52話 木こりの道
木こり小屋を出て半日で、俺たちはヤンの道に追いついた。沖の森は下から一段目、二段目、三段目と呼ぶ。
段は高さの話ではなく人の入り方の話だ。一段目は薪と炭の場所で、女子供も入る。
二段目は材木の場所で木こり組だけが入る。三段目から先は誰も入らない。入らない理由をこの街の者は誰も知らない。
知らないまま守っている決まりが、いちばん古い決まりだ。
◇ ◇ ◇
案内はコルという若い木こりがついた。広間の隅で夜明けを待っていた二人のうち、背の低いほうだ。
二十歳になったばかりだという。
「親方は朝いちで一人で行くんです。俺らを起こさずに」
コルは歩きながらそればかり繰り返した。
「昔からで。危ない日ほど、一人で行く」
繰り返す言い方には自分を責める癖が混じっていた。俺は聞くだけにした。責めを止める言葉を俺は持っていない。
持っていない言葉を使うと、相手はもっと黙る。代わりに道具の名前を聞いた。
「親方の鉈はどんなものですか」
「柄が長いやつです。刃に、三本筋の刻みが入ってて」
「腰の物は」
「火打ちの袋と、水筒。あとは縄です」
コルの声が少し戻った。道具の話をしている間、人は自分を責めない。これは村の父から覚えた。
「親方はどんな人ですか」
しばらく間があって、コルは答えた。
「怒鳴らない人です」
「叱らないんですか」
「叱ります。ただ、怒鳴らないで、黙るんです」
黙る叱り方はたちが悪い。怒鳴られたほうは怒鳴られた時間で払った気になるが、黙られたほうは自分で自分に言い続けることになる。
「一度、俺が濡れた木に鋸を入れて、刃を駄目にしたことがあって」
コルは歩きながら足元を見ていた。
「親方、一日中、何も言わなかったんです。夕方に、研ぎ石だけ、俺の前に置いて」
「研げ、と」
「研げ、とも言われてません。置かれただけです」
俺の師匠はよく怒鳴る人で、怒鳴ってそれで終わりにしてくれる人だった。黙る師匠と怒鳴る師匠と、どちらが優しいのかは分からない。
分からないが、この若いのが三日眠っていない理由はそれでよく分かった。置かれた研ぎ石をまだ研ぎ終えていないのだ。
◇ ◇ ◇
ガッシュさんの隊はいつもの列で歩いた。先頭が盾持ち、次が弓手、真ん中に隊長、そのあとに槍のセドさん。
俺は殿だ。半分の五人目の場所はたいてい列の後ろになる。後ろはいちばん森が見える場所でもある。
歩きながら俺は三つ数えていた。鳥の数。風の変わり目。足の裏。一段目のうちは森は当たり前の顔をしていた。
鶲が鳴き、藪の中で小さいものが動き、湿った腐葉土の匂いがする。当たり前の森はうるさい。
うるさい森は安全な森だ。
「ここです」
コルが太い楢の幹を指した。幹の腰の高さに、鉈の刻みが三本横に並んでいた。
「親方の目印です。三本で、この先も道」
「二本だと」
「引き返せ、です」
刻みは深く、三本の間が揃っていた。急いだ手ではない。俺は幹に手を当てて刻みの縁を指でなぞった。
樹液の乾き方で四日は経っていない。
「同じ印を辿れますか」
「辿れます。親方の刻みは真横なんで。俺らのは斜めです」
人は自分の癖を木に残す。残った癖が四日後に人を捜す手がかりになる。
◇ ◇ ◇
二段目へ入って、刻みは十四本目まできれいに真横だった。十五本目から傾き、十六本目は刻みが二本だった。
「引き返せ、だ」
セドさんが低く言った。
「親方はここで引き返す気だったんだ」
だが十七本目がその先にあった。斜め上へ深く一本。乱れた手だ。彫っている時間がなかった手だ。
俺は膝をついて木の根元を見た。下生えが幅一間ほど、まとめて倒れていた。踏まれたのではなく押し倒されていた。
葉の裏がそろって上を向いている。
「横から押されてます」
俺が言うとガッシュさんが屈んだ。
「何が」
「大きいものが、体で。足で踏んだなら、こう寝ません」
ガッシュさんは何も言わずに、倒れた下生えの幅を斧の柄で測った。柄二本と少し。
狼では広すぎるし猪でもこの幅は出ない。去年の秋から板に上がっていた太い獣道と、幅が同じだった。
◇ ◇ ◇
鉈はその二十歩先にあった。橅の幹に刃を半分埋めて、柄が水平に突き出ていた。
「親方の」
コルの声が裏返った。俺は柄に触らずに刃の入り方だけを見た。真横から上下の角度なしに、一息で入っている。
振り下ろした角度ではない。振り抜いてそのまま置いていった角度だ。
「投げたか、振って離したか」
セドさんが言った。
「離した、だと思います」
俺は刃と幹の間の隙間を見た。
「打ち込んだ手が抜く前に離れてます。抜く暇がなかったか、抜かないと決めたかです」
「なんで抜かねえ」
「抜く時間で、逃げる距離が減るからです」
言ってから自分の声が乾いているのに気づいた。森歩き五十年の人が道具を捨てた。
その一点だけで状況の重さはもう分かる。道具を捨てる判断は素人にはできない。
できるのは、捨てても生きて帰れる算段のある者だけだ。俺は帳面を出して書いた。
鉈、橅の幹、水平。抜かず。書きながら少しだけ息をついた。親方は算段をしていた。
算段をした人はまだ生きている見込みがある。
◇ ◇ ◇
鉈の下の地面は落ち葉が厚く、足跡は目では読めない。俺は列から一歩外れて草鞋を脱いだ。
裸足になって落ち葉の上に立つ。弓手が怪訝な顔をしたが何も言わなかった。灰羽の掟に、変な稽古をするなという項目はない。
足の裏に細い一筋を下ろす。腰から下へ関をひとつずつ順に辿らせる。庭の薪の上で十日かけて通した道は、森の落ち葉の上でも切れずに通った。
庭の薪で出たものが森の落ち葉でも出た。場所を変えて稽古しておいた甲斐が、こんな日に返ってくる。
落ち葉の下の地面が絵になって上がってくる。人の足が右へ寄って二歩、そこから先が深い。
深いのは走ったからだ。走った足跡の左に、押し潰れた土の面があった。蹄ではない。
爪が四つ。四つの間が大人の掌より広い。
「人が右へ走って、大きいものが左から並んで走ってます」
俺は目を閉じたまま言った。
「並んで、だと」
「追い越そうとしてます。挟む形です」
ガッシュさんの舌打ちが聞こえた。挟む走りをする獣は群れの走りをする獣だ。だが爪の跡は一つ分しかなかった。
群れの走り方を一頭でやっている。それが何を意味するのか、俺にはまだ分からなかった。
◇ ◇ ◇
その日は走った跡を四百歩ほど追って日が傾いた。跡は上へ向かっていた。二段目の際へまっすぐにだ。
ガッシュさんが手を上げて列を止めた。
「今日はここまでだ。下りて、泊まりの場所を作る」
「まだ明るいです」
コルが食い下がった。
「暗い森で人は捜せねえ。捜すつもりで死ぬだけだ」
ガッシュさんの声は大きくなかった。
「明日、明るいうちに二段目の際まで行く。それが最短だ」
コルは唇を噛んで頷いた。俺は草鞋を履き直して、最後にもう一度足の裏で地面を読んだ。
人の足の跡はまだ上へ続いていて止まってはいない。止まっていない足跡は、生きている足跡だ。
帳面にその一行を書いた。人の足、上へ。まだ止まらず。書いた字が今日いちばんよく書けた字だった。




