人たちの世間話に森という言葉が出る回数が増えて、口調が少しずつ重くなっていった。
その日、俺は森の入り口で薪を集めていた。
手には鉈と、束ねた薪。雪の前に薪小屋を満たすのは三男坊の仕事だ。倒木を鉈で払い、背負える束にして、道端に重ねていく。
三往復目だった。日は傾きかけていたが、まだ森の縁だ。振り返れば村の煙も見える。油断というなら油断だった。
薪集めにもやり方はある。倒木のどこに鉈を入れれば一発で払えるか。束をどう組めば背中で暴れないか。
地味な工夫の一つひとつが手の内と腰の稽古になって、俺はこの仕事が結構好きだった。
この日の俺は三束目の出来に満足して、いつもより半刻ばかり長く森の縁に居座っていた。日が傾くと森の音が変わる。
昼の鳥が黙って、夕の鳥が鳴き出す。その入れ替わりの静けさを、俺はまだ「当たり前」の側だと思って聞いていた。
風が変わった瞬間に、匂いが来た。
獣の匂いだ。それも嗅いだことのない、濡れた鉄みたいな匂いが混じっている。羊でも鹿でも狐でもない。
羊追いの五年で鼻に覚えさせた村の匂いの帳面に、載っていない匂いだ。俺は薪の束を置いて鉈を持ち直した。
考えてそうしたのではない。五年の足運びが、勝手に半身を切って、勝手に木を背にしていた。
藪が割れて、出てきたのは牙犬だった。
狼より一回り大きい。肩の肉が瘤みたいに盛り上がって、名前の由来の下顎の牙が、唇の外まで反り返って伸びている。魔物だ。
行商人の世間話と爺の昔語りでしか知らなかったものが、十歩先で、俺を飯として見ていた。
肋骨が浮いている。腹の皮が背骨に張り付きそうに凹んでいる。飢えている。飢えた獣は引かない。
それも羊追いの五年で知っている。逃げる背中は必ず追われる。里まで走って届く足は、十三の俺にはない。
木に登る手はあるかと一瞬だけ考えて、捨てた。この間合いでは、登り切る前に足を喰われる。
牙犬は、すぐには来なかった。
頭を低くして、肩の瘤を波打たせて、円を描くように半歩ずつ横へ回る。俺の正面を外しに来ているのだ。
獣のくせに、と思ってから、逆だと気づいた。獣だからだ。正面から行けば獲物が暴れると、骨の髄で知っている。
俺は牙犬が回るぶんだけ、木を背にしたまま半身の向きを合わせ続けた。爺の庭の、丸い線。
相手の周りを回る足は、回られる側の足でもある。息が浅くなる。手のひらの汗で鉈の柄が滑る。
握り直す自分の指の音まで、やけに大きく聞こえた。怖い。怖いが、足は線の上にいる。
頭の恐怖と足の稽古が別々に動いてくれることを、俺はこのとき生まれて初めて知った。
やるしかない、と決めるまでに一呼吸。決めてからのことは、正直なところ半分も覚えていない。
覚えているのは断片だ。
牙犬が地を蹴った。低い。速い。前世の面打ちの間合いの、倍の速さで間合いが消えた。考える時間はなかった。
考えなかったから、体が出た。左足が勝手に半歩滑って、軸が木の陰に隠れて、牙が俺の腿のあった場所を噛み潰した。
あった場所、だ。足運び千日。皿は、深かった。
鉈を振り下ろした。首を狙ったはずが肩に入った。当てる稽古と斬る稽古は別物だと、その手応えで思い知った。
刃は骨に食い込んで、抜けない。牙犬が体を捩って、俺は鉈ごと引き倒された。雪と泥。
世界が横倒しになって、牙が目の前で鳴る。顎の力は腕力の比ではない。組み伏せられたら終わる。腕で庇った。
厚着の袖ごと前腕に牙が入って、痛みより先に、熱いと思った。
それでも手だけは鉈を離していなかった。
膝を抜く。腰を回す。乗られた体の下から軸を外す。ぜんぶ爺の稽古でやった形だ。
庭の土の線の上で、何百回も何千回もやった形だ。魔物と組み合う稽古なんて一度もしていない。
だが体の使い方というのは、相手が人でも犬でも同じ理屈でできている。
軸さえ外れれば、相手の重さは相手の重さのまま地面に流れる。
俺は半身分だけ外に逃げて、肩に埋まったままの鉈を、体重ごと捻り込んだ。
骨の折れる音がした。
牙犬が仰け反った一瞬に、俺は鉈を抜いて、今度こそ首に落とした。一度。二度。
手応えが変わって、それでも足りない気がして、三度目で、動かなくなった。
◇ ◇ ◇
気がつくと、俺は雪の上に尻をついて、湯気の立つ死骸と自分の腕を交互に見ていた。
左の前腕から血が滴っている。袖を裂いて確かめた。牙の痕が四つ。肉は割れているが、指は動く。骨は無事だ。
体の震えは、寒さのせいだけではなかった。歯の根が合わない。吐きそうだった。実際、少し吐いた。
雪に手をついて、胃の中のものを空けて、それでも震えは止まらなかった。
命のやりとりというものを、俺は生まれて二度の人生で初めてやった。
前世の三十五年に、こんな時間は一度もなかった。試合は命を取らない。営業は命を取らない。
車と病だけが命を取って、あれは戦いですらなかった。怖かった。いまも怖い。この震えは当分止まりそうにない。
だが震える頭の芯のところで、妙に醒めた声がひとつ、こう言っていた。
――出たのは、積んだものだけだったな。
火事場の力なんてものは、どこからも湧いてこなかった。窮地に目覚める眠れる何かも、血の中に隠れていた才も、何もだ。
あの一瞬に俺を生かしたのは、五年ぶんの足運びと、素振りと、爺の口の悪い説教だけだ。半歩の外しは千日の線の上にあった。
軸の外しは庭の土の上にあった。やっていなかったら、いま雪の上で湯気を立てているのは俺のほうだった。
傷口を雪で洗って、手拭いで縛った。それから死骸の始末を考えた。
鉈は棄てずに拾った。刃こぼれがひどく、柄には俺の握りの形のまま血と脂が染みていた。道具は正直だ。
俺の未熟の形が、そっくり刃こぼれになって残っている。首を狙って肩に入った一撃の角度。骨に噛んで抜けなくなった深さ。
全部この刃が覚えていてくれる。研ぎ直しながら、ひとつずつ帳面に移せばいい。
薪はぜんぶその場に置いて、俺は牙犬の尻尾だけ切って、村まで歩いて戻った。
討伐の証というものは尻尾でいいと、爺の昔語りで聞いていたからだ。こんな知識ばかり先に役に立つ。
村の煙が近くなった頃、膝から急に力が抜けて、俺は道端に少し座り込んだ。
手の中の尻尾は硬くて、冷たくて、嘘みたいに重かった。十三年目の地力は、今日初めて命の重さを量られて、足りた。
次も足りるとは限らない。なら、重ねるだけだ。震えの止まらない手のまま、俺はそれでも、いつもの癖で今日の勘定をしていた。
村境で最初に行き会ったのは、罠の見回りに出ていた狩人だった。
俺の腕の血と、手の中の尻尾を見て、狩人の顔から音を立てて色が引いた。
牙犬か、と訊かれて頷くと、狩人は俺を背負おうとして、断られて、それでも鉈と手荷物だけ引ったくるように持って、家まで並んで歩いてくれた。
歩きながら、何度も横目でこちらを見る。その目つきの意味を、このときの俺はまだ分かっていなかった。
十三の子供が牙犬の成獣を一人で仕留めて自分の足で帰ってくるのが、この世界の物差しでどれほど外れたことなのか、俺の帳面にはまだその頁がなかったのだ。
家に着くと、母が俺の腕を見て悲鳴を上げて湯を沸かし、父は土間で狩人と長いこと何かを話し込んだ。
その晩の飯は、俺の椀にだけ干し肉が一枚多く載っていた。誰も何も言わないままの一枚だった。
囲炉裏の火を見ながら、俺は震えの抜けきらない指を組んで、あの数十秒をもう一度最初からさらった。恐怖は薄れていない。
だが恐怖の隣に、揺るがない事実がひとつ座っている。身につけたものは、出る。命の瀬戸際で、稽古した形だけが出る。
なら明日からの俺のやることは何も変わらない。むしろ、何も変えてはいけないのだ。




