51話 一任
五年目の一行目は、帳場の奥の煤けた台帳から始まった。朝いちばん、広間にまだ人のいない刻限だった。
帳場の奥の板戸が開いていて、バレンさんが先に座っていた。卓の上に革の表紙の擦り切れた台帳が三冊。
夜通し繰った紙はめくり癖で波打っている。灰羽の四人は俺より先に着いていた。ガッシュさんが顎で座る場所を指す。
半分の五人目の席はいつも列の端だ。端の椅子はまだ冷えていた。
「揃ったな」
バレンさんは台帳を閉じずにこちらを見た。
「沖の森の三段目で、木こり組の親方が戻らん。名はヤン。森歩き五十年の男だ」
声はいつもと同じ調子だった。同じ調子なのに目の下だけが黒い。
「昨日の昼に報せが入った。三段目の際で見慣れん足跡を見つけて、奥の様子を見に行ったきりだ。今朝で三日目になる」
三日。水だけで動けるならまだ足りる。どこかを折っていれば話は変わる。
「この依頼は冬の間じゅう板に貼ってあった。銀札二名以上、と書いてな」
バレンさんは書き直された行を指の腹で叩いた。
「人選は俺が持つ。文句は俺が聞く」
文句の中に俺のことが入っているのは分かった。銅札が銀札の依頼に混じる。この街の帳場では、それだけで一言ある話だ。
「仕事は三つだ」
バレンさんは指を立てた。
「ひとつ、三段目の際までの獣の動きを見て、帳面に取る。ふたつ、ヤンを捜す」
そこで一度言葉が切れた。
「みっつ。三段目には入るな」
ガッシュさんが初めて口を開いた。
「入り口までか」
「際までだ。入る値打ちがあると見たら、一度戻って報せろ。日切りは五日。五日目の日暮れには、木こり小屋まで下りてこい」
「見つけたら」
「手は出すな」
バレンさんの声がそこだけ低くなった。
「見て、覚えて、帰ってこい。討伐の依頼じゃない。調べの依頼だ」
覚えて帰ってこい、という言い方が耳に残った。帳面に取る仕事なら俺の得意な形だ。
得意な形で頼まれた仕事は、たいてい途中から別の形になる。
◇ ◇ ◇
話が終わって灰羽の四人が支度に立った。俺だけ残るように言われた。バレンさんは台帳の一冊を引き寄せて、途中の頁を開いた。
紙は茶色く焼けて縁が粉になりかけている。字はいまの帳場の誰の字でもなかった。
太い筆で短く書いてある。沖の森、棚が下りる。三段目より上立ち入り止め。夏。
「二十年前だ」
バレンさんは頁の端を指で押さえた。
「棚が下りる、ってのは古い言い方でな。山の上のほうの獣が、そっくり一段下へ降りてくることを言う」
「押されて、ですか」
「押されて、だ」
バレンさんは俺を見た。
「去年の秋から、おまえたちが板に上げてきた報せを並べると、同じ形になる。沼の蟹が痩せて、亀が沢まで下りて、狼が街道まで出た。並べたのは俺じゃない。おまえの帳面だ」
ネラが写しを取っていたのを思い出した。書いたときはただの三行だったが、三行が二十年前の筆跡と並ぶと形が見えてくる。
「二十年前はどうなったんですか」
バレンさんは頁をめくらなかった。
「その話は帰ってからだ」
めくらない指が答えの重さを教えていた。
「いま言うと、おまえは奥まで行きたくなる」
「行きません」
「行かんな」
バレンさんは少しだけ笑った。
「おまえは行かん。だから頼んでる」
褒められた気はしなかった。行かない男だから使う、というのはそういう仕事だという意味だ。
俺は頷いて板戸を出た。
◇ ◇ ◇
広間に出ると朝の人が入り始めていた。板の前に銀札の男が二人立っている。名前は知っているし顔も知っている。
向こうは俺の名前を知らない。
「一任、ときたか」
一人が板を見たまま言った。
「灰羽は銅札の隊だろう。銀札の仕事に、銅札を出すのか」
声は俺に聞かせるための大きさだった。俺は板の前を通って掲示の写しを一枚取り、取ってから頭を下げた。
「留守をお願いします」
男は一瞬黙った。
「……なんだそりゃ」
「五日空けます。街道の見回りが二本、空きます」
嫌味のつもりはなかった。空いた仕事は誰かが埋める。それだけの話だ。男は舌打ちをして板の別の紙を剥がした。
剥がしたのは街道の見回りだった。ネラが帳場の奥からこちらを見て、口だけで何か言った。
読めなかったが、たぶん余計なことを言うな、だ。
◇ ◇ ◇
昼過ぎにヨナ婆の家へ行った。五日稽古を休む断りを入れる。庭の薪は五日分より多く割った。
割りながら婆の咳を数えた。四半刻で三つ。冬の終わりは五つだったから減ってはいる。
減っているのに声のほうが少し掠れていた。
「沖の森かい」
薪を割る音の合間に婆が縁側から言った。
「早いですね」
「帳場の受付の娘が朝いちで触れて回ってたよ」
心配の伝わり方は街ごとに違うらしい。この街のは耳が早い。
「向こうで、灯りは使うんじゃないよ」
婆の声が少し硬くなった。
「人の目のある場所で出すと、面倒が増える。あんたの灯りはまだ隠しておくものだ」
「はい」
「足は使いな」
婆は杖の先で地面を軽く突いた。
「足の裏の一筋は誰にも見えない。夜の道と、地面の下だけ読みな。それはもう、あんたの目のうちだ」
目のうち。その言い方を俺は覚えて帰ることにした。
「五日で戻ります」
「戻ってきな。夏の分の口伝はもう組んである」
前倒しの口伝は俺の留守まで勘定に入っていた。薪を割り終えて、一列多い薪の山を見た。
増やした一列が婆の何を延ばせるのかは相変わらず分からない。分からないまま手だけ動かす。
◇ ◇ ◇
夕方、兎場の帰りのテムを捕まえた。留守の五日、通いの兎場を一人でやらせる。
「五日、任せる」
「一人でですか」
「一人だ。ただし、日暮れの鐘までに街へ戻ること」
「はい」
「破ったら、帰ってから受けの型は一月やらない」
テムの顔が露骨に強張った。罰の中身をいちばん惜しいもので作ると、約束は守られる。
これも爺のやり方の借り物だ。
「沖の森の、三段目に行くんですよね」
「際までだ」
「……気をつけてください」
「地味に、慎重に、いつも通りにやる」
言ってから、昨日ネラに言われた台詞を思い出した。そのいつも通りがいちばん無茶なのだと。
俺のいつも通りは俺には普通なので、どこが無茶なのか分からない。分からないものは直しようがない。
◇ ◇ ◇
夜、納屋で荷を並べた。短剣、油紙、火打ち、塩、干し肉、水袋が二つ。帳面と炭の芯。
縄を一巻き。これは灰羽の荷の分担だ。草鞋は爺の三足のうち、まだ下ろしていない一足を入れた。
新しい草鞋は大きい仕事の日に下ろすと決めている。荷を縛って天井を見た。棚が下りる。
古い言葉を口の中で転がしてみる。押されているのは獣のほうで、押しているものはまだ帳面の白い欄にいる。
そしていま、その欄の縁に人が一人迷い込んでいる。ヤンという人に俺は会ったことがない。
会ったことのない人のために明日森へ入る。前世の俺ならそれを立派なことだと思っただろう。
いまはそうは思わない。仕事だからだ。仕事だからやる、というのがいちばん強いことを四年で覚えた。
立派さは途中で切れるが毎日は切れない。帳面を開いて今日の分を書いた。棚が下りる、二十年前。
三段目際まで。日切り五日。手は出すな。書いてから最後に一行足した。迎えに行く支度なら、十三年してきた。
灯りは点けずに指で字をなぞって閉じた。外の風が梁で一度鳴いた。明日から五日、床のない場所で寝る。
右の足の裏が床板の下の土の締まりを、いつも通りに読んでいた。




