55話 窯の底
親方は森の上ではなく地面の下にいた。斜面を上りきると、そこが三段目の際だった。
際は線が引いてあるわけではない。ただ木が変わる。二段目までの橅と楢が切れて、黒い針葉樹が詰まって立っている。
下生えが薄く地面が暗い。入ってすぐの五歩先がもう見通せない。誰も入らない場所は、入るなと書いてなくても入る気が失せる作りになっていた。
「行きましょう」
コルが前に出ようとした。
「入るなと言われてる」
セドさんが槍の柄で行く手を塞いだ。
「親方が中にいるんだ」
「中にいるかどうかも、まだ分からねえ」
コルの肩が震えた。俺はその間に割って入らなかった。割って入る立場ではない。俺は半分の五人目で、決める人ではない。
できるのは材料を出すことだけだ。
「隊長。跡は際で切れています」
俺は膝をついたまま言った。
「斜面を上りきったところまでは、右足を庇った跡があります。ですがこの先の地面は、針葉の落ち葉で、跡が残りません」
「中を捜すのに、どれだけ要る」
「見通しが五歩です。五人で横に並んでも、一度に見えるのは幅二十歩ほどです」
俺は指で線を引いてみせた。
「日暮れまで四刻。捜せるのはたぶん二百歩四方だけです」
ガッシュさんはしばらく黙って森の口を見ていた。それから斧の柄で地面に線を引いた。
「ここまでだ」
線は際から十歩ほど中に引かれた。
「日暮れまで、この線の内側だけ捜す。火は焚かん。声は出す。日が落ちたら全員下りる」
「入るな、と言われています」
俺が言うと、ガッシュさんは線を指した。
「際までだ、と言われた。際ってのは線じゃねえ、幅だ。十歩は際のうちに入る」
言い切ってからこちらを見た。
「これ以上は入らん。文句は帳場で俺が聞く」
同じ言い方を俺は昨日の朝にも聞いていた。文句を引き受ける言葉は、この街では責任を持つという意味らしい。
「たった十歩ですか」
コルが食ってかかった。
「十歩でいい」
ガッシュさんはコルを見ずに答えた。
「おまえの親方は五十年山を歩いた男だろう。そういう奴は遠くへは行かねえ。動けなくなったら、いちばん近い隠れ場所に入る」
隊長の頭の中の、これが物差しだ。
◇ ◇ ◇
線の内側を五人で潰した。名を呼びながら歩く。ヤンさんと俺も呼んだ。会ったことのない人の名を呼ぶのは妙な感じがした。
返事は無い。風が針葉を鳴らす音だけが返ってくる。二刻で線の内側を二度潰し終えた。
三度目は無駄になると分かっていた。同じ場所を同じ目で見ても、同じものしか見えない。
目を変えなければならない。俺は歩くのをやめてしゃがんだ。考えるときはいつも同じ姿勢をとると決めている。
姿勢が同じだと頭の入り口も同じ場所に開く。親方は右足を庇っていた。庇う足では木は登れない。
登れない人が追われて隠れる場所はどこか。岩の窪み。倒木の下。沢の抉れ。線の内側にそのどれも無かった。
無いなら、俺の知らない種類の隠れ場所がある。俺は立ち上がってコルを呼んだ。
「この辺りに、人の手の入った跡はありますか」
「三段目ですよ。誰も入りません」
「昔もですか」
コルの動きが止まった。
「……じいさんの代に、炭を焼いてたって聞いたことがあります」
「ここでですか」
「もっと上だと。木が良かったからって。俺は場所を知りません」
炭焼きの窯は地面に穴を掘って作る。使わなくなった窯は土をかぶって、少し盛り上がった塚になる。
塚の下は空だ。空の場所は人ひとりが入れる場所だ。俺は線の内側の地面を見渡した。
落ち葉が厚く目では起伏が読めない。目で読めないなら足の裏で読むしかない。
◇ ◇ ◇
「隊長。少し、変わったやり方をします」
俺は草鞋を脱いだ。誰も何も言わなかった。灰羽の四人は、俺が地面に手を当てたり裸足になったりするのを去年から何度も見ている。
変な奴の変な稽古で通っているのは、こういう時に助かる。裸足の裏を針葉の落ち葉に下ろす。
冷たい。冷たさの奥に地面がある。腰から膝、膝から踝、踝から足の裏へ。一筋を切らさずに下ろす。
庭の薪の上で通した道が、誰も入らない森の底でも同じように通った。場所が変わっても出るものだけが実戦で出る。
あの十日を俺は一日も休まなかった。休まなかった十日が、いま人一人を捜す道具になっている。
足の裏に地面の絵が上がってくる。石の座り。根の張り方。水の通っている筋。俺は線の内側を裸足でゆっくり歩いた。
一歩ごとに下からの返りを聞く。詰まった土は硬く返り、水を含んだ土は鈍く返る。
空の場所は返ってこない。三十歩目で返りが抜けた。足の裏の下から返事が消えたのだ。
俺はその場所で止まった。
「ここです」
落ち葉をどけると黒い土と崩れた石組みの縁が出た。窯の口だ。半分は崩れた土で塞がっていた。
塞がった土の隙間に、一箇所だけ擦れた跡があった。人が腹這いで入った跡だ。
「ヤンさん」
俺は口を近づけて呼んだ。返事は無い。もう一度呼んだ。二呼吸ほどの間があって、下から掠れた音がした。
言葉になっていなかった。言葉になっていなかったが、確かに人の音だった。
◇ ◇ ◇
石組みを崩さないように土を掻き出した。コルが素手で掘ろうとして、セドさんに止められた。
「崩したら、生き埋めだ」
縄を回し、上の土を先に落として口を広げる。半刻かかった。開いた口から俺が先に入った。
いちばん体が小さいのと、いちばん札が下だからだ。窯の底は思ったより広く、人が二人膝を抱えて座れるくらいだ。
煤の匂いがまだ残っていた。その隅に痩せた男が横になっていた。髪も髭も白く、顔が土気色だった。
右の脛があり得ない角度で曲がっている。目だけがこちらを見た。
「……札は」
最初の言葉がそれだった。
「銅です」
俺は答えた。
「灰羽の隊と、木こり組のコルさんと、五人で来ました」
ヤンさんは乾いた唇を動かして笑おうとした。笑いにならずに咳になった。俺は水袋の口を指で少しずつ含ませた。
一度に飲ませてはいけない。これは雪の街道でベルガさんに教わった。水を三口含ませてから俺は聞いた。
「怪我は脚だけですか」
「腹に、擦り傷。あとは、脚だ」
声が少し戻った。
「三日、待った。……水は壁が濡れててな」
窯の底の石は湿っていた。この人は隠れ場所を選ぶときに水まで数えていた。五十年の山歩きはこういう形で出る。
いまは聞くのが先だった。
「ヤンさん。何に、追われましたか」
ヤンさんの目が天井の土を見た。
「……追われてねえ」
「え」
「あれは俺なんぞ見ちゃいねえ」
乾いた声だった。
「三段目の際で、猪が下りてきた。番いの雄だ。牙が俺の腕より太い」
俺は泥場の擦り跡の高さを思い出した。
「その猪がな、逃げてたんだ」
ヤンさんはそこで一度息を継いだ。
「何かから逃げる猪の、横っ腹に、俺がいた。それだけだ」
窯の底がしんとした。押されているのは俺たちだけじゃねえ。ヤンさんはそう言って目を閉じた。
俺は上へ声を掛けた。
「生きてます。脚を折ってます。戸板が要ります」
上でコルの声が崩れるのが聞こえた。俺は窯の底で初めて長い息を吐いた。吐いてから天井の土を見上げた。
この土の上を、猪を追い回しているものがいまも歩いている。明日はこの人を背負って、その森を下りることになる。




