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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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56話 運ぶ列

人を一人乗せた列は、行きの倍の時を食う。戸板は夜明けを待って作った。太い枝を二本、縄で外套を張って渡す。


結び目はセドさんが締めた。


「担ぐ縄は必ず二重にする」


セドさんは手を動かしながら口でも教えてくれた。


「一重は切れたときに全部落ちる。二重は片方切れても半分残る」


半分残る作りにしておく。


覚え方の型を持っていると、書けない場所でも覚えられる。


◇ ◇ ◇


窯の底から引き上げるのに一刻かかった。ヤンさんの右脛は添え木で固めた。添え木はコルが自分の斧の柄を割って作った。


「柄はまた削ればいいんで」


道具を惜しまない者は道具の使い方を分かっている。ヤンさんは引き上げられる間、一声も出さなかった。


痛くないはずがない。声を出さないのは痛みを我慢しているのではなく、音を出さないためだった。


この人は窯の底で三日、そうしていたのだ。


◇ ◇ ◇


下りは行きの道を戻らなかった。行きは足跡を追う道で、帰りは戸板の通る道だ。選ぶ物差しがまるで違う。


傾斜のきつい場所は担ぎ手の足が滑る。沢の渡りは石の間が広いと戸板の端が落ちる。


俺は先に立って道を選んだ。草鞋の裏越しに石の座りを読んで進む。


「新入り」


ガッシュさんが後ろから呼んだ。


「石を選ぶのが早すぎる。おまえの足で選ぶな。四人で担いだ足で選べ」


言われて自分の癖に気づいた。俺は一人で通れる道を選んでいた。俺の足は緩んだ石でも踏み外さない。


だが後ろの四人は荷を持って両手が塞がっている。一人の物差しで選んだ道は五人の道にならない。


選び直すと道は倍の長さになった。倍かかる道が正しい道だった。次からは迷ったら長いほうを選ぶ。


◇ ◇ ◇


昨日の岩鹿の場所を下から迂回して通った。通りながら俺は沢の縁を見ていた。新しい蹄の跡が水際に並んでいた。


昨日の泥場のものと大きさが同じで、向きは下だった。


「下りてます」


俺は小声でガッシュさんに言った。


「あの猪がか」


「はい。夜のうちに、ここを通ってます」


「俺たちより先か」


「先です」


先に下りたものは、こちらの帰り道の上にもういる。追いかけてくるものより、待っているもののほうが厄介だ。


追うものはこちらの背を見るが、待つものはこちらの正面を選べる。ガッシュさんはそれだけ聞いて列の間隔を詰めさせた。


詰めた列は遅くなる。遅くても離れているよりはいい。俺は殿の位置で、後ろと横を交互に見ながら歩いた。


◇ ◇ ◇


昼の休みに、ヤンさんが初めて長く喋った。水を飲んで少し血の気が戻った顔だった。


「二十年前にも、あった」


誰も何も聞いていないうちにそう言った。


「俺が四十五の年だ。あの年も岩鹿が下りてきた」


コルが水筒を持ったまま固まった。


「棚が下りる、ってやつだ。うちの親方が言ってた。……そのときの親方が、俺の師匠だ」


「その人は」


俺が聞くと、ヤンさんは天を見た。


「帰らなかった」


風が木の上を通っていった。


「捜しに入ったのが七人。帰ったのが六人だ。……六人のうちの一人が、俺だよ」


ヤンさんの手が添え木の縁を撫でた。


「俺はあんときの六人目だ。だから今度は俺が帰らねえほうだと思ってた」


言い方に諦めではないものが混じっていた。順番を待っていた人の言い方だった。二十年この人は自分の番を数えていたのだ。


俺はその数え方を知っている。俺のは増える数え方で、この人のは減る数え方だった。


同じ数えるでも、向きで人の顔が変わる。


「ヤンさん」


俺は言った。


「今年は七人入って、七人で帰ります」


ヤンさんは少し目を細めた。


「威勢のいい銅札だな」


「勘定の話です」


「勘定か」


「はい。帰る人数は決めてから入るものだと教わりました」


ベルガさんの受け売りだった。受け売りでもこういう場所で使えれば、それは自分の言葉になる。


◇ ◇ ◇


戸板を担ぎ直す間、ヤンさんは俺に木の話をした。寝たままの声で、指も動かせないのに目だけは動いていた。


「そこの橅、見えるか」


「はい」


「根元の苔が片側だけ濃いだろう。あっちが北だ」


俺は屈んで確かめた。濃い側と薄い側がはっきり分かれていた。


「夜になって、月も星も出てなくて、道を見失ったらな。木の根を触れ」


「苔でですか」


「一本じゃ駄目だ。三本触って、同じ側なら、それが北だ」


一本では決めない。三本で決める。俺の数える癖と根が同じだった。


「山は人を嫌っちゃいねえ」


ヤンさんは目を閉じたまま言った。


「ただ、こっちが順番を間違えるだけだ。入る順番、帰る順番、手をつける順番だ」


順番。その言葉はこの春に一度、婆さんからも聞いている。教える順番を残り時間から逆に引いて組む人がいた。


道の順番を五十年かけて体に入れた人がいる。積み方の違う二人が同じ言葉を使っていた。


◇ ◇ ◇


午後は俺が殿を歩いた。戸板が真ん中、担ぎ手が四人、コルが前で道を払う。いちばん後ろに俺が一人。


殿は退屈な場所ではなかった。列の後ろはいちばん早く追いつかれる場所だ。歩きながら俺は自分の型を組み直していた。


二対一の型は、二方向から来るものを半歩の外しで一本の線に並べる型だ。河原で四年やってきた。


だがあの型は俺が生き延びるための組み方だった。外して抜けて位置を取り直す。


抜けたらその後ろは空く。いまは後ろに戸板がある。抜けたら抜けた先に人がいる。


同じ型を抜けずに使わなければならない。半歩の外しはそのまま、次の一歩を後ろではなく横へ置く。


横へ置けば線は自分の前で交わる。交わった線は自分の体で塞ぐことになる。塞ぐ形は稽古で一度もやったことがなかった。


やったことのないものは実戦で出ない。出ないものをいま組もうとしている。俺は歩きながら、右足の置き所を五十回、心の中で置き直した。


置き直しただけの型がどこまで持つかは分からない。分からないが、置き直しておかないと一度も出ない。


◇ ◇ ◇


日が傾いて木の影が長くなった。二段目の下、あと少しで一段目という場所だった。


後ろの藪が鳴った。俺は足を止めずに歩調だけ落とした。止まるとこちらが気づいたことが伝わる。


三十を数える間、同じ速さで歩いた。藪の音は離れず、同じ距離でついてきている。


昨夜の音とは違った。昨夜のはこちらを気にしていない音で、今日のはこちらの速さに合わせている。


俺は前を向いたまま低い声で言った。


「隊長。後ろに、一つ」


「距離は」


「六十歩。合わせてきてます」


少し間があって、ガッシュさんの声が返った。


「蹄か」


俺は足の裏に意識を落とした。草鞋越しの遠い揺れ。重い。硬い。四つに割れている。


「蹄です」


言った瞬間、後ろの藪の音が消えた。消えたのは止まったからではなく、草を分ける音をやめたのだ。


やめられるということは、いままでわざと立てていたということになる。

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