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漏れない器 ~才能はないが、鍛えたものは消えない~  作者: 白雨


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50話 四度目の春

四度目の春の終わりに、河原で棚卸しをした。誰もいない夕方の河原で川音だけを聞きながら、帳面を心の中で開く。


四年目の帳面はめくり応えがあった。春の川は雪解けの水で少し嵩が高く、石の並びが去年の春とは変わっている。


河原は毎年作り直されるのに、ここでやることは変わらない。変わらないことを変わる場所でやり続ける。


それが俺の四年だった。川面の光が夕方の色に変わっていく。棚卸しはいつもこの時刻と決めている。


一日の終わりの光は帳面の字をやわらかくする。やわらかい字で書ける日は、いい一年だった証拠だ。


沼の大鋏に返した一寸。雪の街道の二対一。石鎧亀の五日。草鞋三足と細くなった字。


婆の前倒しの口伝。頁は明るいものばかりではない。どれも三年目の帳面には無かった頁だ。


二対一の稽古は死ぬ数が二から一になった。あと一つ。そのあと一つが、たぶんいちばん遠い。


河原の二人はもう手加減の仕方を忘れた顔で来る。忘れさせたのは俺だから文句はない。


死ぬ数が一つ減るたび稽古の中身は倍になる。最後の一つは、たぶん稽古の外でしか減らない。


だが去年の二に今年の一はもう負けない。この勝負だけは俺はいつも去年の自分に勝つ。


灯りは豆粒のまま三十を数えても消えなくなった。流しは剣先まで七呼吸。剣先の堰は四百八十と少し散らして、まだ組めない。


代わりに右の足の裏へ灯りの一筋が通った。婆に言わせれば、これこそが十年ものだそうだ。


十年ものを俺は死ぬまで飼える。急ぐ理由がどこにもない。


◇ ◇ ◇


テムは木札二年目に入った。兎は通いで十五羽、牙犬の群れの駆除では荷役として初めて森の泊まりを踏んだ。


逃げの型はもう体に入っている。次は受けの型だ。教えは相変わらず俺の皿の外で勝手に利子を生んでいる。


この春からテムは受けの型に入った。逃げの型が沈んだ体は受けを覚えるのが早い。


下がり方を知っている足は、留まり方も覚えやすいらしい。教えながらこちらの型も磨かれる。


人に渡すと自分の中の曖昧な場所が全部見つかる。見つかった曖昧は夜のうちに潰す。


教える者がいちばん教わる、と爺は言った。あの言葉の勘定がいまは体で分かる。カイは雪解けと同時に西の岩山へ発った。


金札の一行が仕留めた岩蛇の主の骨と抜け殻を見に行ったのだと、ネラから聞いた。


戸板で運ばれた道を自分の足で登り直しに行ったのだ。見て測って戻ってきたカイは、帳場で一言だけ言ったそうだ。


五年くださいと。誰に言ったのかは分からない。たぶん誰でもない誰かにだ。左払いの半拍はもう消えていた。


二百本をあの男は結局、雪が解けるまで毎日振ったらしい。削れた才は数えることを混ぜて、前より硬い何かになって戻ってきた。


五年くださいの五年が何の勘定なのか、俺は聞いていない。あの男が自分の帳面に書いた数字だ。


他人の帳面の数字は聞くものではなく、見届けるものだ。ダンは王都で選抜に残り、ロイクは北の山で罠師の二年目。


物差しは三本とも遠くでそれぞれ伸びている。いつか測り直しに来ればいい。俺はここで毎日同じだけ重ねている。


物差しが三本とも遠くへ行って河原は静かになった。静かな河原で測れるのは去年の自分との差だけだ。


それで足りる。もともとそれしか測ってこなかった。いつか三本の物差しが帰ってきた日に、俺の目盛りがどこまで刻まれているか。


それを楽しみに今日の分を刻む。


◇ ◇ ◇


夕暮れの河原で素振りをした。六つの春から数えて十三年目の素振りだ。同じ型を同じ数。


今年変わったのは、振るたびに右の足の裏が河原の石の座りをひとつずつ読んで寄越すことだ。


読めた分だけ腰の沈みがまた半寸深くなる。誰の目にも映らない半寸を、今年も俺だけが知っている。


素振りの数は六つの春から一度も欠けていない。雨の日も熱の日も狼の翌朝も。一日分の重さは豆粒より軽い。


十三年分の重さはもう誰にも持ち上げられない。振り終えて川で顔を洗った。水面の男は十九になった。


前世の三十五年と今世の十九年。足すと俺はもう五十年分を生きている勘定になる。


五十年生きて、まだ毎朝素振りが楽しみで目が覚める。どちらの人生の俺が聞いても嘘だと言うだろう。


嘘みたいな話を本当にするのが毎日という奴だ。毎日だけがそれをやってのける。俺はその毎日の側にいる。


まだ銅札で剣先の堰は組めず、岩蛇の鱗一枚に届く見込みは帳面のどこにもない。


それでいい。現在地の分かっている旅は迷わない。そして俺の路銀は今日も一日分確かに貯まった。


◇ ◇ ◇


河原からの帰り、組合の前でネラに呼び止められた。帳場はもう閉まる刻限なのに、ネラは板の前に立っていた。


「よかった、通りかかって。伝言です」


「バレンさんから?」


「明日の朝いちばんに、帳場の奥へ。灰羽にも、同じ伝言が行ってます」


ネラはそれから板の一枚を目で指した。沖の森三段目、獣の動きの調べ。冬を越して端の焼けたあの依頼書に、今日は新しい書き足しがあった。


銀札二名以上の行に線が引かれ、上からこう書き直されていた。人選受付頭に一任。


「昼に、南の木こり組から報せが入ったんです。三段目の際で、見たことのない足跡を見つけたって。それきり、奥の様子を見に行った親方が一人、まだ戻らないそうです」


ネラの声はいつもの調子を保とうとして少しだけ失敗していた。戻らない親方はこの街の生まれだという。


森歩き五十年の、山を庭にしてきた人だ。庭で迷う人ではない、とネラは言った。迷う人ではないから、皆迷った以外の理由を考え始めている。


広間の隅では木こり組の若いのが二人、まだ帰らずに座っていた。夜の森は捜せない。


夜明けを待つしかない者の背中は、見ているだけで重い。


「バレンさん、夕方からずっと、古い台帳を繰ってます。あたし、あの人のあんな顔、初めて見ました」


俺は板の依頼書をもう一度見た。焼けた紙。引かれた線。一任の三文字。


冬の間じゅう板に貼られたままだった問いに、森の奥が先に答えを寄越し始めたのだ。


沼の蟹。西の亀。沢の牙犬。街道の狼。獣を押していたものの正体は、まだ帳面の白い欄の中にいる。


だがその欄の縁に今日、足跡が一つ付いた。戻らない親方が無事でいてくれ。まずはそれを先に願ってから、俺は頷いた。


「朝いちばんに、伺いますと」


ネラは頷いて、それから少しだけ迷って言った。


「……気をつけてくださいね。まだ何も決まってないですけど。決まってから言うと、遅い気がして」


「大丈夫です。地味に、慎重に、いつも通りにやります」


「その、いつも通りがあなたの場合いちばん無茶なんですよ」


どういう意味だ、と思ったが、聞き返す前に帳場の戸が閉まった。


◇ ◇ ◇


納屋に戻って、寝る前にいつもの言葉を胸で言った。焦らない。休まない。死ぬまで重ねる。


十九の春の夜は静かに更けていく。納屋の梁で風がひとつ鳴いた。風の音の下で、右の足の裏が床板の目を読んでいる。


体は静かに明日を待っている。五年目の帳面はまだ白い。白い頁が胸を鳴らす音は、年々少しずつ深くなる。


ただ今年は分かっている。五年目の一行目は俺が書きに行くのではなく、森の奥から向こうが書きに来る。


迎えに行く支度なら、十三年毎日してきた。

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