54話 押し出された棚
二段目に上がって、俺は初めて棚が下りるという言葉の中身を見た。朝の森は昨夜の静けさをそのまま引きずっていた。
鳥は少なく、風は上から下へ流れている。上から下へ吹く風はこちらの匂いを谷へ送る。
匂いが下へ行く日は上のものに気づかれにくい。その代わり、上のものの匂いもこちらには来ない。
都合のいい風はたいてい片側だけ都合がいい。
◇ ◇ ◇
最初に見つけたのは岩鹿だった。岩鹿は三段目より上の岩場にいる獣だ。角が短く蹄が硬く、人の入る高さまでは下りてこない。
その岩鹿が二段目の中腹で草を食っていた。三頭。俺たちを見ても逃げなかった。
「逃げねえな」
弓手が呟いた。
「人を見慣れてねえからです」
俺は小声で答えた。
「人が怖いものだと、まだ知らないんだと思います」
人を知らない獣が人の場所にいる。それだけで、この森の並びが崩れているのが分かった。
岩鹿が下りれば岩鹿を食うものも下りる。棚は一段ずつ下へ詰まっていく。いちばん下の棚には街道がある。
去年の冬に街道へ出た狼のことを俺は思い出した。あれは飢えた顔ではなかった。ベルガさんの言った通りだ。
追われた顔をしていた。
◇ ◇ ◇
四頭目の岩鹿は死んでいた。沢筋の岩の上に横向きに倒れ、喉から肩にかけて大きく裂けている。
裂け目は三本平行だった。俺は近寄って腹を見た。腹は開いておらず、肉はほとんど減っていない。
「食ってねえ」
セドさんが槍の石突きで枝を払いながら言った。
「殺して、置いてったのか」
「三日は経ってます」
俺は蠅の集まり方と目の乾き方を見た。
「三日置いて、まだ食われてないのは、変です。鴉も来てません」
森では死んだものは早く消える。消えないのは誰も来ないからだ。この場所には大きいものが通ったあとがある。
通ったものが怖くて小さいものが寄れない。岩鹿の喉に三本の裂け目。肉は食われていない。
背中が寒くなった。食うために殺していないものを、俺は今まで一度も見たことがない。
腹が減って襲うものは腹が満ちれば止まる。止まる理由のないものはどこで止まるのか。
考えても答えの当てがなかった。当てのない問いは、そのまま抱えて次を見る。
コルは岩鹿から目を逸らして口を押さえていた。吐かずに済んだのは、昨夜の粥を残したからだろう。
残してよかったこともある。
「コルさん」
俺は声をかけた。
「この裂け目、親方の鉈でつくと思いますか」
「……つきません。鉈はこんな幅に開きません」
「では、これは道具の跡ではないですね」
コルは少し正気の顔に戻った。考えさせると、人は自分の中の恐れから一歩だけ離れる。
これもテムに使った手だ。ガッシュさんが日の高さを見上げた。
「三日目の昼だ」
日切りは五日。今日中に三段目の際まで行って、明日の日暮れに木こり小屋へ下りる。
勘定はまだ合っている。合っているうちは急がなくていい。急ぐのは勘定が合わなくなってからでいい。
◇ ◇ ◇
去年の秋、俺は同じ二段目で大牙猪の番いを見つけている。戦わずに寝床と泥場だけ書き取って帰った夜だ。
場所は覚えていた。覚えている場所は二度目からが早い。
「隊長。近くに、去年見た猪の寝床があります」
「番いの奴か」
「はい。三百歩ほど上です」
ガッシュさんは少し考えて頷いた。
「見る。近寄るな、囲むな、風下から回れ」
寝床は去年と同じ窪みにあったが、同じなのは場所だけだった。窪みの端に白いものが散っていた。
骨だ。肋の形で大牙猪のものだと分かった。牙は片方だけ残っていた。去年見た番いの、雌のほうと同じ大きさだった。
「雌のほうです」
俺は屈んで骨の割れ口を見た。肋が内側へ折れている。外から潰された折れ方だ。肩の骨には三本の傷が並んでいた。
岩鹿の喉と同じ幅だった。番いの片割れは殺されていた。殺したのは猪ではない。
◇ ◇ ◇
窪みの向こうの泥場はひどく荒れていた。泥浴びの穴がいくつも掘り返され、周りの木の皮が根こそぎ剥がれている。
剥がれ方は牙で擦った跡だった。俺は木の前に立って擦り跡の高さを見た。俺の胸の高さだ。
去年の秋に測った跡は腰の高さだった。
「……大きくなってます」
「猪がか」
「半年で、こんなに伸びるものではないはずです」
言いながら俺は蹄の跡を探した。泥の縁に深く残っていて、俺の掌よりまだ大きい。
跡の底に水が溜まって縁が崩れていない。昨日か今朝のものだ。番いを失った雄が、この泥場を荒らして回っている。
荒らし方は餌を探す荒らし方ではなく、当たり散らす荒らし方だ。獣が当たり散らすのを、俺は初めて見た。
言葉を選びかけて、やめた。見たままでいい。雄は生きている。泥場を壊して回っている。
◇ ◇ ◇
親方の物が見つかったのは、その泥場から下った沢の脇だった。見つけたのはコルだった。
「親方の、火打ちの袋です」
声が震えていた。革の袋は口が開いて中身が半分こぼれ、腰の紐が切れずに解けていた。
俺は袋を持ち上げずに周りを見た。沢の石に乾いた黒い染みがあった。血だ。量は多くない。
掌に二杯ほどだと思う。
「怪我はしてます。ただ、これで倒れる量ではないです」
「歩けるか」
「歩いてます」
俺は石の並びを足の裏で読んだ。草鞋は脱がなかった。人がいる前で毎回裸足になるのは目立ちすぎる。
草鞋越しでも石の座りの崩れ方は届いた。右へ寄って深い。右の足を庇っている。
庇う足で沢を上っていた。跡は沢を渡って上の斜面へ入っていた。斜面の上は三段目だった。
「……奥へ行ってます」
俺は立ち上がって言った。
「下りるほうが近いのに、上へ行ってます」
ガッシュさんが俺の隣に立った。
「なぜだ」
「下に、いたんだと思います。下りられなくなったから、上へ逃げたんです」
言ってから自分でその意味を飲み込んだ。親方は逃げ場所として三段目を選び、誰も入らない場所へ自分から入った。
五十年山を歩いた人がそこまでしたということだ。
◇ ◇ ◇
日はまだ高かった。三段目の際は目の前の斜面を上りきったところにある。バレンさんの縛りが頭の中で鳴った。
三段目には入るな。入る値打ちがあると見たら、一度戻って報せろ。戻れば往復で二日だ。
二日は水しか飲んでいない人には長すぎる。誰もまだ何も言わなかった。言わないまま五人とも斜面の上を見ていた。
コルの息だけがやけに大きく聞こえた。俺は上の斜面をもう一度見た。誰も入らない場所は地図がない。
地図のない場所へ入るなら、材料は多いほどいい。俺は最後に、沢の血の染みの間隔を数えた。
六歩に一つ。歩幅は狭い。狭い歩幅で上れたのなら傾斜はきつくない。きつくない斜面なら戸板は通る。
連れて帰ることまで数えて、初めて捜索の勘定になる。
材料を集める仕事はここまでだ。この先は決めることになる。決めるのは隊長の仕事だ。
俺の仕事は、決める人に正しい材料を全部渡すことだった。




