53話 森の当たり前
その夜の森は静かすぎた。泊まりの場所は一段目まで下りて作った。沢から二十歩、背に岩の壁がある平らな場所だ。
選んだのはガッシュさんで、理由は三つだった。水が近い。背が塞がっている。逃げ道が二本ある。
三つとも俺が去年から書き写している選び方だ。写しているだけで、自分で選んだことはまだ少ない。
選ぶ稽古は選べる立場になってからでは遅い。だから俺は毎回、隊長が選ぶ前に自分の答えを胸で決めておく。
今日の俺の答えは沢のもう少し上だった。外れの理由をあとで聞くつもりでいる。
◇ ◇ ◇
火は二つ焚いた。大きいのを一つではなく、小さいのを二つだ。
「明かりは広く、煙は薄く」
セドさんが枝を折りながら言った。
「一つでかいのを焚くと、火の外が真っ暗になる。目が潰れるんだ」
人の目は明るい場所を見た分だけ暗い場所が見えなくなる。守りの火は暖まるためのものではなく、見えるためのものだ。
俺は火二つと書き留めた。書いたそばから、テムに教える順番を組み直している自分に気づいた。
教える相手ができてから覚え方が変わった。覚えたものを人に渡す前提で覚えると、覚え方が丁寧になる。
利子はこちらにも付いていた。
◇ ◇ ◇
飯は干し肉と麦の粥だった。コルは匙を持ったまま、ほとんど食べなかった。
「食え」
ガッシュさんが鍋から粥を掬って椀に足した。
「明日、おまえの足が止まったら、捜す人数が一人減る」
言い方は乱暴だったが中身は優しかった。コルは黙って食べ始め、食べながら少し泣いていた。
誰もそれを見ない顔をしていた。俺は火の向こうで粥をゆっくり噛んだ。噛む数をいつも通り三十まで数える。
こういう夜こそ、いつも通りをやる。いつも通りの中身がそのまま明日の体になる。
椀を洗いに沢へ下りると、コルがついてきた。
「あの」
石の上に膝をついて、コルは水に椀を沈めた。
「親方、生きてますかね」
慰めを求められているのだと分かった。俺は慰めを持っていない。持っているのは数だけだ。
「水があれば、五日は持ちます」
「水がなかったら」
「三日です」
コルの手が止まった。
「今日で三日目です。だから、明日が境になります」
言ってから少し迷って、もう一行足した。
「ただ、あの人は森歩き五十年です。三日目まで持たせた人は、水を持たせる場所を知ってます」
根拠は鉈だった。抜く暇を惜しんで走った人は、走った先に当てがあった人だ。当てのある逃げ方をした人は、たいてい生き延びる。
コルは洗い終えた椀を胸に抱えたまま、しばらく水を見ていた。
「……数で言われるほうが、楽です」
「そうですか」
「大丈夫だ、って言われると、嘘だって分かるんで」
俺は頷いた。数で話す癖は人を安心させるためのものではなく、自分が慌てないために覚えた癖だ。
その癖が初めて他人の役に立った。
◇ ◇ ◇
見張りは二人ずつの二交代だった。俺は最初の番で相手は弓手だった。火から少し離れて岩の壁を背に座る。
座って四半刻もしないうちに俺は気づいた。森が静かすぎる。
「……鳥がいません」
弓手がこちらを見た。
「夜だぞ」
「夜鳥です。この時期なら、夜鷹が鳴きます」
去年の秋、同じ森の一段目で泊まったときは二晩とも鳴いていた。数まで書いてある。
一晩に十七回と二十二回。今夜はまだ一度も聞いていない。虫の音も薄い。薄いだけで無いわけではないのが、かえって嫌だった。
いなくなったのではなく息を殺している。森の当たり前は居るものの数で決まるが、当たり前でないものはたいてい居ないもののほうに出る。
俺はそれを爺の丘で覚えた。爺は藪の中の雉を数えさせる稽古をして、鳴いた数ではなく鳴かなかった間の長さを数えさせた。
鳴かない間が伸びたら、藪に何か入ったということだ。十年より前の丘の稽古が、いま誰も入らない森で効いている。
効いてくる場所はいつも予想の外にある。
「弓手さん」
「なんだ」
「静かなのはいつからだと思いますか」
弓手はしばらく耳を澄ませた。
「……今日の昼から、鴉を見てねえな」
鴉は死んだものの匂いに集まる。その鴉がいないというのは二通りの意味がある。死んだものが無いか、鴉も近寄らない何かが居るかだ。
俺は炭の芯で帳面に書いた。夜鷹鳴かず。鴉昼から見ず。虫薄い。三行だけの、戦わない夜の記録だ。
去年二段目の際で番いを見つけた夜も俺は同じことをした。あの夜と違うのは、書いている手が少し冷たいことだった。
◇ ◇ ◇
それは夜半に来た。火が二つとも熾になりかけた頃だ。沢の向こう二十歩ほどの藪が鳴った。
枝が擦れる音ではなく、太いものが下生えを分けて通る音だった。弓手が音もなく矢をつがえた。
俺は動かなかった。動くとこちらの位置が音になる。岩の背に体を預けたまま耳だけを開く。
音は右から左へゆっくり通り過ぎていった。急いでいない。こちらに気づいていないのではなく、気にしていない歩き方だ。
俺は足の裏を地面に押し付けた。草鞋越しでも地面の揺れは伝わってくる。重い。揺れの間が一定だった。
一つ、二つ。一つ、二つ。四つ足なら揺れは前と後ろで四つに割れる。この揺れは二つに割れていた。
一瞬だけそう聞こえた。次の瞬間にはまた四つに戻っていた。聞き違いだと思う。
思いながら俺はその一瞬を書き留めた。揺れ二つに割れて聞こえた。一度だけ。
書いておかないと朝には都合よく忘れる。都合よく忘れたことは、いつか都合の悪い時に戻ってくる。
◇ ◇ ◇
音が沢の上へ遠ざかってから、ガッシュさんが起きてきた。起きていたのだと思う。
「聞いたか」
「はい」
「追うか」
試されていると分かった。
「追いません」
「なぜだ」
「夜です。それに、依頼は調べです」
俺は火の熾を見たまま言った。
「追って、こちらが十分に見られる場所へ出たら、調べたことにならないので」
ガッシュさんは鼻から息を抜いた。
「上等だ」
そして地面に胡座をかいた。
「追うのは仕事じゃねえ。仕事はな、明日の朝、五人全員が起きてることだ」
掟の四つ目みたいな言い方だった。掟は三つ、列を離れるな、勝手に戦うな、荷を捨てるな。
三つの掟の下にいま一つ増えた気がした。俺は火に枝を足して、その一行も書き足した。
朝、五人が起きていること。
◇ ◇ ◇
交代して横になったが、寝つくまでに少しかかった。目を閉じると、揺れの間の数え方が耳の奥で続いている。
一つ、二つ。一つ、二つ。二十年前の台帳の字が暗い中に浮かんだ。棚が下りる。棚を下りさせるものがいま沢の上にいる。
その上のほうに親方の足跡も向かっている。人と獣が同じ方向へ動いている。同じ方向へ動く二つはいつか必ずぶつかる。
ぶつかる前にこちらが着かなければならない。焦るなと自分に言った。焦った足は必ずどこかで踏み外す。
踏み外した足は五人のうちの一人を欠かす。俺は息を六つ数えて吐いた。六つ吐く頃にはたいてい眠れる。
今日は十二まで数えた。数え終える前に、森のどこかでようやく夜鷹が一度だけ鳴いた。
一度きりだった。その一度を忘れないと決めて目を閉じた。




