57話 一頭だけ下りてくる
それは藪を割らずに出てきた。最初に見えたのは牙だった。夕日の色を吸って飴のように光っていた。
太い。俺の腕より太いと言ったヤンさんの言葉は大袈裟ではなかった。牙の次に鼻面が出た。
それから肩が出るまでが長かった。肩の高さは俺の胸の上あたりだ。大牙猪だと分かっているのに、去年見た番いの雄とは別のものに見えた。
右の耳が根元から裂けていた。肩の脇に古い傷が三本並んで走っている。岩鹿の喉と雌の骨と同じ幅の傷だった。
この獣は番いを殺されて自分も裂かれて、生き延びた側だ。生き延びて下りてきた。
「戸板、前へ!」
ガッシュさんの声が森を叩いた。担ぎ手の二人が走り、コルが先を払う。俺は列の後ろで腰を落とした。
匂いが先に届いた。獣くさいのではない。泥と血と腐った肉の混じった匂いだった。
殺したものを食わずに置いてきた獣の匂いだ。鳥が頭の上で一斉に散った。この森で鳥が飛ぶのを見たのは三日ぶりだった。
「弓は右! セドは左! 新入りは後ろだ!」
ガッシュさんの指図はいつも短い。短い指図は走りながらでも聞ける。俺は指図された場所へ入りながら三つ数えた。
間合い十二歩。逃げ道、右の斜面と後ろの倒木。守るもの、戸板と担ぎ手が四人。
三つ数え終えると体の震えが止まる。震えは止まっても怖さは消えない。怖さは数える場所の外に置いておく。
置き場所さえ決めておけば手は動く。
◇ ◇ ◇
一度目の突進はまっすぐ来た。俺は旗を振る役を選んだ。外套を左手で大きく振り、体は右へ半歩ずらす。
布は目を引く。目を引かれた体は布のほうへ肩が入る。肩が入れば突進の線はそちらへ曲がる。
去年の秋、猪の突進線を曲げて盾へ導いたのと同じ手だ。線は曲がり、曲がった先に盾持ちがいた。
盾持ちは正面で受けずに斜めに構えて滑らせた。滑らせるはずだった。鈍い音がして盾が縦に割れた。
割れた盾ごと盾持ちが五歩飛んだ。斜めに逃がした力を上から潰された。この獣は当たる瞬間に鼻面を跳ね上げる。
そんな猪は見たことがない。
「セド!」
ガッシュさんが叫び、槍が伸びた。穂先は肩の後ろに入って止まった。脂と筋肉と泥の層だ。
セドさんが柄を捻る前に獣が体を振った。樫の柄が乾いた音で折れた。
◇ ◇ ◇
二度目の突進まで二呼吸しかなかった。俺はもう一度旗を振った。振って半歩右へ。
獣は布を見なかった。見ずに俺の体のほうへ来た。背筋が冷えた。一度使った手が二度目に通じない。
これは獣ではなく、人と戦うときの話だ。俺は半歩を捨てて大きく跳んだ。跳んだ場所に牙が来た。
外套の裾が持っていかれて肩の縫い目から裂けた。地面を転がって立ち上がる。立ち上がった時には、獣はもう俺を見ていなかった。
戸板のほうを見ていた。この獣はいま、俺が動かせないものが何かを知った。
◇ ◇ ◇
戸板が二十歩先で止まっていた。担ぎ手が下ろして構えようとしている。
「下ろすな!」
俺は叫んだ。下ろせば次に担ぐまでに三呼吸かかる。三呼吸あれば、この獣は二十歩を詰める。
担いだまま歩けば遅くても止まらない。止まらないものは追いつかれるまでに時を稼ぐ。
担ぎ手がまた歩き出した。コルが先で枝を払っている。払う手が震えていたが止まってはいなかった。
三日眠っていない体でまだ動いている。人は案外こういう時に折れない。折れるのはたいてい終わったあとだ。
俺は割れた盾のほうを見た。盾持ちは木の根元で動けずにいた。右腕があらぬ方を向いている。
五人が四人になった。
◇ ◇ ◇
ガッシュさんの斧が首の付け根に入った。真上から体ごと落とした一撃だ。刃は指二本ぶんは入ったと思う。
入ってそこで止まった。肩の骨に当たったのだ。斧を抜こうとしたガッシュさんの腰に、獣の頭が入った。
人が木の幹まで飛んだ。肋の折れる音を俺は初めて生で聞いた。弓手が三本射た。二本が皮で滑り、一本が首に立った。
立っただけだった。血は出ているが、この量ではこの体は止まらない。弓手が俺の横へ走ってきた。
「通らねえ。皮が厚い」
弓手の指が震えていた。弓を持つ者の指が震えるのは致命的だ。
「弓は置いてください」
「なんだと」
「置いて、戸板の前を持ってください。担ぎ手が一人足りません」
弓手は一度だけ俺を睨んで、それから走った。走った先が戸板だったので、それでよかった。
勘定を頭の中でやり直す。盾は割れた。槍は折れた。斧は肩で止まった。矢は効かない。
隊長は肋をやられて動けず、盾持ちは腕が折れている。戸板は四人担ぎで、あと半刻の下りだ。
担げるのはセドさんと弓手とコルさんと、無理をする隊長で四人。担いだら残るのは一人だ。
◇ ◇ ◇
「新入り」
木の根元でガッシュさんが片膝で起きていた。口の端が切れていた。
「掟を一つ外す」
息が途中で切れる。
「列を離れろ」
俺はその言葉を一度だけ聞き返した。
「離れろ、ですか」
「離れて、後ろで足を止めろ。半刻でいい」
ガッシュさんは折れた肋を押さえながら言い切った。
「勝つな。止めろ。それも無理なら、逃げろ。……戸板は俺が担ぐ」
「その体でですか」
「四人めが要るんだよ」
言い合っている暇はなかった。獣は頭を低くしてまた前肢で土を掻いている。俺は腰の短剣を抜いた。
抜いてから初めて、自分の手が震えていないのに気づいた。震えていないのは勇気があるからではない。
やることが決まっているからだ。半刻足を止める。それだけの仕事だ。仕事の中身が決まっていれば手は震えない。
四年そうやってきた。
「セドさん。あの沢の抉れ、下りられますか」
「戸板は無理だ」
「なら、そこは俺が使います。皆さんは尾根の道で」
俺は言いながら足の裏で地面を読んでいた。右の斜面。落ち葉の下、緩い土。その先に去年の倒木。
その向こうに沢の抉れ。道が頭の中で三本の線になった。
◇ ◇ ◇
列が動き出した。コルが振り返って何か言おうとした。
「行ってください」
俺はそちらを見ずに言った。
「七人で帰る勘定です」
足音が遠ざかる。遠ざかるまでの間、俺は獣の前に立っていた。立っているだけで獣は動かなかった。
動く相手から潰す獣なのだ。止まっているものは後回しにする。
積んだものは減らない。こんな積み方でも減らないのだろうか。減るなら少しは楽だ。
減らないなら、この獣の形は死ぬまで俺の中に残る。残るなら使うしかない。使えるものにしてから帰る。
それが俺の勘定の付け方だった。俺は間合いを測った。九歩。九歩はこの獣にとって二呼吸だ。
二呼吸で来るものに二呼吸で出せる手を、俺はいくつ持っているか。数える。数え終わる前に獣が土を蹴った。
夕日が森の上から消えかけていた。




